[曽野・秦対談](3)
秦 大江裁判のもう一つのハイライトは、座間味村役場の援護係(のちぺンション経営)だった宮村幸延が、自決命令は助役だった実兄が出したものだが、援護法で年金をもらうために梅澤隊長の命令と偽ったことを認め、梅澤あての詫び状を書き、署名捺印してある現物を法廷に提出したので、大騒ぎになりました。
ところが、大江側の弁護団は来島した梅澤が宮村に泡盛を飲ませ、酔わせてむりやり書かせたと苦しい弁解をしたときは、私は思わず笑っちゃった。
曽野 だんだん歌舞伎みたいな話になってきましたね。
秦 慰霊祭に出るために来た梅澤氏は、宮村氏の経営するペンションに泊まっていたんですよ。お客がペンションの主人にむりやり、という奇想天外な筋書きなんですが、不思議なことに地裁の判決文ではこんなバカバカしい言い分を認めているんです。
曽野 筆跡でわかるんじゃないですか。
母の遺さなかったもの
秦 筆跡は、本人のものであるのははっきりしているんですが、「こう書け」ど言って、側で監視しながらむりやり書かせたという苦し紛れの言い訳を、まさか裁判官が真に受けるとは思いませんでした。
曽野 茶番ですねえ。私にとって沖縄というのは、あまり触りたくない土地になってきました。都会はめいめいが自由なことを言えますが、あそこでは圧力をかけられそうですから。
秦 私はそれを「沖縄タイムス」「琉球新報」の二大新聞が言語空間を支配して、同調圧力を加えていると見ているんですが。
曽野 宮城晴美さんが書いた「母の遺したもの」(2000年刊)と7年後に書き直した改訂版を比べると、同じ人が書いたとは信じられないくらいガラリとトーンが変わっているんですが、これも同調庄力のせいでしょうか。
秦 手記を残して亡くなった母親が嘘をついたと言わんばかりですから。親子の義理というのは、ないんでしょうか。
曽野 それなら、最初から何もおっしゃらなければよかったんですね。
秦 最初は母親が梅澤さんにお詫びしたわけですよ。それがきっかけになって、例の詫び状も書く、という流れになった。それを娘にちゃんと打ち明けて、娘は「村史」の聞き役なんかをアルバイトでやってたこともあって、よく知ってるはずです。母親が梅澤さんに申し訳ないという気持ちを語ったまま亡くなったもんだから、「母の遺したもの」というタイトルで母親の手記を入れて、出版したんです。
お母さんの初枝さんは座間味の女子青年団長で、村長や助役たちと一緒に梅澤隊長の所へ行って「みんなで集団自決するから爆薬をください」と頼んだ。「そんなものは、渡せない」と断ったのを30分も粘ったあと、隊長が「今日のところはお帰りください」と言ったというのが、お母さんの証言なんです。
初枝さんは村の長老から脅されて厚生省が調査に来た時、隊長の命令があったと偽証したのを気にやんでいたので、梅澤氏にお詫びして、真実を手記に書いて娘に残したんです。晴美さんはそれをもとに初坂を刊行したんですが、「軍命」のおかげで国から多額の援護年金が出ているのをストップされたら困る、という村の圧力があってのことでしょうか。
裁判では「母が会ったあとに梅澤隊長から軍命が出た可能性がある」と証言して、『母の遺したもの』も同じトーンで書き直し、梅澤氏の悪口も付け加えるという豹変ぶりを見せました。彼女は今、琉球大学に提出する博士論文を書いているそうですが、少々の脅しぐらいで、母親を辱めるようなことができるものなんでしょうか。
曽野 土地柄がちょっと違うんでしょうね。批判するのは私たちが理解不足かもしれません。
秦 それにしても、活字で新旧両版の証拠を残してしまったのは、大胆不敵というべきでしょう。
曽野 恥ずかしいですね。そんなに短期間に変えなきゃいけないなら、愛しているはずの母親のことを考えて、せめてずっと黙っていたら良かったのにと思いますよ。
でも、そんなに驚きません。ありうるだろうと思います。私や私の友人にはこういう人はいませんけど。
秦 似たような話は他にもあるんですね。大城将保さんという「沖縄県史」の編纂委員をやってた人です。「ある神話の背景」の書評で、曽野さんは自決命令がなかったことを立証したと書いたのに、昨年(2007)のことですが、「随分と甘い点をつけたものだと、我ながら恥ずかしくなる」と反省したー 。
曽野 それはもうご自由です(笑)。私はこの本を書いた時からずっと一貫してるんです。軍命令はなかったという証拠もないが、あったという証拠もありません。今にも洞窟の奥から決定的な文書が出てきたら私は即座に訂正いだしますと言い続けてきたんです。
それにもかかわらず、この本で赤松が自決命令を出したという説は否定されましたと繰り返し強調したのは、むしろ沖縄のジヤーナリズムでした。
秦 ただ、現地の人達は、皮膚感覚で「軍命はなかった」「なかったらしい」と思っている時に、曽野さんの本を読んで裏付けしてもらった、立証されたと思いこむんでしょうね。そこまでは止められない。
曽野 私は小説家ですが「まるで私のことを書いてくださっているように思いました」という読者が出てくる時もあります。ひどい例だと、「曽野さんが僕の心の中を盗んで書いた」という手紙を、もらったことがあります。
もっとも、1300円払って買ったのに、「なんだ、この本、つまらない。ソンした」と捨てた人もいる筈です。両方いらっしゃるんです。
秦 しかし県民大会や裁判の判決が歴史を作るわけではないし、いずれ落ちつくべきところへ落ちつくだろうと私は楽観しています。
曽野 私はもう沖縄問題から足を洗いたいんです。今は「エボラ出血熱」の勉強に凝ってるときでもありますし。
秦 これはびっくりですが、患者にお会いになりました?
曽野 いいえ。当然のことながら会えないんですけど、中部アフリカ奥地の発生源とされている地域は何度も通っているんです。この間、日本人でエボラの現場へ人ったドクターにお会いしました。この病気はグレアム・グリーン的な文学のテーマなんですよ。それで少し知りたいと思って、本はかなり読んだんですが。
秦 全身の至るところから出血して死亡率が八割とか九割とかいわれてますが、今、患者はいるんでしょうか、探せば?
曽野 いえ、いないんですよ。たぶん、この瞬間は。でも、突然発生して理由なく収束しているようです。不思議な病気ですね。
秦 次の作品はエボラというモンスターの生い立ちを追っかけての物語ですか?
曽野 エボラでもわけが分からず、助かる人もいるらしいんです。
秦 助かる?
曽野 はい。死ぬ人と治る人がいるんですね。アフリカの病気は一般に怖いものが多いので、私はアフリカヘ若者達を連れていく時にやかましく注意するのは、「いかなる動物にも触らないでください」ということです。
秦 アフリ力には他にも恐ろしい病気があるんでしょう。
曽野 ええ。コレラや赤痢はいつも。他に狂犬病と破傷風とエイズですね。この三つは、アフリカでは結果的にはいずれも100%に近い死亡率になってしまいます。どうも脱線してしまいましたので話を沖縄へ戻しますが、・・・・・・
(中略)
マサダの世界
曽野 それと私は何度か書いたんですが、やっぱりマサダのことを思い出してしまいますね。2000年前にイスラエルのマサダの城塞で起きた集団自決は、ユダヤ民族の抵抗の証として、詰り継がれました。今でもイスラエルの人たちの心の支えなんですね。
それなのに沖縄の一部の人は、「自ら選んだ死ではない。強制された死だった」と主張しはじめている。強制されて死んだのがいいのか、自ら運命を選んだという解釈の方が人間として立派なのか。「強制された死」に仕立てるのは侮辱だ、という方が世界的な感覚でしょう。
秦 戦後に理由の如何を問わず一切戦わない、という大方針がわが国に浸透してしまいましたね。そうすると、マサダの話はそれを逆なでするような話になっちゃう。したがって、沖縄の尊厳死をマサダになぞらえるのは、今の日本ではタブーなんでしょうか。
曽野 でも、日本以外のところは全部マサダの世界の人間の心を評価します。
秦 日本も昭和20年八月十五日に突然変わったんじやなくて、戦後しばらくはマサダ感覚が残っていたと思う。特攻隊も鉄血勤皇隊も、ひめゆりも、その延長で語られていたのが、20年前ぐらいから哀れな犠牲者のイメージに変わってしまったんですよ。
曽野 人の命を大事にせよという教えはキリスト教にもあるんですが、殉教の精神も尊んでいるんです。
秦 憲法第九条流の無抵抗主義ではありませんよね。それにお金に毒されると人間は変わります。戦後の沖縄は日本政府の補助金にどっぷり浸かってしまいました。米軍基地を維持するための投入もありますが、貧困だった慶良間列島なんか軍命令説の虚構でゼロ歳児まで遺族給与金をもらえるという構造ができあがり、遺族によっては年間に数百万円をもらっていました。
軍命はなかったと勇気ある発言をする人たちに、村の幹部から「黙っていろ」と圧力がかかるのは止むをえないのかもしれません。よく聞いてみると「軍命はなかった」論者は、年金をもらっていない例外的な人たちだそうです。
曽野 本土でそれに共鳴する人たちには、どんな利害があるのかわかりませんが。
秦 今、私が調べていて、正確な日付が昭和19年11月頃としかわかっていないんですが、大政翼賛会とか在郷軍人会とか一応は民間の有志による県民大会で、足手まといになる老幼婦女は自決しようと呼びかけた老人がいたそうです。あちこちから集まった町村のリーダーたちは、この呼びかけに影響されたといわれます。軍と官の大方針には反するんですが。
曽野 あり得ることですね。
秦 今の人は想像しにくいでしょうけど、会津攻めの時に会津藩の戦闘員は城に人り、戦えない老幼婦女子が自決しましたよね。「みんなで自決します」と言ってきた時に、梅澤隊長は、「この人達は、戦国落城の気持ちでいるのか」と惜然としたそうです。
曽野 当時はいろんなリーダーがいたと思いますよ。私は子供のときにも東京の今の家に住んでたんです。そうすると、町会長、隣組の組長という人がいるんです。隣組は十五軒ぐらいでしたかしら。その組長さんというのが、田舎では校長先生とか、お寺の住職とかで、オピニオン・リーダーだったようです。
隣組の組長さんには、一番お世話になりました,配給や防災訓練の消火活動の方法とか。庶民生活にはそういう人たちの影響力が大きかったんです。
(後略) (2008.7.11、曽野邸で)
最終更新:2009年05月23日 08:43