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チベット事件のまとめガイドライン
チベットの歴史
吐蕃王国時代・・・
西暦620年代、ソンツェン・ガムポ王がチベット初の統一王朝、吐蕃国を建国。強大になった吐蕃国に隣国・中国とネパールから王家の娘を妃として迎え入れる。その2人は仏教の浸透に多大な役割を果たしたと言われている。ジョカンを建立したのもこの2人だ。
8世紀になると吐蕃国はついに長安まで占領する。同時期、インドからパドマサンパヴァが招かれ、インド仏教が国教となる。
9世紀、中国と吐蕃国の間で戦争が起こり、吐蕃は中国を破り、和平条約を結ぶ。その時に中国とチベットの国境線が確定されるが、その後、吐蕃国は内紛状態に陥る。
モンゴルによる支配時代・・・
13世紀、モンゴル族の指導者、チンギス・ハーンが中国北部にモンゴル帝国を建国。中国を支配下に置く。その脅威はチベットにも及び、チベットはモンゴルの支配を受け入れることになる。モンゴル(元朝)の支配者たちはチベット仏教に感銘を受け、チベット仏教はモンゴルにも広がってゆく。
ダライラマ政権・・・
16世紀、チベット仏教のゲルク派指導者ソナム・ギャンツォがモンゴルのアルタン・ハーンから「ダライ・ラマ」の称号を贈られる。後に、彼の前に転生者が2人いるとして、彼は「ダライ・ラマ3世」とされる。ここに政教一致のチベット政権が誕生する。
隣国の王朝は満州族の清へと変わり、ラサに清の大使が置かれることになるが、清朝皇帝は熱心なチベット仏教信者であったため、大きな変化はなく、チベットは非武装化されてゆく。
ダライラマ13世の時代・・・
13世は鎖国政策をとるが、インドを植民地支配したイギリスがチベットに侵攻、1903年、ギャンツェにおいて、チベット軍はイギリス軍に敗北、ダライラマ13世はモンゴルへ亡命する。チベット政府はイギリス政府とポタラ宮でラサ条約を結び、チベットに対するイギリスの保護権が確立された。その条約には清の権益は記されていなかったため、1906年、清はイギリスと英清西蔵条約を締結、宗主権の回復をはかる。
1910年、清朝は市場警備の名目でチベットに軍隊を派遣するが、翌年、辛亥革命により清朝崩壊。駐蔵大使らをチベットから追放し、独立宣言を行うが、どこの国にも承認されず、新興の中華民国が領有権を主張、チベットと中国との間で激しい戦いが繰り広げられる。 -- (名無しさん)
2008-03-20 23:03:59
87年、青海省からネパールまでチャリで走ったことあり。
オレがチベットで見聞したことを、ネパールやインドのチベタンたちは
やっぱりものすごく知りたがって、話をせがまれました。
あのころのラサはまだ、チベタンの方が多いくらいで、
メチャほっとできる街でした。
1951年、中共は、チベットの和平使節が北京を訪れた際、
「チベットの平和的解放の方法に関する降伏条約、覚書」に署名せよ、
と、机上に銃を置いて無理強いしました。
使節団は、本国政府やダライ・ラマ14世に相談する自由さえ奪われました。
「ダライ・ラマ14世の印璽を持ってきていない」
と使節団が拒否すると、中共は、偽造印璽を差し出して、捺印を迫りました。
結局、使節団は、この偽造国璽で署名させられました。
単なる和平使節団が国璽を持ち歩きはせんでしょ。
仮に本物の国璽をもっていたら…?
使節団は、死を賭してでも、
チベットを、中共に売り飛ばすようなことはしなかったでしょう。
このような「覚書」が存在すること自体、
「偽造国璽による押捺と署名」の"証拠"です。
一国の国璽を偽造してまで侵略を正当化しよう…などという
浅慮で軽率で驕慢で無恥な国家は、後にも先にも
「中華人民共和国」以外、地球史上には存在しないでしょう。
長文スマソ…
1951年5月23日 中共・チベット17ヶ条協定(偽造印鑑による欺瞞の調印)
http://www.tibethouse.jp/international/19510523_17agreements.html
-- (名無しさん)
2008-03-21 15:26:54
チベット国歌(歌詞日本語訳)
輪廻・涅槃における平和と幸福への,あらゆる願いの宝蔵にして
願いを意のままに叶えることができる,宝石の如き仏陀の
教えの光明を輝かせよう
そして,仏教と衆生の持宝たる大地を育み,守護する御法神よ
汝の徳の高い偉業の大海が広がり
金剛のように固く,慈悲をもって全てのものをお守りください
百の歓喜を備えた天授の法が,我々の頭上に留まり
四徳の力が増大し
チベットの三区全土が,幸福で円満な時代で満たされ,
政教が盛行しますように
仏陀の教えが十方に広がることによって
世界中の全ての人々が平安を享受できますように
そして,チベットの仏教と衆生の吉兆なる陽光と
十万に広がる吉兆なる光明の輝きが
邪悪な暗闇との戦いに勝利しますように
「国」歌で、「世界中の全ての人々が平安を享受できますように」って歌ってる国なんだぜ… -- (名無しさん)
2008-03-23 23:55:35
後釜っつうか、「パンチェン・ラマ」だな。チベット仏教界の一番有力な教派は「ゲルク派」だが、
そのトップが「ダライ・ラマ」で、それに次ぐのが「パンチェン・ラマ」。
「ラマ」は活仏だから転生者を探すんで、空位になったダライ・ラマの跡継ぎを探索するには、
自然とナンバー2のパンチェン・ラマが指導力を発揮して、教育したりもするんで重要なラマだな。
伝統に従ってダライ・ラマが指名した子は、指名から三日後に、中共曰く「保護したアル」で行方不明だよな。
そして、中共が指名した「パンチェン・ラマ11世」は政治的に随分偉くされてるらしいけどな。最近も声明出してた。
先代のパンチェン・ラマ10世は、「過去三十年は過ちだった」と原稿と違うことを演説しちゃったら、
中共曰く、数日後に心臓麻痺になっちゃったそうだしな。
まぁ、活仏は正確には何人いるか分からないが、普通は、ダライ・ラマ、パンチェン・ラマが重要みたいだな。
そういや、「ゲルク派」以外にも、「カギュー派」ってのもあって分派はブータンの国教になってるらしいが、
その「カギュー派」のトップの「カルマパ17世」は中共認定だったのに、ダライ・ラマのもとに亡命したよな。
まだ二十代後半のはずだから、ダライ・ラマではなくても、次のチベットの運動の指導者じゃないかと言われてた希ガス。 -- (名無しさん)
2008-03-24 05:05:37
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最終更新:2008年03月24日 18:28
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