「スペアはありません」
鍵には必ずスペアキー(予備の鍵)があり、自動車はスペアタイヤを積んでいます。しかし私達の人生に「予備」はありません。人生は一度きりでやり直しはききません。
「今日」という日は二度と巡って来ず、今日の空費を明日の勤勉で埋め合わすわけにもいきません。
「一人しかいない自分、一度しかない人生を、本当に生かしきらなければ、人間生まれてきたかいがない」とは『路傍の石』の中で有名な一節です。
私達は本当の意味で自分を、かけがえのない自分を、大切にしたいものです。振り返ってみて悔いの残らないような生き方をしなければなりません。
やり直しがきくと考える時に真剣さが欠けやすいのが人間共通の弱点でしょう。
ところで人生はやり直しがきかないことは誰でも知っていますが、実際にはやり直しがきくような安易な態度で日々を過ごし、そしていつのまにか一生を過ごしてしまい、
死ぬ前に後悔するがもはやどうしようもない-そういう人が多いようです。このようなことになる原因はその人の生きる態度に宗教性が欠けているということにあります。
宗教性ということの本当の意味は、普通に考えられているような迷信深さや現実逃避、すぐに何かにすがらずにはいられない意志の弱さなどとは違います。
一度しかない人生の意味・目的を真剣に考えて、自分本位の都合のいい考え方・生き方でなく、もっと真面目に、物事をあるがままに受け止めて、自分をごまかさない生き方をしよう、とする態度のことなのです。
例えば時計が道に落ちていたとしましょう。
これは地の中から沸いてきたものだろうとか、誰か親切な人が私にくれるためにここにおいていったに違いないと勝手に決めて、
さっさと自分のものにしてしまう人がいれば頭がおかしいかずうずうしいかどちらかでしょう。
手近に川があれば、これはごみ捨て場の一種だとか、学校とは入試にさえパスすれば後は時がくればひとりでに卒業させてくれるところだと考える人など、
この種の安易さ自分に都合の良いような姿勢はいたるところに見られます。
何よりも人生そのものに対して安易さをもって臨む所に問題があります。私達は、もし本当に悔いのない生き方をしたいと願うならば、まず自分自身に静かに問わなければなりません。
以下の三つの質問を考えてみましょう。
「一体自分はどうして生まれてきたのか。」(父があり母があったから、と言うような生まれ方の仕組みではなく、生まれてきたことの意味というのがここでは問題なのです)
「生きるということの本当の目的は何なのか。」
「死んでしまえば後は何にも無いのか。」(どんな生き方をしたとしても死んでしまえばみな同じなのか。シュバイツアーもヒトラーも死後はなんの違いもないといえるのか・・・。)
このような問題に無関心であること事態が既に安易な生き方です。自分勝手な答えを勝手に持ってくることも、結果はその場その場の都合によるでたらめな生き方になってしまいます。
この三つの人生の根本問題に真剣に取り組み、その答えを求めるような態度になった時、その人に正しい意味での宗教性が目覚めたのです。
昔から世界の大宗教といわれるようなものは、何らかの形でこの問いに答えようとしているものです。
3千年から2千年前の昔にかけて書かれた聖書が今日なお世界のベストセラーとして世界中の言葉に翻訳されて読まれているのは、この問題に対して最も徹底した明確な答えを与えているからです。
聖書にはこう書かれています。「この世界の創造主である神が、私たち一人ひとりの創造主なのである」と。
つまり私達の人生は、無意味・無目的・でたらめなものではなく、自分自身に対して、生みの親である父母に対して、社会に対しても、特に神に対して責任を自覚した生き方をしなければならないということです。
「人間はただ一度死ぬ(人生は、やり直しがきかない)ことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ人への手紙9章27節)のです。一度しかない自分の人生を本気で大切に考えましょう。
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最終更新:2012年02月10日 02:15