ローマの歴史


ヨハン早稲田キリスト教会 文書宣教部 執筆

 古代ローマ帝国の時代、残虐な皇帝ネロの迫害を皮切りに、クリスチャンはたびたび厳しい迫害に遭いました。クリスチャンは信仰を捨てるか、さもなければ恐ろしい処刑か、どちらかを選択することを強要されました。ある者は羊の皮をかぶせられて、生きたまま獅

 子の餌食になり、ある者は火あぶりになりました。聖書は焼かれ、神殿は破壊されました。このような迫害が続いたので、ガリラヤの大工の息子を救い主と仰ぐ人々は、すぐに歴史の舞台から消滅するものと思われていました。ところが、迫害のたびに、なぜか教会は一層成長しました。教会の影響力は皇
帝も無視できないくらい大きくなり、ついにキリスト教は公認されました。

 このキリスト教公認には興味深い背景があります。キリスト教を公認したのはコンスタンティヌス帝です。彼はクリスチャンの母ヘレナのもとで生まれ育ちました。312年、コンスタンティヌスは正帝の座をかけてマクセンティウスとローマ市外のティベル川のミルヴィス橋のほとりで対峙しました。ミルウィウス橋の戦いの前夜、コンスタンティヌスは不思議な夢を見ました。夢で、太陽の前に逆十字とギリシア語でキリストを意味する「クリストス」の最初の2文字、キー(Χ)とロー(Ρ)が浮かび、並んで「この印と共にあれば勝てる!」というギリシア語が浮かんでいるのを見ました。

 それでその印を兵士たちの盾と兜に塗って戦ったところ、劇的な大勝利を収めました。敗れたマクセンティウスは敗走中に川で溺死してしまいました。主の御手が歴史を動かした瞬間です。
 戦いの後、コンスタンティヌス帝は313年のミラノ勅令により歴代の皇帝が迫害してきたキリスト教を公認しました。コンスタンティヌスに確かな信仰があったかどうかは定かではありませんが、死ぬ少し前に洗礼を受けています。彼以後の皇帝からは多くのクリスチャン皇帝が出ました。そして392年、テオドシウス帝の治世に、キリスト教はとうとう国の宗教となり、キリスト教はローマ帝国を飲み込みました。あのローマ帝国に勝利したのです。それが、現代に至るまで、ヨーロッパにキリスト教が強く根付いている由縁でもあります。

歴史が大きく動く瞬間、その背後には聖書がありました。秋の夜長、聖書を片手に、帝国ローマの歴史を黙想してみるのも乙なものです。

最終更新:2012年04月04日 19:34