アットウィキロゴ
 ぼくの、なまえ



「――――きみ、名前は?」
 尋ねられて、初めて戸惑うことを知った。
 失念・・・していた?・・・・・・いや、もう思い出せない。
 記憶にないのか、それともその存在すら最初からなかったのか。ともかく、今の今まで、そんなものはなくても困ることすらなかった。
 問いかけてくれる、眼前のひと。彼がいなければ、自分は永遠にそんなもの、知ることはなかった。
 黙って、首を振る。長いこと声を必要としなかった声帯は、まだ働きをとり戻せなかった。なにか言葉にしようとしても、かたちになることすら諦めて崩れていく。そんな自分が、とても惨めで、惨めで、それでもこのひとは言ってくれた。――――「いいよ」、と。・・・・・・許して、くれたんだ。こんな、自分を。
「思い出せないのかい?・・・それとも、失くしてしまったのかな」
 高い位置から、ふと彼の手が伸びてきて、自分の頭をくしゃりと撫でた。懐かしいのか、それとも、初めてなのか。わからないけれど、とても嬉しいような、せつない気持ちが溢れた。そして不意に眼窩からなにか零れそうになったけれど、堪えた。強くなりたいと思った。このひとのように。
「ま、いいか」
 陽気に言って、そのひとはさっきより乱暴に頭上をかき回した。溢れそうなものが、すうとひいて、代わりにここちよいものでいっぱいになった。よくわからないけれど、これは「幸せ」なんだと思った。
「どちらにしろ、それは君にとってあまり愛着はないだろう?なら、捨ててしまおう。代わりに――――ボクが名前をあげるよ」
 君の名前は、その続きを胸に刻んだ。二度と忘れないように、何度も何度も、こころうちで呟いた。彼のくれたその響きは、とても素敵なものなんだ。
「今思いついたんだけどネ。気に入ってくれたかい?」
 いつのまにか、顔が笑みをつくっていた。いつぶりだろう、こんな楽しいこと。何回も必死で頷いて、そしたら彼も笑ってくれた。
「僕の名前はファントム。よろしくね、ロラン」
 ファントム。なんとか口にしようとして、でも駄目だった。しょげていると、そのひとは微笑んでいた。
「今はまだいいよ。でもね、あと少し、経ったらでいいよ――――僕の名前を、呼んで」
最終更新:2006年10月13日 15:41