六月。
じめじめとした湿気が重くのしかかり、憂鬱さを増すように雨が降り続いていた。
「それじゃあ、またね」
「ムギちゃん、またね~」
「お疲れ様です」
部活も終わり紬とも別れて、唯と梓はふたりで雨の中を歩いていた。
「でさぁ……、あれ?」
「どうしたんですか?」
ふと立ち止まった唯を見て梓が聞いた。
「あそこ、すごいことになっている」
唯が指差した先に何かキラキラと光るものが見えた。
「これは酷いですね……」
ふたりの目の前には灰色の大きな空間に小さな波をいくつも刻んでいる通学路が広がっていた。
「これじゃあ歩いていけませんね」
「回り道していこうか」
可愛らしい雨の音と裏腹に道路は至る所から水が溢れて足元に絡んでいた。
ふたりで知っている道を探して歩いてみたが、その行く手を阻むように水が溢れて道路を流れていた。
「ここもだめかぁ……」
「どうしましょう、あとは知らない道ばかりですよ」
「とりあえず近所だし、歩いていたら知っている道に出るよ」
梓も近所だと言うことはわかるのだが、こうも雨で視界が悪いといつもの風景も見慣れないように思えてくる。
「雨も弱まってきているし、帰れるよ」
「そうじゃなきゃ困ります」
それからしばらく歩いていたが、知っている道に出るどころか場所すらわからなくなってしまった。
「だめだ……。何だかどんどん家から遠くなっている気がする……」
「奇遇ですね。私も同じことを思っていました……」
辺りには住宅もまばらになり、木々が目立つようになっていた。
一体ここはどこなのだろうか。ちゃんと帰れるのだろうか。
ふたりの頭の中はそれでいっぱいだった。
「あ、唯先輩」
「なぁに……?」
へとへとで力の無い返事をすると梓が道の先を指差した。
唯が雨のカーテンの中に目を凝らすと小さな小屋のようなものが見えた。
「バス停、かな」
「屋根もあるようですし、ちょっと休みましょう」
「そうだね……。体も拭きたいし……」
近づいて見ると唯が予想した通りバス停だった。
木造で古めかしい感じだが雨宿りをするにはもってこいだった。
ふたりはベンチに腰掛けるとタオルを取り出し髪や服を拭いた。
「このままだと風邪ひいちゃうよ……」
「そうですね……」
体を拭きつつ梓が空を見上げると、雨が止み始めていた。
それにほっとしつつ、ふたりでここからどのようにして帰るか考え始めた。
携帯で誰かを呼ぶにも現在地点がわからない。人に聞きたいが今まで誰にも会っていない。
「……あ」
唯がふと横を見ると、バス停に先客がいた。
見たところ小学生の低学年ぐらいの女の子がベンチの端のほうで座っていた。
しかし、その姿は猫背で俯いており明らかに様子がおかしかった。
「ねぇ、どうしたの?」
唯が近寄って声をかけると、ちらりと涙でぬれた瞳を上げた。
「迷子?」
目の前の子どもは涙目で小さく頷いた。
「ねぇ、お名前は?」
「……ようこ」
「ようこちゃんだね。私の名前は唯っていうんだよ」
「ゆい……?」
「そう、ゆい。ようこちゃん、おうちはどこ?」
「……わからない」
「お父さんとお母さんは?」
「いっしょにいたけど……」
「はぐれちゃったの?」
「うん……」
俯いたまま肩を震わせて、今にも溢れそうな涙を必死に堪えていた。
「唯先輩、どうしたんですか?」
「この子、ようこちゃんって言うんだけど迷子みたいなの。あ、この子はあずにゃんって言うんだよ」
「何教えているんですか。私は梓です」
「あずさ……」
「ねぇ、ようこちゃん、おうちの電話番号わかる?」
ようこは首を横に振った。
「どうしましょう……。こんなところだと何もないですし……」
どうしたものか考え込んでいると、ようこが息を詰まらせてわなわなと震えだした。
「だ、大丈夫だよ。ほら、お母さんも探しているだろうし……」
梓が何とか落ち着かせようとあたふたしていると、唯がごそごそと何かを取り出した。
「……そうだ、あめちゃんいる?」
唯は制服からひとつピンク色の包みを出すと、ようこの小さい手に乗せた。
「甘くておいしいよ? どうぞ召し上がれ」
ようこは唯に勧められるままに小さな手でビニールを剥がし、飴を口に含むと少しだけ落ち着いたようだった。
「おいしい?」
ようこは小さいほっぺに飴を転がしつつ、少しだけ笑ってこくりと頷いた。
「そうだ! お姉ちゃんが一緒にお母さんとお父さんを探してあげる」
「ちょ、ちょっと唯先輩……」
「だって放っておけないよ」
「そうですけど……、私たちだって迷っているんですよ?」
梓の言うことも最もだが、唯はどうしても放っておけなかった。
「いいじゃない。雨も止んできているし、この子の親から道を聞けるかもしれないし」
梓もようこを放っておくことはできないと思っていたし、唯の言葉通りこれで帰れるかもしれないと思った。
「……そうですね。ここでこうしていても埒が明きませんし。行きましょうか」
「うん。さぁ、ようこちゃん、行こう?」
「……うん」
雨も止んで太陽が見えるようになり、鬱屈とした雰囲気が徐々に晴れていた。
しかし、唯と梓は気にかかることがあった。
「ねぇ、何か聞こえない?」
唯が意を決して尋ねると、梓も小さく頷いた。
「……私もさっきからずっと気になっていたんです」
「何の音だろう?」
少し蒸し暑い中で耳を澄ますと、遠くの方からまた涼しげな音が流れてきた。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……、かーん……。
その音はまるで風鈴のようで、凛とした音の中に時折引き締めるような音は拍子木のように聞こえた。
「綺麗……、ですね」
「うん……」
梓は素直な感想を口に出してみたが、何か引っかかっていた。
それは唯も同じで、この音から感じられる綺麗さは悲しみを孕んでいる気がした。
「……」
「……」
その音に惹かれていくかのように、ふたりの足は自然とそちらのほうへ向いていた。
響いてくる音を追って歩いていると、再び雨が降り始めた。
「太陽が出ているのに、雨が降ってくる……」
傘を刺すほどではないが、ぽつりぽつりと小さな雨粒が頭を濡らしてくる。
またどこか雨宿りができそうな所を探していると、遠くの方で何かが光った。
「あずにゃん、あれ……」
唯が指を刺す先の山のふもとを見ると、小さな明かりがひとつ、ふたつ、と揺らいで行列をつくっていた。
何の明かりかと見つめていると、その行列からあの音が響いてきた。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……、かーん……。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……、かーん……。
よく見るとその明かりは、大勢の人影が手に持っている提灯であった。
ゆらり、ゆらりと提灯の揺らぐ光を携えて人影は粛々と歩いていた。
しばらく様子を見ていたが、ふたりともこれが一体何の行列なのか全く分からなかった。
「あっ、お母さん!」
「えっ!?」
突然ようこが叫んで走りだし、慌てて追っていくと行列の方へ向かって行った。
ようこに続いて人影に駆け寄るとそのひとつが飛び上がり、こちらに向かって来た。
「ようこ!」
「どこにいっていたの!」
父親と母親と思われるふたりが駆け寄ってきたようこを抱き止めた。
「ごめんなさい……。でも、おねえちゃんたちがね、いっしょにいてくれたの」
父親と母親はふたりと見止めると、深々と頭を下げた。
「この度は娘がお世話になりました……」
「いえいえ、そんな……」
「よかったね、ようこちゃん」
唯と梓は一息つくと、周りの妙な雰囲気が気にかかった。
目の前のふたりとも大そうな和服に身を包んでおり、周りを見渡しても見る人すべてが同じように正装であった。
「今日は嫁入りなんです」
不思議そうに見つめるふたりの視線に気づいた母親が小さな声で教えてくれた。
唯と梓は静かに納得すると、行列の中に白い和服で身を包んだ新婦が駕籠のようなものに乗っているのを見つけた。
「綺麗だね」
「そうですね……」
「あずにゃん、あぁいう服、似合いそうだね」
「そうですか?」
「うん。肌も白いし髪も黒くて綺麗だし」
「ど、どうも……」
面と向かってこんなにも褒められるとさすがに梓も照れてしまった。
「唯先輩だって、かわいいから似合うと思いますけど……」
仕返しの建前で少しだけ本音を漏らしてみると、唯が思いのほかたじろいでいた。
「あ、ありがとう……」
思いがけない反応に唯も梓も照れ臭くなって、何も言えないまま遠くへ消えていく新婦の駕籠を見つめていた。
「しかし、おふたりともどうしてここに?」
母親がにこやかに問いかけたが、考え込んでいたふたりは飛び上がってしまった。
「えっ、いや、あの……」
「す、すみません、私たち道に迷っているんです。桜が丘高校へ行くにはどっちに行けばいいかわかりますか?」
ふたりは唯と梓の頭からつま先まで眺めて、顔を見合わせて二言三言相談すると考え込んだ。
「桜が丘高校……。存じませんね。あなた、知っていて?」
「いや、私も知らないな。すまないね、ふたりとも」
「そうですか……」
唯一の可能性も無くなってしまい、ふたりは気が抜けていくのを感じた。
これからどうすればよいのか見当もつかなかった。
「……そうだ。いいものがあります」
そういうと母親は手に持っていた巾着からなにやら小さなものを取り出した。
「なんですか、これ?」
「縁結びのお守りです」
「縁結びですか?」
それは赤い糸で形作られており、見た目はまるで黄色や白の糸で何かの模様が施されていた。
「何だか可愛いね」
「かわ、いい……、ですかね」
梓はそれがお守りというより小さな織物のように見えていた。
母親はそのお守りを唯と梓にひとつずつ渡してくれた。
「これは人と人を結ぶだけではなく、幸運とも結びつけてくれます」
「そして、あなた達の帰るべきところへも導いてくれるでしょう」
唯と梓は不思議そうな顔をしてそのお守りを見つめた。
「そろそろ日も暮れてくるころです。私の提灯を差し上げましょう」
「ど、どうも」
父親から提灯を受け取ると、そこにはロウソクのような炎が揺らいでいた。
しかし、それはまるで炎自体が宙に浮いているようでとても奇妙であった。
「暗い道は色々と危のうございます。気をつけなされ」
「おふたりなら大丈夫ですよ。それでは善きご縁がありますよう」
「おねえちゃんたち、さようなら」
三人はにこやかに手を振ると、提灯を持って行列に加わった。
そのまま三人は人影に埋もれて、提灯の明かりだけがゆらゆらときらめき遠くの方へ見えなくなってしまった。
行列が奏でる音も次第に遠くなり、わずかな余韻だけを漂わせていくだけになった。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……、かーん……。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……、かーん……。
「行っちゃったね」
「行っちゃいましたね」
嫁入りの行列を見送ったふたりの手には、縁結びのお守りとひとつの提灯だけが残されていた。
「ど、どうしましょう、唯先輩……」
「縁結びのお守りが、導いてくれるって言っていたけど……」
上手くはぐらかされてしまったのだろうかとふたりは不安になったが、立ち尽くしている訳にもいかずとりあえず歩き始めた。
提灯の明かりは小さく弱いながらも暗い道をよく照らしてくれていた。
周りには街灯と呼べるものは見当たらず、日が落ちていくにつれて赤色から紺色へ染められていった。
「暗くなってきたね」
「そうですね、早く帰りたいです」
目の前には提灯の明かりぐらいしか無く、足元の道ぐらいしか見えなかった。
この道で大丈夫なのかは唯も梓にもわからなかった。
いつの間にかふたりは手をつないで次第に口数も少なくなり、目の前の提灯の明かりを見つめて歩くだけになってしまった。
ゆらゆらと揺らいでは形を変えていく炎を見つめ、ふたりはぼんやりと歩き続けた。
「……」
「……」
どれくらい歩いたのだろうか。
目には提灯の明かりだけが浮いているように見え始め、その中に引き込まれてしまいそうだった。
明かりに誘われるように前へ、前へと足が動き、どこを歩いているのか、いや、むしろ歩いているのかすらわからなくなってきていた。
ゆらり、ゆらり……。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……。
ちりりりり……、ちりりりり……、ちりりりり……。
かーん……!
あの行列が奏でていた拍子木が大きく響いたような気がして、ふたりはぼんやりとした意識から醒めた。
すると、突然に提灯の明かりが消えてしまった。
「あ、あれ、消えちゃった……」
それどころかその提灯の形すらおぼろげになり、いつの間にかただの木の枝になってしまった。
「ど、どうしようあずにゃん! 提灯がただの枝になっちゃったよぉ……」
「どうしたら……! ってここは……」
よく辺りを見渡してみると、街灯の明かりがふたりを照らしており住宅がたくさん立ち並んでいた。
「こ、ここって……、まさか……」
「そ、そうですよね……」
見覚えのある建物、見覚えのある道、見覚えのある標識……。
いつの間にか、ふたりは通学路に戻ってきておりいつもの別れる場所に立っていた。
「帰ってきた、みたいだね」
「そうですね……」
手に持っていた提灯のほうに目をやると、先程と同じように木の枝でしかなかった。
「あの提灯は一体……」
「そ、そうだ! お守り!」
梓は慌ててお守りを握っていた手を開いて見ると、そこには先程と変わらずに赤いお守りがあった。
「これは無くなっていないね」
「そうみたいですね」
唯と梓はあのふたりに感謝しつつ、その場で別れて家路についたのだった。
「──という話だったのさ、と」
唯はようやく話し終えたと一息ついた。
「へぇ、そんなことがあったんだね」
「このお守りがねぇ……」
柚と愛は恭しくそのお守りを眺めてみた。
このふたりに引っ張り出されなければずっと押入れの中に眠っていただろう。
唯は懐かしいやら何やらで感慨深げにお守りを撫でた。
「あんなことを体験したからこのお守りはずっと大事にしようって決めたんだ」
「で、縁結びの方は効力はあったの?」
「そうそう。これ、縁結びのお守りなんでしょ?」
ふたりして詰め寄ると、唯は少しだけ頬を赤く染めて笑った。
「まぁ、色んな縁を結ぶものだからね。色々とあったよ」
「えっ、まだ何かあるの?」
「聞きたい、聞きたい!」
「待って待って。ちょっと疲れたし、もうそろそろご飯の時間だからまた今度ね」
丁度その時、キッチンからご飯の支度が済んだと声があがった。
「さぁ、ご飯にしようか」
「はーい」
「行こう、行こう!」
ふたりが食卓に向かうのと入れ違いで梓がやってきた。
「何の話をしていたの?」
「あぁ、あのお守りの話だよ」
「あっ、懐かしいね……、これ」
梓はお守りを手に取ると懐かしげに眺めた。
「縁結び、ね」
「そうだね、縁結び」
「ふたりとも、ご飯先に食べちゃうよー?」
唯と梓が笑いあっていると、柚が待ちきれないと食卓から呼びかけた。
「今行きますよ」
「ふたりとも待っているし、ご飯にしようか、梓」
「はい」
ねぇ、唯。
何?
あのお守りで一番の効果があったのって何?
それはもう、これしかないでしょ。
……。
梓と、結ばれたことっ。
……ふふっ。
な、なに笑ってるのさぁ。
いえ、私もですよっ、唯。
あなたにも、善き縁があることを……。
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最終更新:2012年09月11日 05:55