藤井清水



1889年2月17日生まれ - 1944年3月25日没。
日本の作曲家。民謡研究家。広島県安芸郡焼山村(現・呉市)出身。生涯に約1900曲も作曲、編曲しながら、あまり世に知られることのなかった人である。のちに、『日本民謡大観』のもととなる民謡の採譜をたくさん行い、民謡の楽譜化に力を尽くして、日本民謡の音楽的研究の推進に多大な貢献をした。


経歴
医師として由緒ある家の三男として、生を享けた。幼い頃から三味線の音を聞き分け、調子を合わせることができたという。

音楽学校進学を志した清水だが、最初の受験には失敗し、1911年、東京音楽院受験科に入学する。そこで権藤円立と知り合い、親しくなって、行動を共にするようになっていった。1912年4月、清水と権藤円立はそろって東京音楽学校(現・東京藝術大学)甲種師範科に入学した。

福岡県小倉市(現・北九州市)に転居し、福岡県立小倉高等女学校、福岡県京都郡立京都高等女学校の音楽担任を歴任した後、志賀志那人に招かれ、兵庫県伊丹市に転居、大阪市立北市民館に勤務する。この間、宝塚歌劇に依頼され、『成吉思汗』や『燈籠大臣』、『平重衡』などを作曲した。また、山田耕筰に推薦され、1920年からセノオ楽譜として歌曲をいくつも出版している。

1921年、志賀館長と藤井清水、浪曲師宮川松安に遅れて上阪してきた権藤円立を加え、「楽浪園」同人を設立する。1922年、野口雨情が下阪してきた際、同人設立の趣旨に同意して、その同人となった。楽浪曲という新しいスタイルの曲を作詞作曲し、演奏して回っていたが、それはやがて成長発展し、1924年4月、芸術教育協会が設立されるに至る。ドイツでレコーディングした『港の時雨』が逆輸入され一世を風靡。

また1928年1月、仏教音楽協会の成立に力を貸し、仏教音楽の研究や新仏教音楽の創作にも力を注いだ。同年8月、日本民謡協会の設立にも参加し、理事に就任している。赤坂小梅を世に出したことでも知られる。

1939年から、町田佳聲(まちだ かしょう)と共同で全国の民謡採譜に着手し、1941年からは、共にNHKの嘱託となって採譜を続けた。その活動は『日本民謡大観』という形で後に出版されるが、彼はその出版を見ることなく、1944年3月25日、腸ねん転のため東京で死去した。55歳。


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最終更新:2007年10月22日 16:04