• 注意書き
守り続けたゆっくり虐待ヴァージンがとうとう貫通されました。そんなわけで文書は下手糞もいいとこで、ワードからメモ帳貼り付けたら変なことになった。改行できてないとかどういうことなの・・・
ゆっくりも人間も一言も喋りません。ぬるいね。悲鳴が聞きたい方は読まないことをお勧めしてみる
批判はどんどんしてくれ。次回書くときの参考になるかも
まぁそんなもん。むしろなんか書くべきことあったら教えてくれ




以下本編



 12月半ばにもなると東日本各地で雪が舞い始め、海辺は凍えるような潮風に襲われる。
 ゆ狩る半島最北端に位置する鬼ヶ浜がいかに寒いかなど説明するまでもないだろう。だが冬になると人が全く寄り付かない海岸も、今日、冬至だけは大勢の人々が集まっていた。何百年も前から続く伝統の豊漁祭りを行うためだ。その名をゆ船祭りという。

 まだ日も出ない早朝から、百を越える漁師とその妻達が焚き火の用意をするため防波堤に集まる。皆手桶に用意された海水を柄杓一杯かぶり、白い布で作られた着物に着替えてから海岸に足を踏み入れる。祭りが行われる神聖な海岸には、この儀式なしで立ち入ることはできないのだ。
 それだけではない。幾人もの人達がやってきては漁師に声を掛け、儀式を行った後一緒になって準備を進めていく。昔は漁師だけで行う身内の祭りであったが、今では祭りが始まる前から自主的に手伝いをする参加者が大勢いるのだ。当事者でない参加者とはいえ、祭りはみんなで作っていくもの。日本の祭事の基本である。
 そうこうするうちに海岸にはいくつもいくつもの火が灯されていき、朝陽が上り始めるとこの世のものとは思えない幻想的な光景を目にすることができる。波立つ海には曙光が煌き、まだ仄暗い海岸には赤々とした炎が柔らかい光を揺らめかせ、この余りにも美しい光景に涙ぐむ参加者までいるほどだ。
 ひとしきり焚き火の準備が終わると、今度は並々と海水を湛えた大鍋がいくつも火に掛けられる。鍋の横には大きな小麦粉袋やへら、机、茣蓙、何艘もの小船等等、準備のための道具一式が揃えられる。この頃になると、海岸の防波堤沿いに大勢の見物客が集まり、祭りの始まりを今か今かと待ち始める。だが誰一人砂浜に足を踏み入れることは無い。清めの水を被り焚き火の用意に参加していないものは、神聖な海岸に入ることはできないからだ。手持ち無沙汰な見物客から口々に声援が贈られ、場が暖かい雰囲気に包まれ始める頃に祭事の目玉が厳かに登場する。
 街の方からかすかに聞こえていた太鼓の音が徐々に近づき、海岸からもそれが見え始める。太鼓の先導に従ってやってくるのは、井の字型に組まれた、神輿の土台部分だけを持った白装束の男達の行列だ。ただし土台には干し柿のように縛られ猿轡を噛まされた、極罪を犯したゆっくりの束(通称ゆ束)がいくつもいくつも吊るされている。向こうからやってくる土台は一台だけではない。いくつもいくつもの土台が男達の手によって運ばれ、防波堤に到着した。一つの土台につき36匹が括り付けられており、しばれるような海風に晒され涙を浮かべているが、それを気にするものはいない。
 防波堤のスロープ前には全ての準備を済ませた海岸組が、それぞれ手桶に海水を一杯に張って待ち構えていた。お互い準備が整っているのが確認されると、太鼓が大きく激しく打ち鳴らされる。それを合図に神輿組がゆっくりと砂浜に下りていき、スロープの降り口で待ち構えていた海岸組は、神輿組が通りざまゆっくり目掛けて恐ろしく冷たい海水をぶっかける。柄杓なんてまだるっこしいものは使わず、手桶ごと叩き付ける様に水を浴びせては後ろに捌けていき、後ろのものが入り口にずれては降りてくるゆっくりに冷水をぶっ掛ける。後ろに捌けたものはまた海水を汲み、自分が冷水を掛けたゆっくりのところに走り寄ってはまた冷水を叩き付ける。邪気の強いゆっくりは何度も何度も海水で清められなければその穢れが落ちきらないのだ。
 成ッ、成ッ、成ッと太鼓に合わせて小気味よく海水を浴びせられたゆっくりは、余りの寒さと水の冷たさ、塩による痛み、水を吸って膨れる縄の締め付けに、恐ろしい形相で悲鳴をあげる。が、まるで”叫び”のようになっているにも関わらず、噛まされた猿轡でその悲鳴が砂浜に漏れることは無い。砂浜に穢れを撒き散らさないため、ゆっくりのうす汚い声を猿轡で封じ込めているのだ。
ゆ輿は砂浜と防波堤の中ほどに一列に並ぶ。大鍋一つの前に神輿が一台づつという配分だ。ゆ束はほどかれ、縄と猿轡が火に投じられる。また、水の余波を被って少なからず濡れている神輿組に新しい着物と熱燗やお茶などが手渡され、男たちは皆一仕事終えた顔で火の近くに座って休息を取る。
一方海岸組はもうすっかり穢れが落ちた(はずの)ゆっくりたちの処理に取り掛からねばならない。
土台一つにつき十数人が集まり、てきぱきと小麦粉の準備にかかる。
 ゆっくりたちはがちがちと歯を震わせながら口々に薄汚い言葉を飛ばすものの、体当たりするものは一匹もいない。それはそうだろう。これほど温度の低い水ではゆっくりが溶ける事こそ無いが、表面はぬるぬるとぬめるし、地面が脆い所ではゆっくりの構造上跳ねるのが難しいのだ。
 何もできないまま罵声を吐くゆっくりを尻目に海岸組は準備を進め、ゆっくりたちの頭上に小麦粉を袋ごと大量に撒いていく。ゆっくりたちは悪さをして捕まって以来ろくな物を食べていなかったため、味気ない粉でも歓喜の声を上げ、滅茶苦茶に咳き込みながらも顔を真っ赤にしてなめ取っていく。が、当然次々に撒かれる粉を舐め切れるわけもなく、小麦粉の煙が晴れた頃には口付近を除いた全身が真っ白になったゆっくりたちが鎮座していた。
 腹も朽ちたゆっくりたちは、やれ雪のようだの綺麗だの都会派だの楽しそうに騒いでいたが、それもここまでの話だ。海岸組みは一部を除いて皆それぞれ何匹づつかのゆっくりを手に取ると、手にしたへらでゆっくり達を打ち固めていく。底の部分は砂を手で払って落とし、地面に落ちている小麦粉を手ですくって擦り付けてはまたへらで打ち固める。ゆっくりたちは本当に穢れが落ちたのか疑わしいくらい汚い言葉を並べ立てて抗議の声をあげるが、この場にそれを聞き入れるものなど誰一人いはしない。
 10分もしないうちに、ゆっくりたちはしっかり表面の乾いた、元より丈夫な饅頭となって茣蓙に並べられていた。引っぱたかれているうちは泣き叫びつつ徐々に謙虚になるゆっくりであったが、攻撃の手が止まった今その増上饅は留まる所を知らない。その余りの人を貶める妄言に人間にもいい加減青筋を立てる物が現れ始めたが、神に捧げる供物に手はつけられない。そして、相手が手を出してこなければ有頂天の先までつけあがるのがゆっくりだ。大して物を知らない餡子脳をフル回転させ、怒涛のごとく罵詈雑言を並べ立てる。仕方ないので皆用意された飴をゆっくりたちの口に放り込んで黙らせる。昔は叩いて黙らせていたようだが、それでは時間も手間もかかる。そんなわけで、甘味の安くなった今は不本意ながらこういう方法が取られるようになったのだ。一転して顔を綻ばせ、身に余る幸せを享受するゆっくり達。召使い発言や更なる要求が飛び出すが、その度に飴が投げ込まれるので砂浜に響き渡っていた罵声はあっという間に消えた。だが、いい気になっていたゆっくりたちは知らなかった。へらで叩くごときの事は単なる前準備だったということを。
 へら叩きに参加しなかったものは、小麦粉に水を加えてサッカーボールより二回りほど大きい団子をゆっくりの数だけ捏ねていた。そしてそれを大きく繰り抜くと、煮えたぎる海水を湛えた大鍋に放り込む。鍋にはたちまち巨大な中空のすいとんがいくつもできあがる。長い菜箸でつついて煮え具合を確認すると、網で引き上げてそれをゆっくりのとなりの大きな茣蓙にあげていく。ゆっくり達はそれすら食わせろと煩かったが、次々に投入される飴で沈静化させる。ここでおかしななことをされると後が大変だからだ。
 さて、ここからがこの祭りの本番だ。すいとんが上がり始めたのを見て、太鼓の音が再び高らかに鳴らされる。観客が拍手を打ち鳴らし、それを合図に神輿組がそれぞれの茣蓙に分かれ、用意された甕を引き寄せた。甕はゆっくりより少し小さいくらいでこれまたゆっくりの数だけ準備されている。
ゆっくりたちは飴を貪るのに必死で何が起きようとしているか全く把握していない。ゆっくりにわざわざ飴を与えてやるもう一つの理由だ。飴係は次々に飴を袋から出してゆっくり達の注意を強くひきつける。
 ひときわ強く太鼓が打ち鳴らされた瞬間、一人が中空のすいとんの口を広げる。あまりに熱くて素手では触れないため、何重にもした濡れタオルでしっかり掴む。もう一人がゆっくりを掴んで、顔をこちらにむけさせその中に突き込む。朦朦と湯気をあげるすいとんは小麦粉を糊にしてゆっくりにしっかりと張り付く。先ほどたっぷり小麦粉を掛けたのはそのためだ。この処理をしておかないとゆっくりが水気で回転してしまい、顔がしっかりと出ない可能性がある。また突き込むときに邪魔にならないよう、わざわざ湿ったところに小麦粉を掛けて飾りを叩き潰したのだ。顔面だけ残して灼熱の皮に覆われたゆっくりは、今までの叫びが比にならないような絶叫を上げようと口を開くがそれがキモだ。甕を持った男が咄嗟に蓋を開け、中身を流し込む。甕の中身は取れすぎて廃棄される魚や雑魚等の食べられなかった海産物を甕に入れて土に埋め、相当な時間放置したものだ。海の物は海に返し、陸の甘味を捧げる事で海の神に豊漁を願う。それがこの祭りの趣旨なのだ。凄惨な腐臭を上げる腐り汁を吐き出す前にもう一人が口を閉じ、水で溶いた小麦粉を塗った紙を貼り付ける。これで一時的にゆっくりの口は封印され、中身を吐き出すこともできず煮えたぎったすいとんから逃げることもできず、無言で滅茶苦茶な転がりを見せる。海岸一杯に押しかけた観客は、一瞬の早業に惜しみない拍手を贈った。
 一方ゆっくりたちは仲間が怒涛の転がりを見せていることには気づかず、誰よりも沢山飴を貰う事に御執心の様だ。飴係は次々に飴を与えるが何しろゆっくりの数が多い。加えてゆっくりたちは他のゆっくりを出し抜いて貰えるだけ貰おうとしていたため、転がる仲間に目をくれている暇なんかなかったのだ。すいとんは次々に茹で上がり、ゆっくりは次々に怒涛の回転団子となっていく。流石に転がる団子の数が増えれば気づくゆっくりも出てくるが、叫んだり逃げ出そうとする前に背後からひっさらわれすいとんに詰められていく。ほんの数分もたたないうちに何百という回転団子が砂浜に芸術的な軌跡を引いていた。一抱えもある何百もの団子が高速回転運動を続けるという珍妙かつダイナミックな光景に見物客は沸きに沸きたち、万来の拍手で空も割れんばかりであった。
 顔中を涙と砂と小麦粉塗れにしたゆっくりたち。この世の物とは思えない臭気を発する何かを口に放り込まれて吐き出すこともできず、衰えることなく灼熱を放つ何かが肌一面に粘りつく。単純に火炙りにされた方がよっぽどましだったろうが、ゆっくりたちに死ぬことは許されない。
 水は当然比熱が高いため、なかなか冷めることが無い。が、寒風吹きすさぶ砂浜を転がり回ったおかげで表面はすっかり冷め、内部は未だに煮えたぎっているものの、触れば今や人肌よりわずかに温い程度だ。男たちはそれを見計らって転がる団子を取り押さえ、再び当初の数どおり配分して茣蓙に集めていく。苦痛の逃げ場がなくなった上に無理矢理押さえつけられたのでゆっくりたちの苦痛はいや増すばかりであったが、めいりんなぞ比較にすらならない丈夫な皮と弾力を持つに到った彼女らは、多少の手荒な扱いでも死ぬことはおろか皮が破れることすらなかった。
 男たちがゆっくりを力ずくで抑えると、女達が集められたゆっくりにぬるま湯で溶かした小麦粉汁をぶちまけて砂を洗い流す。そして目の上にこれまた小麦粉を塗った紙を貼り付けると、恐怖からかゆっくりたちの動きが多少鈍る。すかさず男たちがゆっくりの側面同士をくっつけると、すいとんだった小麦粉の皮同士がみるみるくっついていく。餡子が漏れなければ死なないとはいえ、熱で受けた大きなダメージが脅威の再生力を底上げし、更に表皮に撒かれた小麦粉汁がそれを加速させる。なんとも不思議な生物だ。
 どんどんとゆっくりを連鎖させ、球体を作り、練った小麦粉と小麦粉汁で隙間を埋め、最終的にできたのは屈強な男二人でやっとこさ持ち上げることが可能か否かくらいの中空のゆっくりの塊だった。顔が全部内側に向いているため、超巨大で艶やかなすいとんに見えなくも無い。更に転がしつつ全体に、特に底になる部分に分厚い小麦粉層を繰り返し貼り付けていき、癒着したところで上から冷たい海水を何度も何度もかける。すると熱で弛んでいた饅頭がまるで勃起でもするかのように次第に引き締まっていく。これでようやく殆ど完成だ。浜辺にいくつも転がる立派な巨大団子に、関係者たちは頬を綻ばせる。
 後は仕上げだ。脚立に上った男が、かなり太い穴開き鉄パイプを上面の隙間だったところに差込む。丁度簡易の口封じが唾液で外れたところなのだろう。冷まされて程よい暖かさになったのか、先ほどの苦痛から少しは開放されたためか、中からはゆっくりたちの安らいだ声が聞こえてくる。もう少し経てば、回復したれいむ種の歌声の一つも聞こえてくるかもしれない。だが彼らに与えられた安息の時間は短かった。
 鉄パイプの太さに見合う程大きな特注のじょうごがセットされると、脚立や団子の傍に寄せられた机に何人か筋骨隆々の男が乗っかり、持ち上げられた巨大な甕を受け取る。こちらは先ほどの小さな甕には入らない大型魚の廃棄品だ。大きいだけに発酵にも時間がかかり、この甕は土に埋めて10年のものだ。小さい甕とは比較にならない汚臭に流石の男達も怯むものの、神聖な儀式を中断することはせず全てを漏斗に注ぎ込む。ギリギリまで注ぎ込んだらパイプを抜き取って小麦粉で蓋をする。見事な捧げ物の完成である。地震のように波打つ皮に耳を付けると、おどろおどろしい篭った水音が聞こえてくる。甕の中身が相当堪えているのだろう。おまけにそれがこの浜の湿った冷たい土に埋まっていたとあれば、海水ほどではないがとても我慢できる冷たさではない筈だ。しばらくすれば目の封印も外れるが、その時彼女らはどんな反応を見せるのだろうか。
 あとは取り付けるだけのことだ。男達が息を合わせて饅頭を神輿の土台に乗せ、荒縄と小麦粉で完全に固定する。所謂ゆ輿の完成だ。男たちはほんのり汚臭を漂わせるそれを勢いよく担ぐ。以前は稀に底部の強度不足や癒着ミスで崩壊した事もあるらしいが、今年の出来ならそんなことは無いだろう。プルプルと小刻みに震えるゆ輿の感触に、男たちは誇らしげに町へと繰り出した。
 町――といっても漁師町なので住人の多くは祭りに参加していたが――では観光客や子供達が手に手に魚の骨を持ってゆ輿を追いかけ、適当な場所に思い切り突き刺していく。練り歩くゆ輿全てに刺しに回るものもいる。ゆ輿に魚の骨を刺すことで、海に還った魚が海神様に願い事を伝えてくれるという伝説があるのだ。一本骨が刺さるたびに饅頭の震えが増していく。馬鹿でかく皮が厚いからといって決して痛みに弱いわけではない。それはドスが少し痛い目にあっただけで泣き出し怒り狂うのを見ればわかるだろう。既にこの分厚い皮は彼らの一部となっており、ちゃんと痛覚もあるのだ。だがそれを知ってか知らずか次々に突き刺される骨に、饅頭の振動が更に増していく。皮が分厚いため骨が餡の端にすら達することは無いが、死ぬことすら出来ないのが余計に苦しいのだろう。だがいくら震えても海の男たちはゆ輿を手放すことは決してないのだ。
 そんなに大きくも無い町なので、大して時間もかからず海岸に戻ってくる。そしてここからがこの祭りのクライマックスだ。防波堤につくと男たちは着物を脱ぎ捨てていく。そこへ桶を持った女達が冷水をかけ、身震いをした男たちはゆ輿を担いで海に入っていく。波打ち際にはゆ輿一台につき小舟二艘が並べられており、これにゆ輿を括り付けてゆ船を作り海へ押し流すのだ。
 逞しく波を蹴立てて海へ突進した男たちは、その鍛えぬかれた筋肉、船で培われた経験で、大きく震え波を立たせるゆ輿を、小さな一震えもできぬほどがっちりと船に縛り付ける。これでゆ輿が解けて途中で落ちてしまうということは無いだろう。男たちは野太い掛け声を上げながらゆ船を沖へ向けて押し流す。波打ち際からも、女、老人が長い棒で浜から饅頭や船を力強く押す。その後ろからは甲子園顔負けの大声援が届く。皆が一丸となって船を押し、それは力強く沖へと流されていった。沖まで届く頃には小船の底に空けられた小さな穴からの浸水でゆ船が沈み、強いパワーを持った罪ゆっくりの魂、その塊の巨大饅頭は気性の荒い海神への供物となるのだ。同時に獲られた魚達を海に還し、魚たちの繁殖を願う儀でもある。男達が漁に出る限り、この祭りはどれだけ経っても廃れることは無いだろう。
 神事をやり遂げた漁師達を湛える拍手の雨は、止む事は無かった。



おまけ
 祭りが終わるのは丁度正午に差し掛かる頃だ。皆で一体となって祭りを成し遂げた後は、関係者から観光客まで皆に食事が振舞われる。今日は魚を獲るどころか食べることも禁忌とされているため、残念ながらアラ汁が振舞われることは無い。だがこの浜ならではのものを食べさせてもらえるため、特に観光客は皆一様にニコニコ顔だ。興奮冷め遣らぬ様子で砂浜に降りてくる彼らの手には一様に透明な箱が抱えられていた。
 当然中身はゆっくりである。先ほどの光景を余すことなく見せられていたゆっくり達は泣き喚いたり気絶したりしていたが、そんなことは関係が無い。先ほど祭事でも使われていたすいとんが次々に用意され、案の定ゆっくりが放り込まれていく。先ほどと違うのは、口の中に放り込まれるのは焼けた餅いくつかとお湯、そして煮えたぎる海水をお玉一杯だけということだ。ゆっくりが一通り転げまわって表面が冷めてきたら、砂を少し掘ってそこにゆっくりを置く。あとは皮の薄い顔の部分を匙で切り取り舌を引き抜くと、鬼ヶ浜名物ゆっくり地獄汁、通称ゆしるこが出来上がる。名物であるだけあってただのお汁粉ではない。分厚い皮で閉じ込められた濃厚なゆっくりの甘味に加え、流し込まれた鬼ヶ浜の海水がゆっくりを苛み、ここならではの深い味わいを餡子に与えてくれるのだ。顔を切り取られてもまだ生きているため、餡子が跳ねないように注意して食べよう。

おまけ2
 沖まで流れていったゆっくりの船団は一つ、また一つと没していった。ゆっくりと沈降していき、ゆっくりと大陸棚に着陸する。これでゆっくり達のぼうけんはおわってしまった。だが話はここで終わりではない。ゆっくりの苦しみは今までがプロローグ、むしろこれからが始まりなのだ。
ゆっくりを襲う悲劇の一は寒さだ。”すいとん”部と”外周”部、人工的に作られた二種類の分厚い皮を隔てているとはいえ、体を突き刺すような冷たい海水が外から、海水と殆ど変わらない温度の汚水が前から攻め立てる。温かい水にはかなりの速さで溶け出してしまうゆっくりの皮だが、前述した通り極度に冷たい水には表層がぬめるだけで溶ける事は無い。故に冬が始まったばかりのゆ狩る海峡で、溶死は死因にはなり得ないのだ。
 だが、ゆっくり達を襲う悲劇は寒さだけではない。もう一つはどろりと濃厚な汚水だ。目の封印が剥がれて思わず目を開けてしまったために汚水が目を直撃しているのだ。もちろん既に封印が解けている口には遠慮なく汚水が流れ込む。何百m離れてもつんとくる臭いの根源に漬かっているのは想像を絶する苦しみだろう。だが汚水は時間を経るごとにじわじわと減っていく。ゆっくり達の体内に入っていき、想像を絶する吐き気を押しつぶしながら餡子に変換されるからだ。
 代わりに問題となるのが排泄だ。うんうん、しーしー、どちらも顎の下にある穴からするのだが、そのどちらの穴も分厚い皮で塞がれてしまっている。体内を散々逆流し尽くしたそれらは、最終的に口から出る。そして汚水はいつしかうんうんとしーしーと汚水のブレンド水となって、ゆっくり達を更に苦しめることは請け合いだ。なぜならゆっくりは排泄物、特にうんうんに触れることを極度に嫌う上に、汚水の臭さは生物の感じられる限界を軽く突破しているため、ちょっとやそっと薄まったところで体感的には刺激が緩和されたことが感じられないからだ。
 第三の悲劇は海底の圧力である。もし中空のゾーンに何も無いのであれば、あっという間にゆっくり達は圧力で分解され、吹き飛んでいただろう。だが、そこには空気の変わりに汚水が詰まっている。つまり、ゆっくりは水圧で楽になることを許されない。それだけではない。ゆっくりは圧力で死なないが、圧を掛けられれば当然痛い。水深何百メートル分の水の重みを受け止めるゆっくりの目はぎょろ目を越えて飛び出し、汚水から目を守ることすらも許されない。圧力はゆっくりの弱点の一つであるが、今はそれすらもゆっくりを苦しめ続けこそすれ死なせることはできないのだ。
 他にも真っ暗闇、寝れない、やることが無い等苦しむ要因は生きているうちに語り尽くせないほどあるのだが、余りにも長くなるため敢えてここで全て挙げる事はしない。だが一つだけ言えるのは、人間が知恵を振り絞って行ういかなる拷問も、この意図せずに生成された無限地獄に比べればちゃちなものでしかないということである。

 そして永遠に比するほど長く、おぞましい時間が過ぎた。
 生命に前向きなゆっくりの最高の精神防衛手段は、気絶であり壊れる事ではない。特にゲスであるほどその生命力は強いといえるため、悪さをして捕まり、それを認識しつつも反省の無いクズ程地上の地獄で苦しむこととなる。だがそんなゲスすらいい加減限界を迎え、日に何千回何万回と気絶しては悶絶し、うんしーと汚水の海で声にならない絶叫を上げる中、適応能力の高い彼女らは極限状態に対し無意識に一つの生命体として機能しつつあった。外皮やすいとん等後付けされた器官を共有し、それを橋掛けに全固体の能力を集結させようとしていたのだ。そしてこの試みは、肉体が生み出した苦し紛れの策だったにも関わらず驚くほど上手くいきかけていた。
 ゆっくり達が癒着してから一年の三分の一と少し程度の永遠が過ぎ去り、とうとうゆっくり達は驚くべき奇跡を生み出す事に成功した。分厚い皮を生かして仮足を作り出し、ゆっくりと海底を這いずる。所謂軟体動物への進化であった。ゆっくりつむり等の亜種を鑑みれば元々素養が有ったのかもしれないが、一世代経たないうちにその固体だけで進化というのは通常の生物ではありえないことだ。生物学者がこのことを知ったら、人間の永遠の絶頂を脅かさないためにあらゆる手段で全てのゆっくりを地球上から消し去ることを提唱したに違いない。その恐るべき生物は、死ぬためではなく生きるために、気絶と悶絶の狭間で、鬼ヶ浜の地に向けて零に等しい前進をしつつあった。
 そして、冬が終わり、春も半ば。慣れなかった仮足の扱いも上達し、無限の苦痛に一筋の光明を見出したゆっくりが、粘菌に劣る速度からナメクジ程度までの爆発的な加速を遂げていた頃。
 春に息づくのは陸の生命達だけではない。まだ凍えるほど冷たいゆ狩る海峡の大陸棚にも、少し遅れて生命の息吹が訪れていた。様々な動物の稚魚や幼生が溢れ、争いながら命を紡いで行く。そんな中で、無抵抗の小麦粉の塊が食い荒されないわけがなかった。
 共同体になったとはいえ元はバラバラの生物(なまもの)だ、当然その数だけ思考がある。その全てが、今までに無い形の苦痛を告げていた。いや、経験が無いのではない。あらゆる苦悶の底に押し込められてすっかり忘れ去られていた、肉体を食い破られる痛みだった。幼生達は貪欲にして矮小だ。その巨体に無数の矮小が取り付いて体を貪り食っている。皮の領域が独立していればよかったものを、共有にしたがためにゆっくりの数だけ増幅を繰り返した痛みが、浅はかな希望の後に訪れる真の絶望が、統合した全ゆっくりを襲った。暖かくなった水温が更に拍車を掛けた。僅かに僅かに流れ出る小麦粉がこの場に更なる生命を呼び寄せたのだ。生存競争を勝ち抜かんとする弱小者がゆっくりの全身余すところ無く咀嚼を開始した。元からの計り知れない苦痛に加え、ベンサムもびっくり、ゆっくりの数の二乗の痛痒、喪失感、焦燥etc...。零に等しい無限がこの巨体を崩す日が来るのはいつのことだろう・・・・・・

 かんかんに照り付ける太陽が翳りを見せ始める夏の終わり。
 今日もゆ狩る最北端の漁師達は絶好調だ。この付近の海域は、この時期になると何故だか魚がよく釣れる。長年の勘と経験がこの海域で釣れる筈がないといっているが、釣れるものは釣れてしまうのだ。この時期には毎年多くの漁師がその話題に花を咲かせる。やれ夏を悲観した人々の自殺スポットだ、やれ壇ノ浦の亡霊が避暑に来ている、やれ宇宙からの力が働いている。ろくな予想が出ない中、一人の新米漁師がニヤつきながら言った。案外、ゆ船祭りが効いてるんじゃないですかね、と。
 その場にいた全ての人が彼のくだらないジョークに腹を抱えて笑った。

ENDLESS......



お疲れ。無駄に長かったろう。よく読み切ってくれた
諏訪大社とか一切関係ない。全部フィクション。魔王の妄想1。
こんな作品が読みたいって話をしたら読者様だの自分で書けだの言われたからカッとなって書いた。反省はしていない
批判はどんどんしてくれ。日本語おかしいとかこういう表現あるよとか特に。句読点とかどこにつけたらいいんだ!
スレで批判が迷惑になるようだったらメールに・・・と思ったけどそこまでしてくれる人いないよなwばいばいノシ

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最終更新:2018年03月21日 20:45