夜風が羽を撫でて、柔らかい夜をつれて来る。月が雲に覆われ、夜の帳が落ちて行く。
「…ユセ」
強張ったような声に振り返った。ほど近い場所に立っているはずの彼の顔がよく見えない。薄暗い中では表情を読む事は難しい。
「どうしたんだ?ウィル」
私は努めていつも通りに声をかけた。彼は緊張しているように見えた。気が張りつめているのが、私の羽には感情として伝わってきていた。
「実は、俺もまだ君に言っていない事がある」
「…と、いうと?」
促すと、彼は少し俯いたようだった。俯き、息をついた彼は確かに顔をあげた。
「君達ベルカナが怖がってしまうと思って、一族の皆にも秘密にするよう言っていた。……驚くかも知れないが、逃げないで見ていて欲しい。」
雲が切れた。
一瞬眼が鋭く光り、彼は屈むとその両手を静かに地面に置いた。
ごう、ごうと耳に音が響く。風鳴りなのか血潮の音なのかわからない。私は一歩も動けず、瞬きをすることもできず、彼をひたすら見つめていた。彼の身体を這うように髪が全身へ伸び、鼻が突き出す。爪が硬く、鋭い物へと変化していく。
狼だ。
私はそれがなんなのか理解した。それは山の王であり、それは彼でもあり、そして一頭の狼だった。
狼はじっと見据えるようにこちらを見つめていた。その視線の意味もわからない私は自分でもどんな顔をしているのかわからないままに、彼を見つめているしかできなかった。それほどまでにその姿に圧倒されていたのだ。
しばらく睨み合うような時が過ぎた。息を詰め、見つめていると、彼の姿が先ほどとは反対に人へ変わっていく。毛皮が長い髪としてたなびき、爪が人のそれに戻り、しなった狼の背が伸びて大柄な男へと変じる。
月が照らす中、狼は彼に戻った。
「…この姿だと人の言葉は話せないんだ」
人に戻った彼は狼であった時とは対照的に、すぐに視線を逸らした。
「これが、俺達エイワズのもう一つの姿だ。……今まで黙っていて、すまなかった」
彼の言葉に私ははっと我に返った。これが、山の王たる意味だったのだ。獣に変じる事のできる力。獣を圧し、人を屠ることのできる強大すぎる力。これを知って、私はどうするべきだろうか。この思いをどう形にするべきなのだろう。私の中には彼を傷つけない言葉があるだろうか。いや、傷つけない言葉だけですべてを伝えきれるだろうか。
私は、彼を傷つける覚悟で思ったままを述べる事にした。
「…正直に言うと私はおそろしい」
一度言葉を切って、彼を再び見つめた。彼は視線を逸らしたまま、目を伏せた。それでも、感じた全てを伝えたかった。
「だがこの感情は忌み嫌う恐怖とは違うはずだ」
強大な力はおそろしく、その姿はまさに山の王と呼んでしかるべきだった。だが私は彼を、彼の一族を信じたのだ。その力は強くある時、また正しくもあるはずだと。
その感情の名を私は知っていた。
「畏れ、敬う気持ち…だと思う」
それは畏怖という感情だ。そう言う私に彼は目を見開いた。驚きと不安、それと期待。彼は私が本当に彼と彼の一族を受け入れられるか、恐れと期待の交じった気持ちで見ているのだろう。
「ウィル、もう一度変わってみせてもらえるか?」
「…ああ」
ざわりと皮膚を感情が走った。私は彼の姿が変じていくのを再び見つめる。馴染みのない牙の獣には独特の美しさがある。だがその一方で感じる威厳と威圧。彼の放つ雰囲気それ自体がまるで鋭利な刃物のようでもあった。
「…『山の王』とは、よく言ったものだな」
話せないといった彼に私は敢えて人の時と同じように話しかける。彼は私の声に耳を傾けると、目をこちらへ向けた。やはり、その視線の意味を量ることができない。私は、その獣の体に腕を伸ばした。
柔らかな被毛が温かく、その姿はどこから見ても山の獣だった。恐怖がちらと顔を出した。一瞬こわばった手から伝わってしまったのだろう。しまったと思ったときには遅く、彼はわずかに後ずさった。
違う。そうじゃない。どうすれば彼に全てを伝えられるだろうか。言葉は彼には役立たずだ。理屈などではどうしようもない。私の途方もなくなった焦りは塊となって喉を突き、音がこぼれおちた。
「…ウィル」
思わず彼の名を呼んだ。その瞬間、何かがかちりとはまった。
私は思いきって彼を抱きしめた。被毛の内のあたたかな体温と彼の拍動が伝わってきた。これだ。ただ、受け入れればよかったのだ。獣でも人でもない、ただ彼自身を受け入れればよかったのだ。私は自分の中に生まれた答えに従って彼を抱きしめる力を強くした。
彼も、エイワズも、やはり恐いのだ。私達ベルカナが人に恐れられ、迫害され、羽を捥がれた時のように彼らもきっと恐れられ誇りを踏みにじられてきたのだろう。人と、私達と、何も変わらない。恐れられ、傷つき、恐れ、戸惑う。それは当然の感情だった。
強く誇り高い彼の人臭い一面に触れ、私は何故だかひどく安心した。痛みが分かる彼なら。きっと彼らとなら、歩いてゆける。そう確信した。理由ははっきりとしなかったが、第一歩などそんなものだろう。
私は、その温もりに確信を抱いたのだった。
最終更新:2013年06月11日 14:40