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 ここちのよい場所




 逃げていた。もはやその追っ手は覚えていない。ただ、幼いロランにとって強大な恐怖だった。
 それは人の形をしていて、確か、笑みを浮かべていた気がする。ひどく醜悪な笑みだ。
 いつのまにか路地裏に入っていた。人気など感じられるわけもない。
 ロランは走った。零れる涙を拭ういとまもなく、もつれそうな足をひたすら叱咤した。
 追っ手はきっとそれをさぞ愉快と感じていただろう。
 遊んでいたのだ。本当ならば楽に捉えることの出来る小さな存在を、手のひらに載せて遊んでいたのだ。
 しかし、幼いロランは知るよしもなく、泣きながら逃げる。ロランが泣けば泣くほどに後方から迫る哄笑は大きくなった。
 いつ捕まえてやろうか?いつがいい?
 そんな風に問いかけてくることすらあった気がする。
 ロランは涙を流すが、誰かに助けを求めることはしなかった。
 生理的恐怖に関しては仕方がないが、彼は幼くして悟っていた。周囲の人間が誰も助けてなどくれないこと。
 体力にも限界が来た。走る速度がだんだんと遅くなっていき、背後のものとの距離は縮まった。
 ついにロランは諦めた。誰もいない薄暗い路地裏、彼は膝をついた。
 一歩一歩、それはやけに緩慢な動作で近づいてきた。獲物を目前にして、それでいて自身をじらすことで快感を得ようというのか。舌なめずりするような空気がひしと伝わってきた。
 そしてとうとう、それの爪先が、うつむいているロランには見えた。食事の時間がやってきた。
 ロランは瞳を閉じた。自分の死を恐れたためかもしれない。
 それが光る鋭利なものを取り出すと、諦めにも似た恐怖がふ、とロランの奥から湧き上がった。
 どうせ死ぬのならば、というわけでもなかったが、彼は最後の最後に呟いた。それは彼の唯一の愛しい人の名だった。
 その名前だけに、彼はわずかな救いを求めた。

 ………………………………………

「ロラン」
 聞きなれた声にロランは顔をあげる。
 ロランを追っていたものが、彼の眼前でばらばらになった。ロランの頬に、暖かいものがわずかにかかった。
 見まがうはずはない。そこに立っていたのは、そこに立っていて追っ手を壊したのは、ロランの唯一の愛しい人、だった。
「だいじょうぶかい?」
 振り向く赤いものにまみれた微笑の美しいこと。ロランに堰を切ったように安堵が広がり、彼もまたほほえんだ。
「…あ、はい、ありがとうございます」
「だめだよ、ひとりでフラフラしちゃ。街は危ないんだよ?」
「ごめんなさい……。はい、今度から気をつけます…」
「わかってくれればいいんだ――――」
 彼はロランに右手を差し出す。手を繋ごう、の意だった。
「…帰ろう?」
「…あ…は、はい…!」
 強く握った彼の手もまた、血にまみれている。
 しかし、それでも、それでもだ。
 そう、此処こそが、ロランのここちのよい居場所だ。
最終更新:2006年10月07日 21:35