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「クリスマスの意味」


マタイ2:1-12 
「クリスマス楽しみですか?」「どんなクリスマスを予定していますか?」クリスマスを待ち望む時期を西洋ではアドベントといって12月いっぱいはクリスマスの雰囲気で満たされるのが普通です。アドベントカレンダーというカレンダーもあって、12月1日から一日一日に、扉がついていて、その中にはお菓子が入っています。それを一日一日あけて25日までワクワクしながら待ち望むというカレンダーがアドベントカレンダー。25日まで1週間となった今日、私たちは、どのような心をもってアドベントを過ごせばよいのでしょうか?救い主イエスキリストの誕生の意味を考えながら、今年は最高のクリスマスにするべくメッセージを分かち合いたいと思います。
今日の本文はマタイによる福音書です。イエスキリストの記述は4福音書に収められています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つ。この4人は、同じイエスキリストの人としての生活を描写しました。4人が話し合った形跡はありません。その証拠に同じ出来事を書いてあったとしても、少しずつその記述の仕方が違っています。完全にあっているわけではなく、実は、統計学上の計算によればこれがちょうど自然な形で誤差を生んでいる計算結果もあります。つまり、4福音書は完全に独立して書かれています。しかしながら、読んでみればわかります。4福音書は、調和を保ってイエスキリストを浮き彫りにしています。Ⅱテモテ3:16「聖書は、神の霊の導きの元に書かれ、」と聖書自体が言っているとおり、主なる神様ご自身が、つまりおひと方が聖書の筆者であります。4人の書き手が、ただその道具として用いらました。さて、4福音書は4つの視点で書かれているのをご存知でしょうか。マタイは、王様としてのイエスキリスト。マルコは僕として。ルカは人間として。ヨハネは神様として。それぞれの焦点に従ってイエスキリストの人生を書きました。今日の本文マタイによる福音書は、王様としてのイエスキリスト。つまり、王様というテーマがひとつ貫かれているのだと覚えておいてください。この視点で今日の本文をもう一度眺めてみましょう。東の国から来た占星術の学者、伝統的にこれは東方博士と呼ばれる、この博士たちがユダヤの王、この世の中を収める王の中の王として生まれたイエスキリストを拝みに来る場面です。その時に東方博士が3つの贈り物をイエスキリストに対して送ります。それが、黄金、乳香、没薬の三つ。今日は、この捧げ物の意味を中心に恵まれる時間としましょう。
第一に黄金。これはイエスキリストの王権を表しています。つまり、クリスマスは王の中の王、この世万物を収める方イエスキリストの誕生日です。王という存在は、その国の全権を握っている権力者、リーダーのことを表します。その国がどのように立ち居振舞うかは、王様次第でガラリと変わるものです。今日の本文に、ヘロデ王という王様が登場します。彼がどのような王様だったか、考えることは私たちにとって非常に有益です。彼は暴君でした。頭が良く、いわゆる独裁者の一人です。自分の妻と自分の息子を、クーデター容疑で殺害しました。マタイ2:16には、イエスキリストを殺すために2歳以下の子供全てを殺し尽くすというくらい、残忍で徹底的な王様でした。この王様が、イエスキリストの誕生の知らせを聞いたときの反応はどのようだったでしょうか?3節『これを聞いてヘロデは不安を抱いた』ヘロデ王は不安で恐れ惑いました。なぜ?ユダヤ人の王として生まれたイエスキリストに自分の王座、王権が奪われると心配したからでした。この不安から、ヘロデ王はイエスキリストを探しだし殺そうと狙うようになります。さてここで、一歩踏み出して質問してみたいと思います。国を収める王様と同じく考えてください。では、みなさん自身は誰が収めているのでしょうか?自分の心の王座に誰が座っているでしょうか?自分の行動、考え、言動、人生を決めているのはどのような存在でしょうか?いま、ヘロデ王が暴君である話をしました。ズル賢く残忍である話をしました。しかし、私そしてみなさんを収めている王は、どうでしょうか?実は、史上最悪、とってもわがままで、ズル賢くて、嘘つきで、どうしようもない王が私を収めています。その暴君にくらべれば、ヘロデ王なんて幼稚なもんです。誰ですか?そう、自我という存在が私の心の王座を占めて、独裁者として君臨しています。聖書は語ります。ローマ3:10―12『次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。皆迷い、だれもかれも役に立たない者となった。善を行う者はいない。ただの一人もいない。』CSルイスという、ナルニア国物語を書いたオックスフォード大学の教授は、人間の良心に関する詳細な研究を残しました。良心というのは、どの時代、どの民族、どの文化圏に行っても変わらずに存在するものである。だから、それは文化的な営みの産物ではない。そして、良心が推奨するのは、常に自分を犠牲する心であること。その最高理念は自分の命を捨てて相手を助ける利他的行為であり、利己的な自我とは真っ向から反対していることを発見しました。そこから、彼はこう結論づけます。この良心こそ、聖書が語るとおり主なる神様が人間に与えられた根源的な法律だという結論です。胸に手を当てて考えてみてください。今日一日私は自分の良心の語ることを実行して生きてきたでしょうか?(具体例)正直良心を破りまくって生きてきたと告白せざるを得ません。何個の良心という法律を破ったかわからないくらいです。素直な視点で見れば、私ほどの罪人がどこにいるでしょうか?その罪人が、私の心の王座にドカンと座っているのです。クリスマスは、王の王としてこられたイエスキリストの到来を告げる日。そのとき、時代は世の中の王が収めていたBCから、イエスキリストの時代であるADにかわりました。私の心も同じです。私の自我の時代は終わり、イエスキリストが私を収めなければなりません。クリスマスを本当の喜びで待ち望むにはどうすればよいのでしょうか?私の自我が心の王座から降りなければなりません!私が主イエスキリストの前で低くなり、罪人である自分を告白しなければなりません。そうしないのであれば、クリスマスの喜びは表面的で虚しい喜びとなります。私も経験があります。クリスマスの時は、友だちと遊んで、食べて飲んでワイワイたのしいのです。しかし、クリスマスが過ぎたら、どうもさみしい気持ちがする。そのような経験はありませんか?それは、イエスキリストに王権を渡すことを拒んで、殺害しようとしたヘロデ王と同じ心です。そこに喜びはありません。考えてみてください。自分の持っている考え、こだわり、思想・・・このようなものが自分にとって有用であったことがあるのでしょうか?ローマ6:21『では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。』まさしく、恥ずかしいと思うものばかりです。みなさん。いらないものを捨てることが近道であること信じます。罪人であることを、ありのままに告白するのです。イエスキリストはおっしゃいました。『悔い改めなさい。神の国は近づいた。』自分が罪人であると告白する人に、神の国が来ることを聖書は約束しています。心の王座から自我を引き下ろし、王の王であるイエスキリストをそこに迎える決心をする。これこそ祝福の扉を開くのです。まだ、イエスキリストを我が人生の主、我が救い主として迎え入れていない方は、今日、主イエスキリストを受け入れてください。BCからADへと時代が変わることを体験できます。そして、イエスキリストを受け入れているクリスチャンであっても、自我がまだ心の王座を占めているのであれば、悔い改めましょう。クリスチャンであったとしても、自らのこだわりでその信仰生活を台無しにする人はたくさんいるのです。それは主に祝福される道ではありません。自らのこだわりを捨てて、みことばに従おうとする私に、クリスマスの本当の喜びと祝福が望むと信じます。
次は、乳香です。乳香はユダヤ教の中で礼拝を捧げるときに焚かれるものでした。ですから、イエスキリストが礼拝にふさわしい方であることを表しています。そもそも、東方博士はイエスキリストを礼拝しに東の国からはるばるやって来たのです。ではなぜ、イエスキリストが礼拝の対象なのでしょうか?それはイエスキリストが神ご自身であったからです。ヘブライ4:15『この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。』聖書は、イエスキリストに人間としての弱さを認めています。お腹がすくし、疲れたら眠るし、喉が渇いたり、泣いたりするのです。しかし、ただ一点、人間と違いました。それは、罪を犯されなかったのです。罪がなんであるかさえ知らなかったと書いてあります。イエスキリストは、直接的に自分でおっしゃいました。『私と父とは一つである。』と。私が父なる神様であると宣言されたのです。そうです。イエスキリストは、天地万物を想像した創造主であり、私を作られた方でもあります。クリスマスは、神ご自身であるイエスキリストが人としてこられた日です。ですから、クリスマスを待ち望む私たちは、イエスキリストの礼拝者とならなければなりません。詩篇100:3『知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた。わたしたちは主のもの、その民 主に養われる羊の群れ。』知れ、主こそ神であると。というのが礼拝の本質です。主なる神様を知る、というのは人間に与えられた最も価値のある行為です。そのチャンスが礼拝によって与えられます。ですから、礼拝は何に例えることができるでしょうか?それは、デートです。主イエスキリストとのデートの時間が礼拝の時間です。デートを通して、ふたりが互いに性格や考え方を知り合うのと同じ。礼拝で、もっと、父なる神様の愛を知り、近づくことができます。その特別なめぐみが注がれているのが礼拝です。黙示録3:20『見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう。』聖書は食事をするという面白い表現を使いました。まさしく、デートの基本ではないでしょうか?皆さんは、デートにはどのようにいくでしょうか?まずは、ワクワクした気持ちですね。今日は、どんな話をするんだろう?今日はどんなイエスキリストを知ることができるんだろう?期待感で来るのが礼拝です。そして、デートはよく準備しなくてはなりません。汚い格好で、髪もボサボサでデートにいくでしょうか?よく服も髪も整えて、何をするかよく計画して準備するのではないでしょう。自分の格好もきれいに、東方博士がしたように捧げ物も良く準備して来るのが礼拝です。さらに、デートの最中。相手の仕草、言葉に集中します。相手の心の動きをよ~く感じ取る必要があります。まさしく、礼拝でみことばをよく聞き、メッセージに集中する時に、それはすばらしい礼拝となるのです。もちろん、ここにいらっしゃる方の中には、礼拝に初めていらしてなんの意味がわからない方がいることを私も知っています。そのような方にお勧めします。ぜひ礼拝に出席してください。手放しで、他人にすすめることができることなんて世の中そんなに多くないですが、礼拝は誰にでも勧めます。私たちを造られた父なる神様を体験する礼拝だからです。先ほどお読みした黙示録3:20に書いてあるように、心の扉を開いて礼拝に参加してみてください。生きておられる真の神であるイエスキリストがみなさんお一人お一人に出会ってくださいます。今日このゴスペルナイトから、そうなると信じます。
3番目は、没薬です。没薬は死んだ人を埋葬するときに死体に塗る香料でした。イエスキリストは、生まれたばかりでした。しかし、贈り物に死者を葬る没薬が含まれていました。これこそ、イエスキリストがこの世にこられた目的が死ぬためであることを示しています。イエスキリストが生まれる700年くらい前にイザヤという預言者がこのように預言しました。イザヤ53:4『彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。』この彼はまさしくイエスキリストのことを表現しています。そして、刺し貫かれた、とのその描写は十字架の上での死を、生々しくまるで見たかのようにイザヤは預言しました。イエスキリストの公の生涯のクライマックスである十字架の死は、旧約聖書の時代から預言された出来事でした。そして、その死によって私たちは癒されたのです。ローマ5:8『しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。』十字架の死、そしてその3日後の復活こそ、父なる神様が私たちを愛してくださっている証拠です。十字架、もといイエスキリストご自身が、愛のたっぷりとこもった、私たちに対するクリスマスプレゼントなのです。ですから、クリスマスは、私を愛し私のために死んでくださったイエスキリストがプレゼントとしてこの世に与えられた日なのです。誰かにプレゼントをあげたことがあるでしょうか?プレゼントをあげる時は、まずプレゼントを準備しなければなりません。その人は何が好きなのか?どのようなものが似合うか?あげたら、どれくらい喜ぶか?感謝してくれるか?・・・そんなことを考えながらプレゼントを備える時間を持ちます。そして、この時間は非常に楽しいのです。確かに大変なプロセスですが、これが長ければ長いほど上げた時の感動が大きいことを私たちは実体験として知っています。父なる神様の場合も同じです。私たちにイエスキリストという最高のプレゼントを与えるために、なんと天地創造前からずっと計画されていました。この世の中で一番長い期間準備されたプレゼントです。最高のシチュエーションで、最高の舞台を用意して私に与えるプレゼントです。プレゼントですから、それに対する代価を支払うことはありません。ただ、素直に感謝してそれを受け取るだけで、プレゼントの中身全てがもらう側のものとなります。イエスキリストの十字架の死と復活のプレゼントは、それを受け取った人に、平安、癒し、罪の赦し、あらゆる問題の解決など与えてくださいます。ヨハネ3:16『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』みことばは、プレゼントの中身の最高の形、永遠の命を約束されているのです。このイエスキリストというプレゼントの受け取り時期はいつでしょうか?それは、今です。イエスキリストの十字架の死と復活の恵みを、今受け取る私とみなさんとなることを信じます。そして、最後にプレゼントをもらった私は、どうすればよいのでしょうか?愛を受けてプレゼントをもらったのであれば、私はお返ししなければなりません。私が受けたのは、最高の愛のプレゼントでした。だから、私も最高のものをイエスキリストに返す必要があります。では、何を返せばよいでしょう?東方博士のように、黄金と乳香と没薬を捧げますか?いま、金の値段が相当上がってますから、黄金を捧げるのはかなり頑張らないといけません。乳香と没薬も希少価値が高く値が張ります・・・。いやいやいや、みなさん安心してください。みことばは、返すプレゼントは目に見えるものではないと語ります。1サムエル15:22『サムエルは言った。「主が喜ばれるのは焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。』そうです。みことば、この聖書の言葉を守ること、これこそ私たちの返すべきプレゼントです。つまり、従順です。信じなさいと書いてあれば信じる。喜びなさいと書いてあれば喜ぶ。この単純に見える従順が、最高の愛の表現となります。1ヨハネ5:3『神を愛するとは、神の掟を守ることです。神の掟は難しいものではありません。』私を死ぬまで愛してくださった主イエスキリストを信じて、愛して、みことばを守る私とみなさんになることを信じます。

歴史上、最初のクリスマス。東方博士が捧げた三つの贈り物で分かち合ってきました。今年のクリスマスを最高のクリスマスにするために、どのようにその日を待ち望めばよいでしょうか?まずは黄金。つまり王の王としてのイエスキリスト。その主に罪深い私を告白し、こだわりを捨てて、私の心の王座を引き渡さなければなりません。そして、乳香。私を天地創造前から愛して、神が人となられたイエスキリスト。その主を知る礼拝を心から捧げる必要があります。そして没薬。私を十字架で死ぬまで愛してくださったイエスキリスト。主の愛を受けたものとして、主の言葉に従順して、最高の愛を私も表さなければなりません。クリスマスまであと一週間。3つの捧げ物を持っていった東方博士が、『喜びにあふれた』と最高表現の喜びで喜びました。分かち合った3つの態度で臨んだ私たちも、同じく喜びにあふれるクリスマスを過ごせると信じます!

最終更新:2012年01月01日 03:08