1 新たな不透明性
……一九六〇年代の後半は社会のひとつの変曲点であったようである。社会は従来の社会の理論(マルクス主義の社会の理論、パーソンズ学派の構造機能主義の社会の理論)ではもはやうまく説明できないと考える人が増えはじめたのは、その頃のことであった。
社会を語ろうとする人にとって、最初のポーズとしては「そんなの簡単!」とはいわないよな。
まずは「よくわからん」「難しい」と表明しておいて、それから社会を語る難事業に取りかかるのが普通だろう。
HやL、Gがいうと下のような表現になるそうだ。
うまく説明できないときのぼやき
 ̄\(-_-)/ ̄オテアゲッ
「新たな不透明性」(ハーバーマス)
「われわれは一体どのような社会に生きているのか」(ルーマン)
「見当識の喪失」(ギデンズ)
社会には以下のような変化があるんだよ(あったんだよ)!
- 環境をめぐる問題(地球の諸資源の有限性、環境汚染、地球規模での環境破壊、生態系の危機など)
- 科学とテクノロジーに対する人々の見方の決定的変化(テクノロジーにつきまとう事故のリスク)
- 未来は、進歩と発展ではなく、不安として受けとめられはじめている。
以下、省略
以上のような社会の変化の結果として、今日の社会は全体が捉えがたいもの、見通しがたいものとして現われている。
社会を語る人たちのよくある今日的語り方
- ポスト・インダストリアル社会
- 消費社会
- 後期資本主義
- 管理社会
- システム社会
- 情報化社会
- メディア社会
- ポストモダン社会
- グローバル化社会
- 多文化社会
- 体験社会
- 知識社会
- リスク社会
いろいろな語り口があるけど、これらをよく考えてみると……
……イデオロギーの終わりという主張はそれ自体イデオロギー的な主張にすぎないと早くから指摘されてきたし、大きな物語の終わりという規定はそれ自体がまさに大きな物語と化している。書物時代の終わりは書物において宣言されている。
……情報化社会という規定をめぐる諸言説は、社会の情報化なるものに参加しそれ自体を先導している。
……リスク社会論では、リスクを前にした意思決定回避という意思決定のリスクについて論じることはまさに回避されている。
つまり、今日の社会の記述の特徴のイタさ=「オマエもなー」もしくは「オマエがなー」というツッコミどころ十分な社会論が大量に出回り始めたということです。ハイ。
このような事情から、近年の社会変化の全容をも近代社会の構造的な帰結として説明できるような新たな社会の理論が求められているが、そこには困難さがつきまとう。
どんな困難か?
- 扱わなければならない事象の広大さと巨大な複合性のために容易ではない。
- 二つの理論的問題
- グランド・セオリーは経験的な検証あるいは反証といった実証的な手続きを通じて真偽を確かめることができないのではないか、という疑問(マートンの疑問)
- 社会の全体を記述できるような統一的な観点はありうるのか、もしないのだとすれば社会全体の記述はどのようにして可能か、という問題(リオタールの「メタ物語の終わり」とその展開形としての「メタ物語の不可能性」というテーゼを前にして、もはやどんな社会の理論の試みもこの問題を無視することができなくなってしまった。)
こんな困難さを前に、ニクラス・ルーマンが三〇年計画(!)で書き上げた社会の理論は、今注目を集めている。
というか、おいらが注目している。どれどれ。
2 社会の理論の革新
で、ルーマンの社会の理論は、従来の社会の理論と比べてどこが革新的ですごいの?
近代社会を包括的に記述しようとしていることだけをもって革新的とまではいえないでしょう?
長岡は、ルーマンの理論が(1) 社会の概念、(2) 社会構造論、(3) 社会認識論の三点において従来の社会の理論と異なっていると指摘する。
(1) 社会の概念
その(ルーマンの)社会の概念の革新は、社会はコミュニケーションからなるとするところにあった。
人間が集まって社会が成り立つのだから、社会は人間の集まりからなる。
そういう観点からはみないのね。
社会はコミュニケーションからなる。
ほほ。
パーソンズ以後の社会学が新しい社会の理論を産みだせなかった理由
- 社会の巨大な複合性に見合うような方法論の欠如
- ガストン・バシュラールが語った意味での「認識論的な障害」(これは以下、四つの想定からなる。)
- 社会は具体的な人間から、そして人間の諸関係からなる。
- したがって社会は人間のコンセンサスによって、つまり彼らの意見の一致と設定目的の相補性によって、構成されているのではないにしても少なくとも統合されている。
- 社会は領土的に限定された地域的な諸単位であり、その結果、ブラジルとタイは別の社会、アメリカ合衆国はロシアとは別の社会、こうしてまたウルグアイはパラグアイとは別の社会である。
- それゆえ、社会は人間の諸集団と同じように、あるいは領土と同じように、外部から観察することができる。
ルーマンはこうした社会観と認識前提から決別し、マルクスの試みを最重要視する。
では、マルクスは社会をどうみていたか?
……マルクスは反ー人間主義の立場に立って、「社会は諸個人からなるのではなくて、諸個人が相互にかかわり合っている諸関連、諸関係を表現する」と規定していた。
(2) 社会構造論
(3) 社会認識論
3 本書の構成
補論Ⅰ ルーマンの略歴と彼の社会学理論の見取り図
最終更新:2009年06月08日 01:48