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神の愛~敵でさえも赦す愛~ 
「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。それで今や、わたしたちはキリストの血によって義とされたのですから、キリストによって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです。」(ローマ4:8~10)

人間はだれでも、自分が誰かに悪いことをした場合、相手に赦されたいと願います。しかし、いざ自分が他人の罪や失敗を赦すとなると、これは簡単ではないと気づきます。赦しとは、人間にとって一番難しいことの一つではないでしょうか。以前、とても心温まる話を聞きました。かなり昔の話ですが、トルコ人によるアルメニヤのクリスチャンの迫害があった時のことです。アルメニヤの少女とその兄とがトルコ兵に追跡されました。兵士は二人を追いつめ、その少女の目の前で彼女の兄を殺してしまったのです。彼女はやっとのことで逃げのび、のちに看護師となって働くようになりました。
ある日、彼女の働いていた病院に、一人の負傷した兵士が血だらけで担ぎこまれて来ました。彼女は、その兵士こそ、かつて自分の兄を殺した人であると気がつきました。しかし彼女は、兄を殺したそのトルコ兵を、骨身を惜しまず看護しました。彼女のお陰で、その兵士は快復に向かっていきました。そしてある時、その兵士は、自らを献身的に看護したその看護師こそ、かつて自分が殺した人の妹であると知ったのです。兵士は不思議に思い、「何故あなたは、あなたの兄を殺した私のためにここまで親切にしてくれるのですか。」と尋ねました。すると、彼女は答えました。「私の信じる神様は、神様に敵対していた私の罪を全部赦してくださったので、私も、自分に敵対する人を赦す信仰を持っているのです。」と。彼女はイエス・キリストの十字架によって自らの罪が赦されていることを確信していたので、憎しみに打ち勝つことができたのです。何と感動的な話でしょうか。「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」(ローマ12:21)という言葉を実践したのでした。
「敵をも赦すことのできる信仰」…彼女が持っていたこの信仰、これは、今日のように乱れた世の中において、最も必要なものではないでしょうか。この他人を赦す心があれば、私たちの生活はどんなに変わるでしょう。憎しみや妬みに代わって赦しの心がこの社会に満たされたら、どんなにこの世の中は変わることでしょう。しかし、このような愛は決して自分の内からは出てきません。不可能です。他人を赦すことは、神様が私たちのために遣わされた救い主、イエス・キリストの十字架の福音を心から信じることによって、初めて実践できることなのです。
イエス・キリストは地上での33年半の生涯で、常に完璧な模範を示されました。一人の人をも憎まず、どんな扱いを受けても、決して呪いの言葉を返すことはしませんでした。酷い迫害や仕打ちに対しても、最後まで忍耐し続けられました。十字架にかけられて血を吐くような苦しみの絶頂においても、天の父なる神様に向かって、静かに執り成しの祈りをなさいました。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカ23:34)イエス・キリストは、人間の側からはとうてい理解できないほどに、人間を愛し抜かれました。人間の心の中にある罪を憎んでも、その人を憎むことはありませんでした。罪に支配されている哀れな人間に、ますます赦しの心をもって接してくださいました。人に赦し合うことを教える前に、まずご自身が人の罪を赦す道を開いてくださいました。ご自分を殺そうとする人たちのために祈り、そして、ご自身の命までも奉げられたのです。ここに、すばらしい真の神様の愛(アガペの愛)があります。
この神が遣わされたすばらしい救い主、イエス・キリストを信じて罪が赦された人は、他人の罪や失敗をも心から赦すことができる人になるのです。憎しみは、破壊につながります。家庭を破壊し、人と人の繋がりを破壊し、人としての親しい交わりを破壊し、国を破壊します。しかし、「他人を赦す」ことは、常に建設的です。家庭の中に、職場の中に、人と人との交わりの中に平和を建設します。イエス・キリストを信じて、神にすべての罪が赦された確信を持った人だけが、他人を赦し、世の中に平和を作り出すことができるのです。

最終更新:2011年11月28日 20:17