───幼い頃から、とにかく何もかもが怖かった。

風がかき鳴らす清涼なる響きが怖かった。
水が滔々と流れる深い轟きが怖かった。
陽の光が気紛れに作り出す精妙なる影の形が怖かった。
夜の闇がもたらす未知なる沈黙が怖かった。
奈落を思わせる空の果てが怖かった。
蒼穹に聳える、巨大な怪物を連想させる雲が怖かった。
満天に散りばめられた、宝石の如く魅惑的に明滅して輝く星々が怖かった。
夜空に穿たれた穴を思わせる青白き月が怖かった。
地を這うものが怖かった。
空を飛ぶものが怖かった。
生きて動いているものが怖かった。
死んで動かないものが怖かった。
父という畏怖すべき絶対なる存在が怖かった。
母という無償の愛を与える存在が怖かった。
兄という無条件で自身を庇護する存在が怖かった。
少年にとって、世界は恐怖に満ちていた。
しかし、これは周囲の問題ではなく彼自身の問題である。
それを少年自身も自覚しており、だからこそ尚更に救い難かったのだ。

客観的に見れば、少年を取り巻いていた環境はまずまず幸福な部類ではないかと言える。
古くから続く家系であるから仕来りは少々煩くはあるが、世間からすれば裕福な良家の子息。
近頃では珍しい無口で厳格な父はしかし決して理不尽でも無理解という風でもなく、威厳を備えた家長という風格で子供達に厳しくも温かく接していた。
たおやかなで楚々とした美しさを持つ母は万事控えめではあったが、子供達への偽り無き優しさで満ち無償の愛を与え続けた。
穏やかなる好青年という見た目そのままの性格で文武に渡り優秀な周囲から尊敬と信頼を一身に集める兄は、時に自身すら省みずに何かにつけ問題がある弟の少年を庇護し続けた。
そう、少なくとも彼の家族は少年を心から愛しているように見えた。
勿論の事、少年が日々生きていく上で些細な問題はあるにせよ、全体的には平穏と安定の内にあったと言えよう。
古く異質な血脈を保持し続ける世間から外れた家系ではあったが、だからこそ血の絆を深く重視し内に在るものを保護するという機構が上手く働いていたのだ。
他の古く血の濃い家系と同じく、長きに渡る一族の歴史には精神が薄弱な者や何らかの身体的な障害を持つ者が時折生まれた。
だから、そのような前例からすれば少年は比較的問題が少ないようにすら見えた。
それどころか、少年が兄と同じく希少な素質の片鱗を垣間見せた事もあり、一族が担う特殊な役目の後継者の一人として数えられていた程だった。
無論、期待などまるでされていなかったのだが。

だが……
もう少し、深く考えるべきだったのだ。
この少年が俯き何をそんなに怯えていたのかを。
この少年にとっての恐怖は何であるかということを。
つまりは、由来など無く克服も出来ないというその意味をもう少し想像するべきだったのだ。
森羅万象、等しく自身の恐れの対象であるというのは果たしてどういう事なのか?
それでも“在り続ける”もしくは“在り続けられる”のは何故か?
そこに僅かでも思いをめぐらすべきだったのだ。
その、いつも落ち着き無く四方にさ迷わせては伏せる瞳。
それを無理矢理にでも正面から覗き込むべきだった。
その悍ましさを、もっと事前に知っておくべきだったのだ───


「もういい。そこまでだ、太。剣を退け」

不動の如き正眼の構えを崩すことなく、和丹始(わに はじめ)は相対する弟である少年を痛まし気に見据える。
その声に当然の事ながら強者の驕りの響きは無く、ただただ相手への気遣いと優しさがある。
それも無理ならぬ所だろう。
彼に比べれば一回りほど小さく見える少年は、同じく刀身の長い太刀を正眼に構えているが、肩で息をしているしその全身は哀れなほど細かく震えている。
そればかりか、右腕と左脚それに脇腹は切り裂かれ薄く血が滲んでいた。
そこまでやるつもりは無かったのだがと、始は内心で舌打ちしながら父を恨めしく思った。
幾らこの『ユズリノフトマニ』が一族の厳然たる掟であるとは言え、これではまだ幼い弟を無用に痛めつけている事にしかならないではないか。
やはり、早々に太を後継候補という立場自体から解放すべきだったのだ。
アラミタマに立ち向かうなどという一族の過酷な役目など、自分が担えばいいだけの事だ。
何故にこのような、真剣で立ち合う血生臭い前時代的な決闘を弟としなければならないのか。
そう、この儀を行うと宣した父に食って掛った始だった。
このように当主である父に反抗するなど彼にとっては初めてのことだったが、言われた父の方は面食らう事も叱責する事もなく普段通りの厳しい無表情のまま静かに答えた。

『無論、この儀における勝者はお前となるだろう。武技の力量、根本的な身体能力、保有する霊力……どれをとっても、アレでは到底お前に及ばない。また、そうでなくては困る。次期当主の筆頭候補として任じたからにはな』

『でしたら───!』

『だが、我が一族には後が無いのだ。保有する霊脈は時を経て先細り、私の代に至るまでの百年余の間には遂に“断片”を宿す者すら現れない始末。それでも一族が霊脈を召しあげられ凡俗に落されなかったのは、ひとえに竹内様の恩情を賜ったからに他ならない』

抑揚が抑えられた父の低い声は、有無を言わせぬ響きを持っている。
その為、始は畏まって俯き神妙に無言で通した。
しかし
───何が恩情なものか。
───我らは、遥かな古より都合よく使われてきただけではないか。
───伝えがまことなら、それこそ体の良い道具として扱われてきたのだ。
その胸中は、そういう穏かならざるものが渦巻いていた。

『お前も知ってのように、十五年前の例の惨劇により多くの霊脈は傷つけられアラミタマはその出現の頻度を高めた。と同時に、我らのようなカミガカリもかつてではあり得ない比率で誕生しているらしい。つまり、我らが果たすべき役目はより重さも過酷さも増しているのだ』

『それは私も弁えております。しかし、それと今回の儀にどのような繋がりが?』

『……そのような危急にして存亡の危機の中、あるいはお前が役目を果たせず命を落とすという事は十分にあり得る話だ。もしくは、命を落とさぬまでも私のようにもはや戦いに赴けない身体となる事もな。アラミタマに対峙するとはそういう事だ』

始は、思わずはっと威厳に溢れた当主である父に目を向ける。
普段はその所作が自然で何の支障もなく振舞っているように見える父だが、実のところ歩く事は出来ても走る事が出来ない身体だった。
しかも、右腕が自由に利かない。
幼い頃、満身に惨たらしい傷を負い絶命する寸前で帰ってきた父を始は憶えている。
幸い命は取り留めたものの、数年は起き上がる事さえ出来ずにいた。
それから不屈の精神で辛い治療と訓練を行いここまで回復したが、これ以上はどうあっても回復しなかった。

『私の代では、一族にカミガカリは私以外いなかった。しかし、私は幸いなことに後継に恵まれた。もはやそれを以って、今まで役目を果たせなかった一族の償いをする他ない。しかも、出し惜しみは決して出来まい』

『要は……“断片”を宿せた者が一族に複数居る以上はそれらを無用に遊ばせておくことはできないと、そういう事ですか。少なくとも、私に何かあった場合即座に『代替』としての役割くらいは担ってもらわねばならないと?』

『……そうだ』

重く断言する父の表情を伺うが、始にはその真意が相変わらず読み取れなかった。
だが……この不器用で感情を表に出すことが苦手な父が実は子煩悩であり、子供達には異常に甘い事も始は知っている。
とは言え、同じくらい一族の在り方と役目について真摯で常軌を逸するほど厳格である事も知っていた。
それは和丹家秘伝の神技『スクナノミワザ』を伝授される際、充分に思い知っていた。
何しろ、幾多も生死を危うくするような修練を積まされてきたのだ。
だから、この我が子に対しての容赦の無い言いようも納得は出来るしある意味では当然なのだが……。
始自身は無論、そういう一族である事に何ら反感を抱くことはない。
今更、現在の世間の倫理観や価値観との断絶に違和感を覚えない。
但し、自分一人に対しての事ならばだ。

『しかし……父上。太にその役割が到底務まらないのはご存知の筈では? あいつは、少なくともあの臆病癖を治さない限り『何かと対する』という事自体出来ないでしょうよ。以前にあいつが悲鳴を上げて逃げだした相手を知っていますか? 猫ですよ? ほら、御山の麓の三丁目のシロですよ』

『……お前は、本当にアレに対しては目が曇るのだな。いや、気持ちは理解出来なくもない。しかし、これからは少々その心を抑えるべきだな。さもないと、思わぬところで足元を掬われる』

『───?』

始が訝しむように注視すると、父は口髭の下の唇を僅かに歪めた。
それが父の笑いの表情なのだという事を知っていた始は、その珍しさに驚く。

『アレは未だお前には及ばないが、数年後かもしくは短ければ一年後にはどうなっているか分らんな。素質だけならば、間違いなく私やお前よりも数段上だ。お前が言っていたその猫だが……あの後、アレに斬られた。“宿儺”まで持ち出してな。私が確認してみたが、あの猫は害を成すモノノケになりかかっていたようだ』

『───え? それは、どういう……』

『だが、お前が言うようにアレがあの性質を少しでも何とかせねばその真価は表れず不安定なままだ。しかし、私やお前には顕現しなかった“両面”すらアレならば……いや、それは詮なき事だな。とにかく『ユズリノフトマニ』を以って当主は決する。“審神者”は私が務めるが、当日は“総代”も見分役として参られる。故に、無様はゆめゆめ見せぬ事だ』

『“総代”が? 何故に?』

『さて……我々のような日陰の一族に、今更何の故あってかな? 確かに、多少の縁はあるのだがな』

始は、天を仰ぎ考えあぐねる父にかける言葉が見つからなかった。
それどころか、今聞かされた幾つかの驚愕すべき事に自身こそが思考が定まらなくなっていた。

“あの太が、モノノケを斬った?”

“しかも、相手はあのシロ?”

どちらも、俄かには信じられぬ……いや、信じたくは無い事だった。
確かに、太は“断片”を宿す者として始と同じように『スクナノミワザ』を伝授する為の修練は積まされている。
しかし、始が見たところその性質から決して魔を討滅するカミガカリには向いていないように思えた。

『スクナノミワザ』はカミガカリが絶対的な敵であるアラミタマを誅する為に一族が太祖より営々と継いで練磨してきた、あまりにも容赦が無い秘奥の数々である。
言うなればそれは、人品を極めるという境地にまで洗練された表の武術とは程遠い、殲滅と殺戮の技法の集大成なのだ。
無論、人の世に脅威を齎す魑魅邪怪こそを伏する御技とされるが、その内実は身も蓋も無い殺伐としたものだ。
何しろ、対するは人を遥かに凌駕した身体能力と千差万別の異能を駆使する超越した怪異どもなのである。

“人の持ち得る満身の力を以ってしても、その刃はまだ届かぬ”

“生死のはざかいで飽く程の修練を積んでさえ、まだ不足”

“己の四肢では足りぬなら、まずその四肢を八肢とせよ”

“五官を以って捉えられぬなら、更に五つの官を開け”

“世の理では通じぬならば、理そのものを踏破せよ”

要約するとそのような内容の口伝が、抽象的かつ古めかしい言葉で『スクナノミワザ』の教えを受ける際に申し渡される。
何れも伝承されるものを教授する時にありがちな訓戒の如きものに聞こえるが、しかしそれらの言葉は実際のところ修行者への心構えを説くなどという生易しい類のものでは決して無かった。
それどころか、これら言葉こそが『スクナノミワザ』の根本原理に近いものであり、伝承者はその体現者とならねばならなかった。
一つ一つの術理が絶技や神技の領域であり、当然ながら体得には人を遥かに逸脱する事が要求される。
それは魂に“断片”を宿し膨大な霊力を持ち合わせるというのも勿論意味するのだが、何より『スクナノミワザ』は体得者に人として“外れること”を執拗に求めるのだ。
まるで怨嗟に満ちた呪いの如きものに似ており、故にそれを跳ね除けモノにするには『ワザ』に飲み込まれない強靭な意志が必要だと始は考えていた。

しかして、あの臆病すぎる弟がその修練を始めた際にはあまりに哀れで正視し難かった。
顔を殺される寸前のように常に歪め、歯の根が合わぬ程に全身の震えは止まらず、何を成すにも絶息するかのような悲鳴をあげ……。
これでは修練そのもので命を落とさぬまでも、弟の心のほうが先に壊れてしまうと父には再三に渡って告げたが、そうなればそれまでといつもの有無を言わさぬ口調で返されただけだった。
そう───だが、弟は決して修練から逃げ出そうとだけはしなかったのが不思議なところだった。
いつもいつも、見ている始の息を詰まらせ掌の内の汗を滲ませながらも、確かに『スクナノミワザ』を修得はしていったのだ。
その甲斐があってか、修練における始の受け太刀までこなせる程にはなった。
しかし、相変わらずその有様は追い詰められた小動物を思わせた。
それは、弟にはこのような事にはまるで向いていないという考えをますます確信させるような弱々しい姿にしか見えなかった。

“実際に『スクナノミワザ』を修したとしても……その力などこれでは振るえまい。いや、そもそも何かを傷つけるなど太にはどだい無理な話だ”

“けれど、太はこれでいい。こんな“人でなし”の宿業など自分一人でたくさんだ”

始はいつもそう考え、そんな姿を目の当たりにする度に決してこの哀れな弟に太刀など取らせ魔と対峙するなどさせまいと思い極めていたのだが……。
弟の太のその臆病すぎる性質を感受性があまりにも強くそして───優しすぎる為だと始は考えていた。
世界は、どうあれ他との交わりである以上摩擦が生じる。
実際に攻撃するという意味ではなくとも、大なり小なり衝突は不可欠であるし自身の意志を伝える事はそのまま他への蹂躙になり得る。
逆もまた然りで、それは言うなれば自他の鬩ぎ合いに他ならない。
無論それは悪いことではなく寧ろだからこそ人は孤独ではないしその練磨により様々な恩恵も受けられる訳だが、その当たり前すぎる認識と機能が弟には上手く働いていないのだろうと思えるのだ。
つまりは、他への極度の共感と過剰な想像による一切の攻撃的な意志の放棄と自閉。
それは、通常の人々にはあまりに異常な感性として場合によっては苛々もされ排斥もされるのだろうが、始にはとても好ましいものとして映っていた。
何も傷つけまいとする優しさの発露が、ああいう形として表れているのだと。
しかし……

“では、なぜそんなあいつが、モノノケを斬れたというのだ? しかも、そのモノノケの正体が本当にあのシロだとしたら……あいつに斬れるはずが無いではないか!”

到底信じられぬと、始は何か分らぬものに憤然とする。
実際に『ワザ』を修するのと、それを対するモノに発揮するのでは話がまるで違う。
特に『スクナノミワザ』を使ったのだとすると(いや、当然それでしか太はモノノケを斬る手段などなかっただろう)明確な意志が必要になる筈だ。
即ち───ためらいの無い純粋なる討滅の意志が。

“そんな、禍々しい攻撃的な意志などあの太が持ち合わせてる訳が……それに何より、あの猫のシロは人とまともに触れ合えなかったあいつにとって長年の友ともいえる存在ではなかったのか?”

───何か事情があったのだろう。
しかし始は、どこか胸の奥で何か漠然とした嫌な感情が湧き起るのを抑えることができなかった。

御山の麓に広がる町に棲みつく野良猫のシロは、何故か昔からわざわざこの御山の中途に位置する和丹家の屋敷を訪ねてきた。
最初は恐らく痩せ衰えて方々に傷をつけていたから、もしかしたらナワバリの争いに負け逃げた先が此処だったのかもしれない。
その時、父母の許しを得て始はこの猫を介抱した。
幼かった始は、無論このまま飼うことを熱望したが(薄汚れた姿が、洗ったら思いの外真っ白な毛並みだったのでシロと名付けた)さらに幼かった弟が普段以上にこの猫に怯えて恐慌したので泣く泣く断念した。
しかしそれからというものの、このシロは恩義を覚えているかのように屋敷に訪ねてきては家人に顔を見せに来たのだ。
だが、どうにもおかしなことに、シロが訪ねてくる理由は直接助けた自分ではなく弟の太にあるのではないかと始は感じていた。
その証拠に、餌を貰った後にはすぐに太の姿を探し回るし見つけたら見つけたで甘えた声でじゃれつこうとする。
ある時など、捕えた獲物である小鳥を御土産だとでも言うつもりか太に差し出す事まであった。
まあ、案の定と言うべきかその度に太は悲鳴を上げて逃げ惑ったり恐怖のあまり硬直したりしていたのだが。
しかし、そのうちに何にでも怯えるこの臆病な弟も、ひたむきな好意に何か感じたのかシロがじゃれかかってくるのを許容するかのようにされるがままになっていたり、頭まで撫でてやっているのを目撃するまでにはなっていた。
もっとも、その間中すっと太は顔を強張らせ引き攣らせてはいたが、それはそれで何か穏やかな光景であるように始は感じていたのだ。

“そう……そうだ。太はシロには必要以上に怯えなくなった筈だった。しかし、あの時……シロがいつものように現れたあの日、太は異常なまでに怯えて逃げ出した。いつものことだと考えていたが、その奇妙さにもっと留意すべきだったか”

急用で家を離れる寸前の出来事だった故に、始は気に留められなかった自身の至らなさを悔やんだ。
あの時に自分が気が付いていれば、弟にそのような惨い真似をさせる事など無かったものを……。
だが───はたして、自分には出来ただろうか? と始は考える。
自分もシロを可愛がっていたし、猫とはいえ友人のようなものだと感じていた。
例え何かのきっかけでモノノケに変じかかっていたにしろ、そのような存在を自分は……。
それに……その様な事があったなど帰ってきた自分にまるで気がつかせないほどに、弟は普段通りだった。
いつもどおりに俯きがちで時々何かに怯えては震えるが、何かを嘆いたり打ち沈んでいるなどという様子はなかった。
それは……どう考えればいいのだ。



しかし───
その部分を、始はどうしても深く考える事が出来なかった。
それは、彼にとってもっとも慄然とする事実からの無意識の逃避だったのである。
そして……これこそが、和丹始が悲劇に至る最たる理由だったのだ。
結論から言えば、彼は和丹家という古き血脈のカミガカリとしては致命的に“向いていなかった”



反転した世界───
“審神者”である和丹家の現当主により形成された霊力結界内には、張り詰めた静謐さが満ちていた。
御山の木々が途切れて背の低い草のみが生える其処は、円形の広間の如きになっている。
普段であれば様々な虫や小動物などの音が響き周囲の木々からも野鳥の長鳴きが聞こえてくるはずだが、当然結界内ではそのような余分なものが入り込む余地はない。
闇夜を蒼く霞がかったものとしているのは、優しき月光ではなく上空にある異様な亀裂から漏れる光だった。
不可解な事にあの十五年前の惨劇から、霊力結界内では例外なくこの光の亀裂が表れるのだという。
確かに美しい光景だとも言えるが、それはどこか魔的で人の心を落ち着かなくさせる現象だった。
その投げかけられた光は、対峙する二人の兄弟の陰影を等しく朧に伸ばしている。
しかし、片方が微動だにせぬほど固定されているのに対して一方は小刻みに揺れていた。

「……おまえはもう充分に戦ったよ、太。こうしてまともに仕合うのは初めてだが、確かに父上が言うようにおまえには俺を上回る才がある。だが、残念ながら今の時点では二歩ほど俺には及ばない。その差はこの場で届かせることは決して出来ないんだ。それを……頼むから理解してくれないか?」

始は、切実さを声に込めて肩で息しながらも未だ構えも解かず霊力を練っている弟にそう訴えかけた。
そもそも、何故この臆病な弟がまだ自分に立ち向かおうとするのか、本当に理解できなかった。
自分に勝ちたいから?
いや、そのような当たり前の執着があるとはとても思えない。
では、何か兄である自分に秘かな不満があるから?
……それは残念ながらあるかも知れないが、それでこのような機会にぶつけようとするような積極的な意志が弟にあるなら、流石にその兆候くらい自分には感づけたはずだ。
要するに、始には兄として弟の今の行動原理に思い当たる節が皆目無いのだ。
そう、今だってこいつは、いつ逃げ出しても不思議ではないくらいに怯えているではないか。
全身は瘧のように震え、時折かちかちと歯の根が噛み合わぬ音が聞こえる。
しかも、剣の仕合いだというのに言語道断な事に視線すらこちらに合わせようとしない。
この弟の常態を知らねば、もはや戦意が喪失しているのだと勘違いしそうなほどだ。
にもかかわらず……

「───!」

正眼から脱力したように構えが下段へと変化したと始が認識した瞬間、太の姿は突如消失した。

“───『カガチ』!”

即座に反応し、始は跳躍する。
半瞬の差で、今居たその場の草と土が千切れ飛び爆音が轟いた。
足元を狙い横薙ぎに振るわれた太刀の一閃が、空気を切り裂くのみならず地を割る衝撃波を伴い吹き抜けたのだ。
視覚の間隙を突き瞬きで間合いを詰め、地を這うが如き低い異様な姿勢から神速の剣を刈る様に繰り出すのがこの『カガチ』だった。
『スクナノミワザ』の一つであり、無論これとて必殺を期した絶技ではある。
しかし───
転瞬、避けられその横に伸びきった剣筋の軌道が変わる。
いや、それはもはや軌道を変えるなどという生易しいものではなく、果たしてそれらは繋がったものなのかさえも疑わしくなるような理不尽で不条理な剣筋の変化だった。

“やはり、『サカガミ』か”

宙にある始を追う様に、下方から縦に閃き迫る刃。
不動の守りを示す相手を『カガチ』で宙に封じ、『サカガミ』で斬り上げる。
そう、この技の連鎖は罠の如きものだった。
超常なる異能を駆使し逃れる相手に、その間さえ与えぬ封じ手の一つ。

“しかし……その一手を教えたのはこの俺だがな”

このまま太刀で受けては宙に在って踏みしめる大地が無い以上、力負けする。
故に

「はっ!」

始は、練った霊力を鋭い呼気と共に放出し太刀に乗せ身体を回転させる。
そしてその勢いのまま、刃を上段から振り下ろした。
収束させる力は一点に絞る。
つまりは、迫る刃そのものを刃を以って叩き折り粉砕せんが為に。
視認すら危ぶまれる瞬時の内に、このように精妙な霊力の運用を行える事こそが始の非凡さだった。
が───

“な!?”

読み切ったと確信しこの不毛な仕合いの勝敗を決する為に放った太刀は、空しく宙を切っていた。
着地と同時に、始の霊力を集中させた強力な斬撃は目標を失って砲撃に似た轟音と共に大地を裂き土煙を噴出させる。
互いの刃は咬み合わず、しかし駆け上がる閃光の如き『サカガミ』の太刀の軌跡も始には掠りもしなかったのだ。
かわりに太の刃は、斬り上げた頂点で一瞬静止し不可思議にも二条に変化した。
それは、地に降り立ち剣を振り下ろした状態の無防備な始に対し流星の如く降りかかる。

“くっ!”

左右より交差するかのように同時に迫る斬撃。
もはや逃れる糸目もないかのように見えるその詰め手を───始はその体勢のままで行われた奇怪なる後方への跳躍を以って空を斬らせていた。
唐突かつ不合理なその瞬時の動きは、機械仕掛けのようでもあり人間からかけ離れた───そう、まるで巨大な蜘蛛を連想させるようなものだった。
その異常なる俊敏な跳躍にも拘らず、着地した際にほぼ無音であったのがますます蜘蛛を思わせた。
『ササガニ』と伝わるこの歩法こそが、『スクナノミワザ』における基幹をなすものだった。
しかし、始は今の今までこれを使っていなかったのだ。
剣の捌きのみで充分に対応出来ていたからだ。
つまり、己と弟との差はそれくらいだと軽侮するでもなく正確に計っていたのだが

「……驚いた。今のは『ミカボシ』か。正直に言ってそのつなぎ方は読み切れなかった。どうやら、おまえに対する見方がまだ甘かったようだ。まったく末恐ろしいが……」

始は大きく息を吐き、再び開かれた間合いの先で片膝をつき崩れ落ちる寸前の姿勢で喘ぐ太を悲痛を浮かべた目で見遣った。

“恐らく……今のがこいつの限界だろうな。いや、限界以上か。既に霊力も枯渇しかかっているし、まだ完成されていない身体であの酷使の仕方では今頃各所で激痛が走っている筈だ”

未だ気を失っていないのが不思議なほど弟が消耗しきっているのを見て取り、始はもう今すぐに太刀を収め介抱してやりたい衝動に駆られる。

“いや、しかし……”

太刀を構える己の身体が、何故か一時も弛緩しない。
心の奥底の最後の一線ではどうしても躊躇われるのだ。 
その自身の逡巡に、始は訝る。
それは、当主の座を巡っての神事とも言える仕合い『ユズリノフトマニ』だから。
もしくは、八部衆の筆頭家の当主“総代”御剣宗司というあまりにも雲の上の存在が立会い見分しているから。
吹けば飛ぶような日陰の一族である和丹家がこの“総代”に価値無しと判じられれば、たちまちに管理している霊地など召し上げられてしまうから。
そういう事情から普通に考えれば、己の逡巡は当然ではある。
しかし、それより先に始の意識の中で切迫して訴えるものがあるのだ。
───剣を下げてはならぬ。
───構えを解いてはならぬ。
───戦意を緩めてはならぬ。
もはや勝敗も決しかけ端から自身との差は歴然としていたこの臆病で満身創痍の可哀相な弟に、何故未だこのような剣呑な印象が抜けないのか?
その湧き上がる心こそが

「……あ……と」

「む?」

「一……歩……」

譫言に近い呟きを聞き取り、始は眉を顰め太を注視する。
弱々しく荒い息を吐きながら、膝を震わせまだ立とうとする弟に自分が今撃ちかかればそれで勝負は他愛も無く着く筈だ。
だがそれが出来ないのは、本当に弟可愛さ故の情が躊躇させているからか?
今背筋に、何か自身でも判別がつかない戦慄が走らなかっただろうか?
始は、ここに至ってようやくその顔を隠す幕のように長く伸ばされた前髪から垣間見えた弟の目を捉える事が出来た。
それは普段と変わらず、意志が曖昧な弱い輝きしか持たず……

“い、いや……違う!? 待て! こ、これは本当に───”

───始がその瞳から読み取ったものから激しく動揺したのと、その変化が起こったのは同時だった。
それまで消えかかる寸前の灯火の如く揺らめくばかりだった太の霊力が、突如───爆発した。
それは轟きをあげて無尽の間欠泉に似た噴出をした後、星々の輝きを束ねたかのような白光と膨大な霊威を伴って太の体に凝縮する。

「な……!?」

始は、その信じがたい光景に絶句した。
その顕現したものこそが───始祖のみが発現し得たという伝説そのものだと即座に理解した故に。
一言でいえば、それは水晶で形作られた巨人だった。
いや巨人というには始とそう背丈自体は変わらないが、過剰に放出される霊威が相対するものに異様な圧迫感を与えているのだ。
幾何学的なモザイクのように全身を覆うものは透明度が高い水晶にも似て、しかし常に脈動するかの如く明滅する輝きを放ち内部の構成を窺い知ることが出来ない。
確かに人の形をしてはいるのだが、どこか人とはかけ離れた動きを想像させるのは痩身で随所の可動部が細く絞られその手足が細く長い為か。
頭部には山羊を思わせる形をした角が左右対称に捻じれながら後ろに伸び、顔面は西洋の兜のように眼部のみに隙間があって黒く影となりそこから幽鬼の如き蒼い輝点が朧に覗いている。
そして……

“……恐らくは“両面”の筈だ”

正面から対する始には確認できないが、伝承通りならば後頭部に隠れる形でもう一つの“面”があるはずだ。
飛騨の神人とされ、その名の由来ともなったされるもっとも顕著な特徴。
それは憐みを抱いているような、もしくは万象を蔑んでいるような薄い笑みを浮かべた美しい女性の顔なのだという。
双貌を持つ鬼遣らい───即ち『両面宿儺』と称された伝説が、いま始の目前にあった。

「太……おまえ、おまえは……」

一瞬の自失からは立ち直ったものの、始は弟の変わり果てた姿にかけるべき言葉が分からずその語尾が震えながら萎む。
それは、先ほど読み取ったものが自身の思いを根底から揺るがしていたからでもある。
自分は一体、弟の何が───

“───!!”

が、始に苦悩と迷いを抱いている余裕はなかった。
何かを放出し推進したとしか思えぬ速度で瞬時に水晶の巨人が雷鳴の轟きをあげ目前に迫り、暴風そのものと化した斬撃を繰り出してきたからだ。

「がっ!?」

何とか太刀で受けたものの、今まで経験したことがないその威力に始の全身が痺れた。
咄嗟に足を捌いて『ササガニ』の歩法で間合いを取ろうとするものの、即座に出鱈目としか言えない機動で水晶の巨人に距離を詰められる。
そして、間断無き豪雨に似た数多の刃が始を襲った。

「くっ! お、おおおお!!」

乱れ飛ぶ光の軌跡を、始は修した『スクナノミワザ』の限りを尽くして捌き、弾き、打ち払い、受け流した。
竜巻の如き刃と刃が咬み合う度に、澄んだ金属の音色が連続して響き激しい火花が瞬く。
影絵に似た光景に浮き上がるそれは、ある意味鮮麗なる演舞のようですらあった。
しかし、その一太刀一太刀は受け損なえば人の身など“粉砕”に等しい斬殺を齎すのは間違いが無い。
凄絶な威力を示すように、始の周囲は剣圧による衝撃波で砕けた大地が粉塵となって吹き荒れる。

“こ、このままでは、押し切られる……が!”

そう、かろうじて凌ぎ切れない事は無い。
確かに、圧倒的な暴風じみた斬撃ではあるが始とて“断片”を宿し人を超越したカミガカリなのだ。
既に超常存在との戦いにも幾度か身を置き、自身を上回るそれらを討ち果たしてもいる。
己を超える存在を、古より受け継がれる“ワザ”を以って伏し滅してこその“神殺し”
故に、『両面宿儺』と化したこの今の弟の脆さも即座に見抜く。
その凄まじい力には、精妙さが極端に欠けているという事実を。
言うなれば、力に振り回されているのだ。

“ならば……”

始は、縦横無尽に空間に描かれる刃の線にほんの僅かな瑕疵とも言える緩みがあることを看破する。

「ふっ!!」

防戦一方に見え片膝もつかんばかりだった始は、撓めた身体を解き放つように不安定な姿勢のまま太刀を振るった。
呼気と共に体内で練られた霊力が瞬間的に刃に纏われ、針の穴を通すが如き繊細かつ鋭利な力が撃ち込まれる。
それまでとは違った一際高い金属音が鳴り響き、刃雨を成していた斬撃が大きく弾かれ一瞬静止した。

「───!?」

動揺と驚愕を表すように、水晶の巨人は土煙を上げながら急速に後退した。
その光彩を施された硝子細工さながらの複雑に構成された胸甲部には、いつの間にか無惨に切り裂かれた痕が交差して走っていた。
そこからは、やはり中身は弟である和丹太という生身の人間に過ぎない事を示すように鮮血が零れ、脈動する輝きを朱に汚している。

「……これが『スクナノミワザ』の奥の一手『ナナツネ』だ。恐らく、おまえは今どうやって斬られたのか見えなかったんじゃないか?」 

「う……あ……」

「未だおまえに伝えられていないものだから使うつもりはなかったが……しかし、そうも言っていられないようだ」

太刀の血を一振りで払いながら、殊更に感情を込めない冷たい声音で始は言い放つ。
胸中の悲壮なる決意を無理矢理押し込めるように。
例え斬り捨てる事になろうとも……こいつをカミガカリとして世に放ってはならない。
先程感じた戦慄から、始はそう結論せざる得なかったのだ。
正直に言えば未だ理解が追いつかず、あるいは信じ難くもあり、また信じたくも無いが

「……あ、こ、こ、怖いです、兄さん」

「何が───怖い?」

「な、何もかもが、こ、怖い。怖い事が怖い、怖い事が怖い、怖い事が怖い、怖い事が怖い、怖い事が怖い、怖い事が……」

幽かな光を反射して輝く水晶の面の奥から、くぐもった繰り返しの囁きが延々と漏れるのを始は聞き取る。
まるで呪詛の様でもあり、何かを渇望する祈りのようでもある。
だがこれは、弟が常日頃から訴えよく耳にした言葉だった。
それが今はまったく違う意味合いとして捉えられ、始は内心で悲憤し歯を噛み締める。
何故自分は、それを深く考えようとしなかったのか?
結論は明白であり、しかし理由もまた明白だったのだ。

「分かった……終わりにしてやる。おまえは、“こちら側”には来てはならない。だが、一つ憶えていて欲しい。俺は、おまえがどうあろうと───」

続ける言葉を嘆息と共に虚しく途切れさせ、始は太刀を上段に構える。
しかし上段にも拘わらず、その切っ先は地を指さんばかりに大きく右に傾けられるという異様な構えだった。
更には踏みしめる足は大きく開かれ、身体は極端に前傾となり地を這うが如きに低くなる。
その様はさながら四足の獣……いや、際立った長身である始の長い手足と構える太刀の刃の長さから、その形を影として映すともっと奇怪なものを連想させるだろう。
それは獲物を狙う寸前の一匹の悍ましき巨大な蜘蛛のようだ、と───
だが、この異質にして異形なる構えより顕すものこそ神代よりの再現。
即ち、毒竜悪鬼を伏し“神殺し”すら能う『スクナノミワザ』の最奥の一。
それは『ヤエノサカイ』という、現象を表した簡素な名で伝わっていた。

いかなる作用なのか、空間が陽炎が立ち昇るようにゆらゆらと揺れていた。
加えて、冷気すら感じさせる霧に似た何かが立ち込め辺りを薄く曇らせる。
それは、凝縮された霊力の干渉によるものなのか。
然して、その発生点は二つ。
始と相対する一息の間合いの先。
そこには当然のように、同じく異形の構えをとった影がある。

“そう……あくまで退かないならば、そうするしかない。『ヤエノサカイ』は『ヤエノサカイ』で対するのみだ。しかし───”

まるで歪んだ鏡のようだと、始は皮肉気に考える。
いや、始よりさらにその形は理から外れた異質な何かを思わせ、だがそれ故に自然だった。

“なるほど。始祖よりの形を再現しているならば、あちらがより“原形”に近いのか。さながら、水晶細工の蜘蛛と言ったところだな。だが……”

はたして、その自身を御するのすら危うい身体となり果ててしまった今の太にこれが放てるのかは甚だ怪しい。
しかし、そうであっても始はもはや容赦する気など微塵も無いと思い極めていた。
そもそもこの仕合いは、現世の理より外れた霊力結界の内で行われているのだ。
例えこれで死に至らしめる程の傷を負わせようが、その事象は現世よりは決定的に作用しない。

“なれば……その四肢切り落としてでも、おまえを今ここで“終わらせる”!”

始は微かな迷いを断ち切るように体内の霊力を高速で巡らせ、純度を高めたそれを鋭利に練成する。
収束させ送り込まる圧縮されたその力は、刃に負荷に耐えかねるような悲鳴の如き鍔鳴りを上げさせていた。
呼応するかのように、手の甲に刻まれた幾何学的な線で象る紋様も一際虹色の輝きを放つ。
それは、まるで限界まで回転を上げる駆動音にも似た、耳を劈くような甲高い咆哮を同時に上げていた。
この刻印こそが“断片”を魂に宿したカミガカリの本質を象徴的に露にするもの……“霊紋”と呼ばれるものである。
始のそれは<四方を閉ざす剣>であり、何かを囲うように剣を以って四角を成す形をしていた。

“この剣こそ───”

始の滑らせた烈風の踏み込みに大地が削れ粉塵が舞う。
持ち上がる刃に大気が慟哭し激しく震える。
全てが緩慢なる動きに感じるのは、満たされた霊力により覚醒された五官が研ぎ澄まされているからだ。
それらは、粘性を帯びたように引き伸ばされた時空が見せる夢幻の如きもの。
実際には視認すら危ぶまれる刹那の狭間に過ぎない。

“この愚かなる兄の───”

始の視界に刻まれた線は八つ。
これこそが『ヤエノサカイ』が齎す現世(うつしよ)と常世(とこよ)を分かつ断絶である。
それは相手を囲うように走り、やがて中心に至る。
こうしてこの端境が閉じられる時……その内に居る者は文字通りに『封殺』されるのだ。

“───手向けと受け取れ!”

放たれる世の理を踏破した斬撃。
振り下ろされる太刀は眩い輝きを迸らせ、八つの光条を成した。
刃が疾駆し、切り裂かれた空間が軋みを上げる。
その不条理なる刃線に成す術無く囲まれたるは、未だ構えより太刀を繰り出せずにいる水晶の巨人。
しかし僅か半瞬の差で、同じく斬撃を放つがそれは───

“その遅れは、今この場にあって致命的だったな、太!”

閉じかける八つの線は、寸前で確かに一瞬停止する。
阻みたるは、やはり八つの光条。
咬み合う刃は、雷光に似た明滅を齎し不吉なる鳴動を轟かせる。
だが……それもほんの数瞬でしかなかった。
同質の力の衝突は、明らかに阻む力より閉じかける力の方が強い。

「あ、あああああああああああ!!」

太の断末魔の如き叫びも空しく、次々と囲む刃は阻む刃を圧する。
硝子が連続して砕ける様に似た耳障りな音が高く響いた。
かくして、斬刑をもたらす断絶の刃界は形を成し───

「な……に……?」

始が呆気にとられ思わず声を漏らした時には、既にそれは視界を圧して迫っていた。
そして、見たものを信じ難くも理解しつつも判断を下すのが数瞬遅れた。

───『ヤエノサカイ』は完成しなかっ……

───確かに、俺の七つの刃までは……

───しかし、一つの刃は逆に……

───初めから、太はこれを……

───つまり一つに力を収束させ、他の七つを捨て石……

───『ヤエノサカイ』を突破し、この機を……

───だが、なぜそんな精妙な……

───まるで化け物が孵化したかの……

───ああ、そんな血塗れで、駄目じゃないか……

交錯する思考は、止めどなく頭を駆け巡り続ける。
鮮血で彩られながらも、脈動する輝きを放ちつつ暴風の速度で目前に達する水晶の巨人。
始はその圧倒的な霊威を備えた造形に、畏怖に似た美しささえ感じていた。
が、壮絶な修練を重ねたカミガカリの身体はそんな惑乱した思考を待たずに反応する。
瞬きの交差。
始の太刀は跳ね上がり、疾風さながらに斬り上がる。
刃先がその水晶の面を捉えて断ち割り、新たなる血風が舞った。
しかし、致命というにはそれはあまりに浅い。
始は、この期に及んでの自身の躊躇が齎した結果に愕然とする。
そして───見た。
面が破砕された事で露わになった弟のその素顔は、剣風により絡みつく蔦の如き長髪を吹き散らしていた。
故に、始はより深くそれと対峙する事となった。
即ち、自身にとっての絶望と。

“……やはり、こいつには何も無い。だから、何もかもが一つにしかならないのか。俺は、俺は……なんて、なんて……”

空回りする思いの中、銀閃が風を切る音と共に始の首筋に走る。
それは、今までの人智を超越した戦いにあってあまりにも呆気無い幕切れだった。

“ああ──まるで、虫のようだ”

首が刎ね飛ばされ地に落ちる寸前、始は弟だと思っていたものの瞳を思い浮かべる。
その艶が無く覗き込んだ者を虚空に落とすような、一つの衝動に縛られ磨耗した暗く深い色を。
同時に、引き伸ばされ希薄になる意識の中で、怯えながらもはにかむような笑みを浮かべて白猫を撫でていた子供も確かに見た。
だが、始にはそれが一体誰だったのかがもはや分からなくなっていた。



「本当に……これで良かったのだな、御当主殿」

「…………」

問い掛ける冷厳なる声に、和丹家当主たる和丹一郎は答える言葉も無く呆然と立ち竦んでいる。
和丹家が管理を任された、霊脈を有する幽玄なる御山のとある一角。
結界が解かれ反転より立ち返ったその草原は、元の生々しい生命の息遣いが満ちる場へと戻っていた。
天には既にあの蠱惑的な輝きを放つ光の亀裂も無く、柔らかい月光と微かに明滅する星々の輝きのみが闇夜にあって地にあるものを皓皓と照らしている。
幽世の如き世界の内で行われた戦いの凄惨なる痕は、当然この場には微塵も見出せない。
が、無論それを為した二人は別だ。
どちらも立ち尽くし、壮絶なる結末を物語っている。
弟である太は、既に伝説の再現である水晶の異形なる装具が解け小柄な身体の至るところを数多の刃痕で刻まれていた。
滲む血により赤黒く染まるその姿は直視し難いほどに無残で、まるで高速で旋回する刃にその身を晒したかのようでもあった。
普通の人間であればその痛みと失血により気を失うか最悪であれば死んでいるであろうから、未だ意識も失わず立っている事自体が脅威である。
人を超越したカミガカリならではの生命力と言えるだろう。
もっとも、太刀を杖代わりとし獣の如く喘ぎながら震える足で辛うじてという有様ではあるが。
そして、兄である始の方はと言えば……

「ふむ。“アレ”はそれこそ何とでもなるであろうが……あちらの兄の方は、相当深刻であろうな」

紫紺の紬を纏う壮年の男は、懐手に腕を組んだまま僅か溜息を漏らす。
その低く響く淀み無い声は柔らかで人を惹きつけるに充分だが、どこか突き放すような冷淡さも含んでいる気がした。
もっとも、そう感じるのは己の心がこの最悪の状況に千々に乱れている為なのか。
しかし、はたして……
柔和にして情に厚く、様々な機微に通じた人格者というのが昨今の彼の専らの評判だ。
八部衆の筆頭家の長としてその差配に狂いは無く磐石でありながらも、時として寛大な処置も行える組織を率いるに相応しい大人物なのだと。
だが、この人物への以前の印象がそのような評とは程遠いものであることを一郎は決して忘れていなかったのだ。
───“総代”御剣宗司
かつては退魔師協会における最強の“神殺し”と謳われた天才的なカミガカリ。
事実、和丹一郎が知る限り彼ほど強大で才に溢れたカミガカリは居なかった。
もう一人、彼とほぼ同格と称された天才が居たのだが一郎はその人物とは幸か不幸か会った事がなかったのだ。



最初の邂逅は十六年前
あの<煉獄の夜>の前年。
その当時の御剣宗司は、協会に背き謎の出奔をしていたのだという。
しかもそれは極めて個人的な事由に基づくものだったらしく、協会に所属するカミガカリ達には彼に対する捕縛の令が下っていた程だった。
そんな折に、一郎は偶然にもこの天才少年を見つけてしまった為に大いに慌てた。
そう、彼はまだ少年とも言える年齢だったのだ。
だが、一目で一郎は理解してしまった。
いや、理解というよりは只々圧倒された言うべきか。
───あまりにも、別格であり過ぎる。
その時の一郎は既に幾柱ものアラミタマを誅してきた歴戦のカミガカリと言えたが、それでも自分ではこの少年の足元にも及ばないだろうと即座に分かった。
一体、どれ程の修羅の日々を辿ればこんな年若い人物がこのような境地まで到達し得るのか。
そこに居るだけで周囲を一変させる、重圧を伴った存在感。
その瞳は相手を伏するような強烈な輝きを湛え、僅かに睥睨されただけで無数の白刃を間近に突きつけられているような気にさえさせられた。
そして何より、本当に人間なのかと疑いたくなるようなその絶大なる霊力が放つ威に一郎は徹底的に打ちのめされたのだ。
心を怯懼させるものは、嵐や大火等の自然の暴威に対した際に心に湧き起こる人間の無力感にすら似ていた。

『フン? お前は確か……ああ、和珥の傍流で竹内に譲渡された家門だったか。もっとも、本来は和珥と何の繋がりも無い血脈のようだが。何でも表向きは誅した事にされ、その異能を買われて良い様にこき使われた使役の民なんだとか。あの飛騨の神人とやらがお前らの始祖なんだろう?』

『よく……御存知ですな。私どもの様な、枝葉末節の一族のことなどを』

容赦など微塵も持ち合わせていない事を感じさせる酷薄なる響きの声に、一郎は何とか震えずに答える事が出来た。
恥も外聞も無くすぐさま逃げ出したい衝動に駆られるが、そこは日々の鍛錬と想像を絶する怪異に対することで培った鋼の自制心で堪える。
実際にそのような真似などしようものなら、自分など造作も無く処分されてしまうだろうと分かっていたからだ。

『まあ、協会の中で少しでも使いものになりそうなやつの経歴は粗方目を通したからな。何しろ、これでも八部衆筆頭家の次期当主だ。御簾の奥に縮こまってる連中と話す為“だけ”の礼節とやらを覚えるよりかは、随分とマシだろう?』

『それは、何とも……私からはお答えし難いですが』

『だろうな。かくして、毒龍悪鬼退治の英雄の血筋もかように飼いならされた犬の如きものに堕とされたというわけだ。まったくもって、哀れ極まる。それとも……みすみすその血を絶たなかったのを評価するべきなのかな?』

『…………』

揶揄を含んだ口調のそれは明らかに挑発だったが、一郎は何の表情も出さずに押し黙る。
これで激昂したところでどうにかできる相手ではないし、そもそも内容そのものは身も蓋もない事実だったからだ。
だがそれでも……一郎は和丹という姓を賜った自身の一族の在り方には誇りを持っていた。
今更にそのような指摘をされたところで、心に揺らぎは起こらない。

『ほほう? 道具同然に凋落させられながら、お前は自身の血を卑下はしていないのだな。なるほど、少し面白い。古い血筋の連中は、それを貶されると見境なく怒り出すような奴らばかりだったからな。ま、そういう輩どもは大抵の場合すぐに地金を出して無様な醜態を晒していたが』

『僭越ながら申し上げますが……それは少々お人が悪いかと存じます。さすがにあなた相手では、醜態を晒さないカミガカリがこの国に幾人も居るかどうかというところでしょうから』

『ふむ、追従というわけでも無さそうだが……それで、どうする? こうして対した以上は、何とか醜態を晒さないように頑張ってみるか、和丹の御当主?』

鼻で笑うが如き浮薄な口調とは裏腹に、突如自身へ向けられ放射された膨大なる霊威が一郎の息を一瞬詰まらせる。
事実、この少年にとってほんの戯れに過ぎないのだろう。
一郎は辛うじて自身の恐慌を押さえつけ、少なくとも表面上は動じることない様を取り繕った。

『そうしたいのは山々なれど……やはり遠慮させて頂きましょう。確かにあなたに対する令は受け取っておりますが、私ではそれに応えるに到底及ばぬ事くらいは理解できます。それに───』

『それに?』

『───あなたは、アラミタマではない。あなたが出奔した際に、あなたが“そちら”に堕ちたなどというという風聞も伝わりました。が、こうして対してみると良く分かります。寧ろ、あなたは誰よりもカミガカリであると。アラミタマに対するならば、例え力及ばず己が滅することになろうとも一矢報いるは本望。なれど、私の如き者があなたのような“真なる”カミガカリに刃を向けるなど、出来よう筈もありません』

『…………』

一郎が一息に言い放った言葉に、胡乱気に目を細め少年は口を紡ぐ。
その場に降りた沈黙が、引き絞られ弾ける寸前の弓弦に似た危うさを孕む。
静寂の中で未だ続く圧迫はまるで緩まず、息苦しさは増すばかりだった。
故に一郎には酷く長く感じたが、しかしそれはほんの数瞬の事だったのだろう。
やがて

『改めて……名を訊いておこうか』

『和丹……一郎にございます、御剣の若様』

『よし、では一郎。お前に問おう。“世界”とは───“救われる”ものだと思うか?』

『……は?』

あまりの前後脈絡がない問いに、一郎は困惑する。
先刻承知であろう己の名をわざわざ尋ねなおしたのは、それまで一顧だにしなかった者を曲がりなりにも認めるという意志の表れなのか。
ともかく、帯電するが如き緊張は少年がその霊威を収めた事で沈静化したのだが……

“……うっ”

代わりに凍りつくような眼差しに射竦められ、一郎は萎縮する。
その瞳には、決して逃避する事を許さない非情なる光が揺らめいていた。

『まず“世界”とは何か? という事についてだが、これには極めて粗放ながら二つの見方があるように思える。一つは、各々による極めて流動的な認識で構成される狭窄ながらも根本的な“世界”。もう一つは、全ての意志が重なり交じり合う統合された万象の流れという曖昧にして漠然とした、しかし確かに在る“世界”。どちらがどちらを内包するかは何とも言えぬところだが、双方共に我々にとっての“世界”とは結局“魂の虜囚”であるという理からは逃れられぬのだとは言えるだろう。故に、意志ある者達にとって自己とこの“世界”は等価であるとも』

口調は滑らかで淀み無く、低く響く言葉は頭を浸透させるように耳朶を打つ。
人によっては、甘く魅惑的なと表現する類の声かもしれない。
それはとても少年のものとは思えず、なるほど、天才というものはこういう所にも表れるものなのだなと一郎は場違いな感想を抱いた。

『さてそれが卑小なるか偉大なるかは一先ず置いておくとして、いずれの場合にせよ……我々はこの“世界”を守っているのだとは言える。何しろ、積極的にそれに干渉し滅しようとする我々にしか対処し得ない外敵が居るからな。要は、“世界”にとってカミガカリとは維持を目的とする抗体に他ならない。だから、本来の我々の役は変化を厭い、ともすればまかり通るであろう“世界”にとっての歪みを正す事にある筈だ。では“救う”というのは───果たしてそれに合致するものだと言えるのだろうか?』

『それは……もしや……』

そこまで聞けば、一郎にも少年が何を言わんとしているのか理解できた。
カミガカリとは、世界を破滅へと導く超常存在を討つことを至上の行動原理としてはいるが、更にもう一つ大原則として探求せねばならないものが存在した。
それはもはや、太古よりカミガカリの魂に刻まれた根源的な命題と言っても過言ではない。
人智を遥かに超え、天に届き得る神代の秘術。
全てに大いなる変革を齎し、世を“救う”もの。
曰く───

『<神化の誓約>───ケルトではベルテーン、北欧辺りでは最後のルーンとかユミルの泉とか言われてたかな。錬金術師にはアルス・マグナ、カバリストどもにはメルカバの秘儀もしくはダアト、道士連中には神仙蟲毒などとも称されている。とにかく、これらは言い方は異なれ一つのものを指しており起源も遥か古より在るものだ。あらゆる願いを成就し森羅万象すら思いのままにする大魔術、全能にして全知を齎す大いなる秘法……滑稽な事に今となってはその実在を疑われてはいない。いや、事実それに類するものは在るだろうよ。残念ながらな』

『あ……いや……しかし、それこそが我々の永年に渡る悲願でありましょう? 何故そのような───』

そう、この少年はそれに対し否定的であり懐疑的だ。
恐らくカミガカリとして頂点にも近く、その大いなる神秘に一番近いであろう存在の一人の筈なのに。
もっとも、<神化の誓約>は単独では決して成し遂げられず、超常なる存在として遥か高みに到達した者達が十数人は必須という極めて行使に困難な条件があるらしいが……

『実在を疑われていないのは、各地の超常存在組織がこればかりは協力して秘中の秘である資料や文献を突き合わせ綿密な調査をした結果ではあるのだがな……しかし、もっと安易に確認する手段もある』

『それは一体───?』

『なに、簡単なことだ。過去それは行使され実行されたのだ。ならば、その跡を辿れば良い。つまり───』

『な!? そ、そんな馬鹿な! それでは……』

続けられる言葉が分かり、背筋に走る怖気のまま一郎は憤然と遮る様に叫ぶ。
その冷厳なる結論に───自身を省みず叫ばざるを得なかったのだ。
少年は僅かに哀れむような顔を見せたが、その声はあくまで無情だった。

『そう言う事だな。“世界”はとっくに“変革されている”。事実、<神化の誓約>は神々に用いられた秘術なのだろう? ならば、少なくとも神々はそれを使ったのだという事だ。さて、どうかな? カミガカリの悲願はアラミタマを<神化の誓約>で一掃し“世界”に平和を齎すことだとされているが、神々にはその辺りはどうでも良かったのか? やつらとて、“世界”の一部ならば破滅してしまっては困るだろう。なのに、何故そのような要因を放置した? 森羅万象を自在とする全能の法を持ちながら、随分と片手落ちというものではないか』

『あ……う……』

『ここから導き出されるものは、あまり我々にとって愉快なものではないな。つまり<神化の誓約>とは、そこまでの力が無いのか……それとも、森羅万象を変革できる法でもどうにも出来ないほどにアラミタマという要因は根本的に“世界”にとって必要不可欠なものなのか。どちらにしろ、“救い”は無い。そもそも、カミガカリという立場が“世界”の維持にあるならば<神化の誓約>などという最大限の変革を齎すものを希求するは自己矛盾も甚だしいのではないか?』

一郎は呆然と、目前で腕を組む少年を見る。
そのような結論を抱えながら、何故彼は平然としていられるのだろうか?
自分よりもカミガカリとして高みに居るならば、その残酷な事実はより重く圧し掛かっているだろうに。
それが果たして強さなのか、それとも達観なのか一郎にはまるで計る事など出来ない。
やがて、少年は一郎から視線を逸らし何か諦めたような表情を一瞬見せた。
そもそも期待などしていなかったがという、溜息とともに。

『いや……すまなかった。所詮は小僧の戯言だ、気にするな。それより、俺の事を協会に報告するなら早めの方が良いぞ。無論、それでお前のことを恨んだりはしないからな。ただ、一つだけ忠告させてもらうが、これより先、分不相応の事には出来るだけ近づかぬことだ。もっとも、お前はカミガカリとしてはまともなようだから言っても無駄かもしれないが』

淡々と言い放ったのを最後に悠然と少年は踵を返す。
一郎には、それをただ無言で見送ることしか出来ない。
その背があまりにも遠く……自分ごときが干渉できる気などまるでしなかったのだ。
ふと、少年は立ち止まり天を仰ぎ見た。

『それが、“あいつ”に解からなかったはずが無いんだ。なのに……』

思わず漏らしたのだろう呟きはあまりに小さかったが、一郎の耳には何故か届いた。
それは、初めて聞いた少年らしい年相応の不安定な響きをもっていた。


そしてそれから約一年後……一郎にとっては忘れ得ない十一月一日の未明にソレは起こった。
後に<煉獄の夜>と称されるその災禍について、一郎はそこで起きた殆どの出来事を憶えていない。
ただただ、自身がカミガカリとして再起不能な傷を負い生死の境の中でその無念を噛み締めるという無惨な結果のみが残った。
つまりは、御剣宗司があの時にほぼ見越していた通り。
忠告を無視し分不相応なものに対した代償……しかし、当の忠告を申し渡した本人も同じ境遇となったようだと後々に伝え聞き一郎は大いに驚愕する。
彼は半身が不随になるほどの重傷を負い、もはやカミガカリとして立つ事など出来ぬ身となったのだと。
それは<煉獄の夜>にあった現象があのような強大な人物さえ飲み込むほどであったという証左……しかし、俄かには信じられなかった。
いや、重傷を負った事は事実であろう。
だが……彼はその後“御剣家の当主として迎えられているのだ”
和丹家のような、裏の世界においても日陰の一族とは事情が違いすぎる。
古からこの国を守護してきた勢力の最高筆頭家が、カミガカリとして役を為さない者を長として頂くなどはたして有り得るのか?
ましてや、頂点で差配するは“八部衆”の名の通り気が遠くなるほどに連綿と血を繋いできた御剣家も含む八つの古き家門。
当然、そこでは程度の差はあれ魑魅魍魎が蠢くが如き権勢の争いもある筈だ。
そのような状況で自らの存在価値を危うくするような選択を筆頭家門たる御剣家がするだろうか?

では、どう考えればいいのか?
確かに、彼は身体が不自由である事を理由にカミガカリとしての任を己で為す事は無くなった。
実際に、彼にとっての甥や姪に当たる年若い才有るカミガカリ達に“代行”として権限を譲渡しその役目を果たさせているらしい。
つまりは、御剣に人材が居ないわけでもないという事だ。
なれば、その中でも最高の者に当主を譲り経験と見識が豊かな自身が後見人になれば良い筈だ。
だから、一郎が思い当たったのは極々当たり前の結論だった。
もしや、御剣家にとって、いや八部衆にとってさえも……未だ最強のカミガカリとは“御剣宗司なのではないか?”
だとすれば、何故そのような体裁をとっている?
己が表に立たず差配を振るうのみなど、彼が唾棄した“御簾の奥に縮こまっている連中”と同じ在り方ではないか。
───何かがある。
それも……<煉獄の夜>に関したことで。
彼の変遷はそこから始まっているのは間違いないだろう。
自分はその端緒にさえも至れなかっただろうが、彼は恐らく渦中の中心へと踏み込んだ筈だ。

『……キミのその思いは、きっと<神化の誓約>に至るだろう』

いつぞや、既に和丹家のカミガカリとして任にあたっていた始は何かの折に“総代”にそう言われ感激したと報じてきた。
だがこれは後に確認すると、始が特別に言われた訳でもなく様々な才有るカミガカリに彼が告げている言葉なのだという。
故に、一郎はその言葉に心の底から戦慄するしかなかった。
御剣宗司は、一体あの夜に“何に触れ何を視たのか”、と。



「そこまでの衝撃を受けるならば……何故、この儀を途中で止めなかったのだ、御当主」

「そ、それは───」

“総代”御剣宗司の声は、あくまで穏やかかつ静かだった。
だがだからこそ、この惨劇を前にして当主である一郎には断罪を告げる響きとして耳に届いた。

「止めることは充分に出来た筈だが。後継を決する『ユズリノフトマニ』……それは“審神者”である御当主の結界内で行われたのだ。つまり、御当主が“審神者”として事を判じればそれで済んだ話だ。本来これは、行き着くところまで行くような決着を求める託宣の儀では無いのだろう? 何しろ、古より“断片”を宿す者達は貴重だからな。殺し合うことで後継争いの憂いを断つという手法は、我々カミガカリにとって利少なく害多しだ。まあ、血脈によっては無いでも無いが」

「…………」

「それとも、『太占(ふとまに)』の名の通りに天に成り行きを委ねたのかな? もしくは、これが一番有りそうな話だが……これを機に“アレ”を処断してしまうつもりだったのかね?」

「!! け、決して、そ、そのようなつもりでは───」

取り乱し叫ぶように否定しつつも、その言葉は力なく萎む。
ゆるりと“総代”が親指で指し示した先に、“アレ”と称された息も絶え絶えな我が子がいる。
子に対する愛情は、例え世間とはかけ離れているものだとしても深いものだと自身で信じてきた。
が、彼の少なからず蔑みを含んだその表現に今や憤慨する気には到底なれなかった。
『ユズリノフトマニ』を征して、和丹家が始祖より成し得なかった『両面宿儺』すら顕現させた紛う事無き一族の結晶。
だが、その出現を当主としてまるで喜べないのは何故なのか?
もしかしたら、自分は彼の言うように───

「いや、失礼。言葉が過ぎたようだ、御当主。だが、少し近かったようだから言い換えようか。貴方は、恐らく“期待”したのだな? 何しろ“アレ”は、ただの“始まりの再現”だ。血脈の果てに出た結論がそれでは、積み重ねてきたものが徒労という事にもなり兼ねない。その先を突破してこそ……だから、止めなかった。気持はよく分かる。彼は始君と言ったな……私も彼が“アレ”を突破することを期待していたのだが。そうすれば……」

“総代”は諦めを表現したように首を振りつつ全身で溜息を吐くと、緩やかに歩を進めて背を見せる。
一郎は、かつて呆然と見送るしなかった届かざる脊を自然と思い起こした。
が、やはり───以前と何かが違うと感じる。

「あの、どちらへ……?」

「なに……“アレ”は我々で回収してやろうと思ってな。残念だが、和丹家という一族はここで“終点”だ。いや、“振り出しに戻った”と言うべきかな。いずれにしろ、血脈としては袋小路に至ったと断じざる得ない。“総代”としては追って沙汰をする。御当主はこれより果敢にも挑んだ彼───和丹始に一族をあげて尽し労わってやるがいい。霊力結界の内とは言え、首を刎ねられたのだ。いや、それだけが原因とは必ずしも言えないだろうが……見たところ、魂が壊れかけている。命には別条が無いにしろ、再起は難しいだろう」

「そ……!」

一郎は絶句し、苦渋に満ちた表情で逡巡した後に未だ目を見開き彫像の如く立ち尽くす我が子たる始の方へ向かう。
後遺症により駆け寄ることが出来ぬ自身の体を必死で動かし、もどかしく走ろうとするその姿は哀れで痛々しかった。

「本当に……残念だよ、一郎」

それを眼の端に入れ“総代”御剣宗司はぽつりと呟く。
その声はあまりに寒々しく乾ききり、そして……和丹一郎の耳に届くことは決して無く蒼く煙る月夜に消え入った。



───とにかく、何もかもが怖かった。

至る所から苛む痛みに恐怖した。
流れ止まらぬ赤き血潮に恐怖した。
全身に走る悪寒に恐怖した。
それを抑え込むかのように、その背に未だ蠢く熱に恐怖した。
何かを急かすように、己を高揚させ迸る刺激に恐怖した。
───巡る
───巡る
───巡る
恐れは、怖れは、畏れは、懼れは、
己を蝕み埋め尽くす。
こうして、“世界”はそれで満たされる。
だからこそ、自分は

「───なるほどな。万象が恐れしかないのならば、結局は全て“等価”という事か。これでは、お前と関わろうとする者ほど絶望しか残らないだろうな。だが、どちらだ? 全ては“有”か? それとも“無”か?」

問いかける声は、地響きにも似て恐かった。
さらに意味が分らなくて、怖かった。
霞む視界に何か───トテモ、トテモ、コワイモノガ、ウツッテイル。 
だから恐くて動く。
自動的に、体は最適の反応をする。
刃は上に、道筋は明瞭。
どんなものでも真っ二つ。

「ふん……その損傷でも動きが殆ど変わらないか。本当に虫みたいだな、お前」

澄んだ音がした。
そして……心は更なる恐さで上書きされた。
本当に、全く───意味が分からない。
確かに振り下げた、手にあった刃が忽然と消えたのは何故?
しかもそれを、この相手が持っているのは何故?
その成り行きが、まるで把握できなかったのは何故?
さっき胸を斬られた時だって、ここまで意味不明じゃなかった。
理不尽を、理不尽で上回られた。
身体が、震える。
それこそ、虫のように。

「ふむ……なかなか重い太刀だな。これは、お前の身体に少し合ってない気もするが。しかし、あの姿に“戻れば”問題は無いか。それに、和丹家の者は皆尋常ではないほどに大柄だったな。お前も、成長すればあの兄のようになるのかな? ん?」

微笑を含んだ声でそう言いながら太刀を一振り。
そして、無造作に放り投げられ返されたそれを思わず受け取ったときには

「ガッ!?」

熱く重い何かが腹にめり込み、息が出来ない。
痛み、苦しみは斬られた時以上。
今、何が起こったのか。
分からなさ過ぎて、恐慌に恐慌が重なる。
気がつけば、足が地に着いていない。
頭を鷲掴みにされ、吊り上げられていると理解したのは、そうされてから一秒後という気が遠くなるような時間が経った後。

「刃を向ける相手を見誤るなよ、小僧。それすら出来ないようでは、流石に使いものにならん。無益だが、ここで処断するしかなくなるぞ?」

「ひあ……あ……ああ」

呻きしか出てこない。
幼子のように、もがく事しか出来ない。
痛い、苦しい。
恐い、怖い、恐い、怖い、恐い……

「どうだ、死にたいか?」

「し、死ぬのは、こ、恐い」

「では、生きたいのか?」

「い、生きるのは、と、とてもとても恐い、恐い」

「では、どうする?」

「こ、恐いです。と、とにかく、何もかもが恐いのです」

永遠に近いような問い。
堂々巡りの、合わせ鏡の答え。
遂には地に塵のように投げ出され、本当に自分が塵になった気がした。

「ふん……強欲な事だな。しかし、なればこそ使い様があるというものか。それにしても飛騨の神人とは、斯様な者だったとはな。それとも、“あの夜”に何かが歪んだか?」

詰まらなげに言う言葉は、殆ど意味が分からない。
仰向けになり倒れた視界の先には、穿たれた穴の如き十六夜の月。
それがあまりにも綺麗過ぎて───恐かった。

「<神化の誓約>に至れ、小僧。そこにはきっと、お前好みの“恐怖”が待っている。そこで存分に、それを喰らうのだな」

頭に浸透するような深く響く声音に、何かの祈りにも似た厳粛さを感じ取る。
もしくは、悪魔の告解の如き相反する切実さか。
だが、それに答える力はもはや無かった。

「なんだ……お前、そんなものも持ち合わせていたのか? 意外と半端だな。が、それでも一色に染まりきるよりは大分マシか」

何を言っているのか、やはりさっぱり。
しかし、その詮索に思考を割く気にもなれ無い。
限界だった。
意識は深い闇へと、墜落するように引きずり込まれる。


さて、“総代”御剣宗司が和丹太に見たものは実際それほど大したものでもなかった。
ただ、恐れという単一なもの以外の一つの感情が顔に表れている事を認識したというだけの話だ。
口端を微かに吊り上げ、唇を三日月の如きに形作り、彼は嗤っていたというだけの。
つまり、それは余人が見れば怖気に苛まれるであろう───“愉悦”の表情だった。
かくして───和丹太という厄多きカミガカリは、こうして産声をあげようやく始まりに至った。
その前途は、当然の事ながら前提として希望など微塵も見出せなかった。

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最終更新:2014年02月28日 23:34