アブラハムの従順
聖書本文:創世記22:1-13
アブラハムの従順に見られる特徴は彼は『はい』という言葉一つで御言葉に応答したということであります。1節と11節にあります。
彼は神様の言葉に対して『はい』という言葉一つで反応することのできる人物に成長していました。これは何を意味するんでしょうか?生活の全ての領域において、神様の御言葉、神様の御旨に集中していたということであります。例えば私達がテレビゲームに集中していたとしましょう。そこで親が話しかけてきます。どのように反応しますか?「うるさいな、あっちへ言ってくれ。今それどころではない。」
こう応えるかもしれません。テレビゲームにしか頭にない状況です。しかし、アブラハムはどうであったか、イサクを捧げる命令が出されるときにも、『はい』とイサクを捧げるなという命令が出されるときにも『はい』という言葉一つで従順しました。これがアブラハムの信仰の素晴らしい所であります。彼はイサクを捧げなさいという命令が出されたとき、『すいません、もう一度言ってください。本当ですか?耳を疑います!』とは言いませんでした。私たちならば、こう言いたくもなりますね。しかしアブラハムはもう一度神様の言葉を聞き返すことはなかったのです。それは、アブラハムにとっては神様の御声はあまりにも聞きなれていたからだと考えます。つまり普段の生活において神様の御声を毎日聴いていたのです。だから神様の言葉を聞き間違えるということはなかったのです。それだけ神様との深い交わりがあったのです。人の言葉は聞き違えることがあるかもしれません。しかし、神様の御声をはっきりと聞き分ける事ができるようになることは大きな祝福であります。
そして、今回の試練を通して信仰の試験に合格したもう一人の人物がいます。それは誰でしょうか?イサクであります。創世記を見るならば、アブラハム、イサク、ヤコブが代表的な人物ですが、それぞれ割かれている紙面が違います。3人の内イサクは非常に少ないです。ヤコブは逆に非常に多くの面で聖書に書かれています。それは、ヤコブが人間的に色々頭を働かせながら、神様の御言葉に従順しない点が多かったからです。ヤコブはそういう点で非常に私たちと似ています。だから、教訓的な面が多いのでヤコブの人生は多く書かれています。しかし、イサクは最初からこのような素晴らしい従順を行いました。年はまだ20代位だと考えられます。だから、イサクの生涯はそんなに多く書かれていません。しかし、私達はこのアブラハムがイサクを捧げるこの場面でイサクの信仰も成長させたことを見ることができます。
ヘブライ書11章19節を見ると、アブラハムはイサクを返してもらったと書いてあります。つまり、アブラハムは2回、神様からイサクを与えられたと同じことであります。どのような信仰によってアブラハムはもう一度イサクを与えられたのでしょうか?1節、「あなたの愛する独り子のイサク」であります。神様はアブラハムにとってイサクが何よりも『愛する』存在、目に入れてもいたくない、自分よりも大切な存在であることを知っていました。そのイサクを捧げよという命令にどのような意味が込められているのか?それは何事も神様が与えられるものに、神様以上の価値をおいてはならないということであります。そして、私達が神様から与えられるのは、与えられるものに価値を置きながらも、神様の前でもう一度それを返す信仰がある時に、確かに与えられるということであります。同じようなことは私達の信仰生活でも同じことが考えられるのです。
最終更新:2011年12月20日 00:14