佐々木弁護士ー揺るがない平安

ゆるがない平安を持つ秘訣



ヨハン早稲田キリスト教会、ヨハン教会記録部がセレクトしてお伝えします。
今回も、KOSTA-JAPANに講師として来て下さった、佐々木弁護士のエッセーをご紹介します。

弁護士 佐々木 満男

■これは1997年12月13日のビジネスマン伝道集会 B & P Winner's Christmas Festivalでのメッセージを修正・加筆したものです。


 私は山に向かって目を上げる。
 私の助けはどこから来るのだろうか。
 私の助けは天地を造られた主から来る。
(詩篇 121:1,2)



1.はじめに

ひところ世界最大の経済大国ともてはやされた日本は、今その経済が大きくゆれています。経済ばかりではありません。世界で最も安定していると言われた日本の政治もゆれています。また世界で最も信頼できると思われてきた日本の行政もゆれています。司法もゆれています。マスコミもゆれています。学校教育もゆれています。家庭もゆれています。宗教さえもゆれています。そして最もゆれているのは日本人一人ひとりの個人の価値観ではないでしょうか。それらは、単にゆれているだけでなく、根底から崩壊しつつあるような気がします。

将来が見えない。今なにをやったらいいのかわからない。なにもかも悪くなって行きそうだ。今どんなことが起こっても、おかしくない。このような日本社会全体の絶望的風潮に流されて、私たちはどんどん平安を失っているのではないでしょうか。

このような不安と混迷の中で、私たちが「ゆるがない平安」を持って楽しく力強く建設的に生きていくための秘訣を、世界の永遠のベストセラー「聖書」から、ご一緒に学びたいと思います。


2.目に見えるものはすべて移り変わる

私たちは平安をどこに求めているのでしょうか。どうしたら安心して生きていけると思っているのでしょうか。

銀行にたくさん預金があれば安心だ。優良会社の株を持っていれば大丈夫だ。土地や家を所有していれば、いろいろな保険に入っていれば、健康ならば、若ければ、一流大学を出ていれば、一流会社に勤めていれば、しっかりした人間関係、特によい家族があれば等々、安心の土台(ベース)になるものがたくさんあればあるほど、平安を持つことができると考えているのではないでしょうか。

しかし、それらは本当に安心の土台なのでしょうか。このところ、銀行、証券会社、生命保険会社が次々に破たんしています。これから実施されるビックバンによって、自力で生き残れる日本の銀行は3行、証券会社は1社しかないなどと予想されています。

上がることはあっても下がることはないと信じられてきた不動産価格は銀行等の不良担保物件放出でまだまだ下落しそうです。不動産価格だけでなく、絶対不動と思われている日本の大地そのものが、阪神大震災がありましたように、大きくゆれています。そして、各方面から、近く関東・東京にも大地震が起こると予測されています。

日本社会経済の最大の強さであった終身雇用制度はどんどん崩壊しています。離婚や少年少女の犯罪の激増からわかりますように、夫婦親子の関係もどんどん壊れていっています。学校教育者も完全に自信を失いつつあります。医療制度の発展とうらはらに、病人や精神異常者は増える一方です。そしてなによりも、多くのマスコミ報道・出版の俗悪化・愚劣化によって、私たちの考え方もどんどん汚され、俗悪化・愚劣化しつつあります。

このように社会全体が混乱しつつある時には、人々はますますゴルフや温泉に行って気晴らしをし、酒や精神安定剤を飲んで平安を得ようとします。セックスに耽溺して世から逃れようとします。また、ヨガなどの精神療法に頼ったりします。そして多くの人々が、わらをもつかむ思いで新興宗教に走ります。しかし、そのようなものでゆるがない平安を持ち続けることはできないことを誰でも知っています。それらはみな、まやかしか一時的な便法にすぎないからです。

平安や安心は自然に得られるものではありません。常にその土台となるものを必要としているのです。土台がしっかりしていれば平安で安心していられるのです。しかし、土台がゆれ動くものであるならば、その上に乗っている平安や安心は、一緒にゆれ動いてしまいます。

私たちが平安を失っている理由は一体どこにあるのでしょうか。それはまことに単純明快です。その理由は、私たちが、ゆれ動くものを土台にして平安を得ようとしているからです。


3.永遠にゆるがないものとは何か

私たちが「ゆるがない平安」を得るためには、私たちの信頼が「永遠にゆるがない土台」の上に築かれていなくてはなりません。それでは「永遠にゆるがない土台」とは何でしょうか。「永遠にゆるがないもの」がそもそも存在するのでしょうか。

その答は聖書に明確に書かれています。聖書には、永遠に無限なる唯一・絶対・全知・全能の天地万物の創造者なる神が存在する、と書かれています。聖書全体がそのような偉大なる創造主の存在を大前提として書かれています。

初めにお読みした旧約聖書の詩篇第121篇の第1節と第2節をもう一度お読みします。

 私は山に向かって目を上げる。
 私の助けはどこから来るのだろうか。
 私の助けは天地を造られた主から来る。

まず「私は山に向かって目をあげる」とありますが、山を見れば同時に天を見ます。私たちは雄大な山と宏大な天を見るとなんとなく心に平安を持つことができます。なぜなら私たちは目で見たものに影響されるからです。山は雄大です。山はゆらぎません。天は宏大です。天もゆらぎません。しかし山は山にすぎません。天は天にすぎません。それらは気分的な平安を与えてくれますが、私たちの現実の助けにはならないのです。

そこで次に、それでは「私の助けはどこから来るのだろうか」という思いが起きてきます。山や天のような大きくゆるがない助けがあったらいいなあ、と思うわけです。

そうすると最後に、そうだ「私の助けは天地を造られた主から来る」のだ、ということに気がつきます。もし、全宇宙・万物を造られた方がおられるならば、それ以上に偉大な存在はありません。

よく考えてみると、天も山も絶対に変わらないものではありません。天気は常に移り変わります。山も地殻変動や噴火によって一瞬のうちに変わってしまいます。

しかし、天地を造られた方は天よりも山よりも偉大なるお方です。そのお方、すなわち天地万物の創造者は永遠に変わることがない、と聖書に書かれています。天地万物の創造者である神こそが、「永遠にゆるがないもの」であるわけです。


4.ゆるがない平安

もし私たちが、「永遠にゆるがないもの」すなわち天地の創造者なる神から現実に助けを得ることができるならば、私たちは「どんなことがあっても絶対に大丈夫だ」という確信を持つことができます。「ゆるがない平安」を持つことができます。

詩篇第46篇第1節から3節には次のように書かれています。


 神はわれらの避け所また力である。
 悩める時のいと近き助けである。
 このゆえに、たとえ地は変り、
 山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、
 そのさわぎによって山は震え動くとも、
 われらは恐れない。

また、イザヤ書第54章第10節には、神の私たちへの約束として次のように書かれています。

 山は移り、丘は動いても
 わがいつくしみはあなたから移ることなく、
 平安を与えるわが契約は動くことがない。

私たちが、天地の創造主の存在を信じ、その神が私たちを現実に助けてくれることを体験できるならば、このような絶対的平安を持つことができるのです。


5.天地の創造主を信じるには

それでは、私たちはどのようにしたら天地万物の創造者なる神を信じることができるのでしょうか。聖書を読み、これを理解して信じることによってです。

旧約聖書の創世記第1章第1節に、

 はじめに神は天と地とを創造された。

と書かれています。今の同志社大学を創設した新島譲氏はこの聖句を読んだだけで天地万物の創造者なる神を信じました。しかし、新島氏のように、聖書のみことばを読んだだけで天地の創造者の存在を信じることができる人は少ないのではないでしょうか。特に単なる仮説にすぎない進化論が、あたかも絶対的な科学の真理であるかのように教育されている日本の国にあっては、創世記に書かれている神による天地万物の創造論を信じることは難しいと思います。

けれども、物理学でも、化学でも、生物学でも、音楽でも、美術でも、法律学でも、政治でも、経済でも、真理を深く深く追求していけば、必ず天地創造の神の存在に突き当たります。そのような偉大な神の存在を前提にしなければ、もはやそれ以上説明ができなくなってしまうのです。

また、私たちが素直な気持ちで天地万物を観察していくならば、これらの偉大なものはすべて、決して偶然にできあがっているものではなく、完全無欠なる全知全能の創造者によって造られていることが、直観的にわかってくるのではないでしょうか。
6.天地の創造主と人間との関係

もし私たちが天地の創造者なる神の存在を信じられるようになったとすると、次の問題は、このような私たちの理解をはるかに越えて存在する偉大なる神と私たち人間との関係は一体どうなっているのか、ということです。

神が現実に私たちを守ってくれるのだろうか、本当に「ゆるがない平安」を与えてくれるのだろうか、ということです。

神は全宇宙を創造してこれを所有しているような大いなるお方です。そのような大いなるお方と、宏大な宇宙の中にある一つの小さな惑星にすぎない地球上のそのまた小さな一人ひとりの人間とはどのようなかかわりがあるというのでしょうか。

聖書によりますと、神は人をご自身のかたちに造られたと書かれています。(創世記 1:27)  創造された天地万物の中で、人間は神に似るように造られた最高の被造物であるというのです。神はご自身の栄光のために人を造られ、お互いに愛し合うために人を造られたのです。

けれども、私たちが罪を犯して神から離れてしまっているために、神というすばらしいお方を知ることができなくなってしまっているのです。

そこで神はご自身を誰にでも良くわかるように、人となってこの世に現れてくださったのです。この人こそ、約2千年前にユダヤのベツレヘムにお生まれになったイエス・キリストです。クリスマスとは、キリストのミサ、すなわち神が人となられたキリストの誕生を祝う礼拝のことです。

私たちは新約聖書に書かれている、イエス・キリストの誕生、生い立ち、教え、奇跡のみ業、十字架の死、復活、昇天の記事から、キリストを知ることができます。キリストご自身が、

 私を見た者は父を見たのである(ヨハネの福音書 14:7)。

すなわち、「キリストを見た者は神を見たのである」と明確に言っておられます。

キリストは私たちの罪を許し、私たちを神に立ち帰らせるために、自ら十字架にかかって血を流され、そのいのちを犠牲にしてくださいました。私たちにははかり知ることのできない、そのような深い神の愛の犠牲がなければ、私たちは神に立ち帰ることができなかったのです。

私たちは、死からよみがえったキリストの復活のいのちによって、神に永遠に結ばれたのです。


7.キリストの平安-神の平安

聖書において、神は「平安の神」と呼ばれますが、キリストは「平和の君」と呼ばれています。人となられた神、平和の君イエス・キリストは、

 私は平安をあなた方に与える。
 私が与えるのは世が与えるようなものとは異なる。
 あなたがたは心を騒がせるな、
 またおじけるな(ヨハネの福音書 14:27)。

と約束しておられます。

キリストを信じるということは、キリストを私たち一人ひとりがその心の中にお迎えするということです。そうすると、全能の神であるキリストが霊として私たち心の中に住んでくださるということです。これは本当にものすごいことです。

ここで「私は平安をあなた方に与える」ということは、「平和の君である私自身をあなた方に与える」ということです。それは神の絶対的な永遠の平安ですから、この世の相対的な一時の平安とは異なるのです。ですから、私たちはもはや心を騒がせたり、おじけたりする必要はないのです。

詩篇第91篇にはこう書かれています。

 あなたは夜の恐ろしい物をも、昼に飛んでくる矢をも恐れることはない。
 また暗やみに歩きまわる疫病をも、真昼に荒らす滅びをも恐れることはない。
 たとい千人があなたのかたわらに倒れ、万人はあなたの右に倒れても、
 その災いはあなたに近づくことはない。
 あなたはただ、その目をもって見、悪しき者の報いを見るだけである。
 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
 災いはあなたに臨まず、悩みはあなたに近づくことはない。
 私は長寿をもって彼を満ち足らせ、わが救いを彼に示すであろう。
 (詩篇 91:5~9:16)

これは単なる精神論にすぎないのでしょうか。そうではありません。第二次世界大戦の頃のことです。イギリス軍にウイットゼイ大佐という人物がいました。彼の率いる連隊は全員が毎日朝晩、この詩篇第91篇を朗読して神に安全を祈ったそうです。彼の連隊は5年間激戦地で戦いつづけました。他のほとんどの連隊は全滅したり、多数の死者を出していました。ところが彼の連隊だけは一人の死者も出なかったのです。これは単なる偶然なのでしょうか。

アメリカの統計調査によりますと、毎週日曜日教会へ行ってキリストを礼拝している人たちは、そうでない人たちよりも10年長生きしています。

このように、神のみことばは、私たちに単に精神的な平安を与えるだけでなく、現実生活の安全と安定をも与えるのです。

天地万物の創造者は、私たちのために太陽を輝かせ、自然の恵みを与え、私たちを毎日養い守ってくださっています。神はこのように現実を支配しておられるお方です。

マルコの福音書第11章においてイエス・キリストはこのように言っています。

 神を信じなさい。良く聞いておくがよい。
 だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ずなると、心に疑わないで信じるなら、
 そのとおりになるであろう。
 そこで、あなた方に言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。
 そうすれば、そのとおりになるであろう(マルコの福音書 11:22~24)。

キリストを信じるなら、私たちはこのように自分の力ではなく、神の力により頼んで、現実の問題の山々を次々に征服していくこともできるのです。

イエス・キリストはまた、次のように私たちに約束しておられます。

 あなたがたが父に求めるものはなんでも、私の名によって下さるであろう。
 今までは、あなたがたは私の名によって求めたことはなかった。
 求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。
 そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう(ヨハネの福音書 16:23,24)。

今日これからお話をして下さるアサヒビール会長の樋口廣太郎氏は、業績が落ち込み「夕日ビール」とまでいわれて倒産しかかっていたアサヒビールの再建のために住友銀行から派遣されました。キリストを信じていた樋口氏は、神がついているから必ず何とかなると信じて、日々祈りつつ会社再建に取り組んでいました。そんなあるとき、ドイツのビール専門誌を読んでいると、日本ではまだ苦いビールが売れている頃に、世界のビールの味は苦みの少ないすっきりした味へと変化していたことに気付きました。そこで、思い切って味を全面的に変えた「スーパードライ」を発売してみました。これが爆発的に売れて、今や業界トップのキリンビールを追い抜こうとしています。(樋口氏は現在経団連副会長ですが、日本経済再建のホープとして期待されています)


8. ゆるがない平安を持つ秘訣

「ゆるがない平安を持つ秘訣」は、私たちの人生を永遠に絶対にゆるがない土台のうえにおくことです。永遠に絶対にゆるがない土台とは全知全能の天地万物の創造者なる神です。

聖書において神は、「あなたは私の目には高価で尊い。私は限りない愛をもってあなたを愛している。だから安心しなさい。どんなことも心配したり、思い煩ったり、恐れたりしてはならない。ただ私を信頼しなさい。そして私に従ってきなさい」と、くり返し、くり返し、私たちに語っておられます。

新約聖書のコロサイ人への手紙第1章には、イエス・キリストが天地万物を創造したと書かれています。ですから、創造者なる神を知るには、その神が人となられた平和の君イエス・キリストを信じればよいのです。イエス・キリストは昨日も、今日も、いつまでも変わることがないお方です(へブル人への手紙 13:8)。

キリストを信じるということは、キリストが私たちの心の中に住んでくださるということです。それは全能の神が私たちと一緒に日々の生活を営んでくださるということです。それは特定の宗教という形式的な儀式ではなく、永遠に生きておられるキリストとの日常生活における生き生きとした現実の関係・交流を意味します。ですから、イエス・キリストを信じて生きるならば、私たちは日々、「ゆるがない平安」を持って生きていくことができるのです。

政治や経済がいかに動揺しても大丈夫です。会社が倒産しても、家庭が崩壊しても大丈夫です。病気になっても、路頭に迷うようなことになっても大丈夫です。その人は「キリストの平安」すなわち「ゆるがない神の平安」を持っているからです。やがてはその人を通して政治や経済は再建され、会社や家庭が新しく建て直され、その人の健康が快復し、社会復帰ができるようになります。

アメリカのケンタッキー州にサンダースというビジネスマンがいました。サンダース氏は60才までいろいろな仕事をしましたが、どれもうまくいきませんでした。けれどもキリストを信じていた彼はあきらめることなく、神に人生最後のチャンスを与えて下さいと熱心に祈りました。そうすると、家庭で料理していたフライドチキンを近所の建築工事現場で働いている人たちのために売ってみよう、と思い立ちました。これを売り出してみると、「非常にうまい」ということで毎日お店に入りきれないほどお客さんが集まってきたのです。そこでお店を増やしているうちに世界中に広がって、ケンタッキー・フライドチキンの大フランチャイズ・チェーン店になりました。

神のチャンスは、いつでもどこにでもあるのです。問題はただ、私たちが、それを神に熱心に祈り求めているかどうか、ということなのです。

もしも私たちが生きているうちに、世界がどんどん混乱し、不法・不道徳がはびこり、大地震や大戦争などが各地に起こって人類滅亡の危機にひんしても、私たちには希望があります。その時には、イエス・キリストが再びこの世に来てくださって、キリストを信じている者たちを救ってくださると、聖書において約束されているからです。(マタイの福音書 24:30,31) ですから、世界が破滅するような事態になっても大丈夫です。

聖書には、私たちは永遠に生きておられるイエス・キリストを信じることによって「永遠のいのち」が与えられる、と約束されています(ヨハネの福音書 3:16)。この世の肉体のいのちが終わった後も、キリストを信じている者の霊魂は永遠に天国に生きていくことができる、というのです。死んでも大丈夫なのです。死んでも「永遠のいのち」があるからです。

エチオピア人の友人から聞いた話です。彼は、エチオピアの干ばつにより飢餓状態で死んでいった多くのクリスチャンが、最後まで神を賛美してその顔は喜びに輝いていたのを見て非常に驚いた、と言っていました。彼らは、肉体のいのちを超越した「永遠のいのち」に生きていたのです。

百年足らずのこの世の人生で、私たちは、すべった、ころんだ、とあくせく暮らしていますが、永遠に比べればそれは一瞬の出来事にすぎません。私たちは、いかなる状況においても、神を信じて人を愛して今日一日を喜んで精一杯生きればよいのではないでしょうか。イエス・キリストが言っているように、明日のことを思いわずらう必要は全くないのです。(マタイの福音書 6:34)

これこそが、ゆるがない平安を持って生活する秘訣です。


 ひとりのみどりごが、私たちのために生れる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる(イザヤ 9:6)。


最終更新:2012年01月24日 22:52
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