秋の長雨が空中の腐臭を絡めとり、街路の汚れを流す。
 死者の歩みは常と変わらず、俯いた姿は巡礼の群れとも見えた。
 響き渡る始まることの無い始業を告げる音は、陰鬱な雨の元では弔いの鐘としか聞こえない。
 今日も日向は、街路樹の陰で校庭を見つめていた。
 生前の習慣か傘や雨具を身につける死者もいるというのに、日向はただ濡れるに任せていた。
 唇は紫を通り越し青黒く、頬はこけている。
 濡れた髪が纏わりついた様は、門を抜けずにして死者の仲間入りをしたかのようだった。

 死者が学校へと入り、門が閉ざされる。そこまではいつも通りだった。
 門が閉じてから30分ほど経ったときだった。通りにいくつかの影法師が生じていた。
 ゾンビの小集団だ。おそらく雨の影響で到着が遅れたのだろう。
 疲労のため感覚が鈍っていた日向が気づいたときには、三方をかつての同窓生に取り囲まれつつあった。
 日向はゆっくりと後ずさりながら、軽く後ろの様子を窺う。
 そこには校庭の中央で寄り添いながら日向を見つめる姿があった。
 一瞬、本の一瞬だけ脳裏に過去の思い出が浮かぶ。
 親友から先輩への気持ちを打ち明けられたのは、新年度が始まってすぐのことだった。
 驚きと微かな痛みを飲み込み、親友を応援すると約束した。
 親友の告白は、少し離れて見守るつもりだった。なぜか先輩の視線が向けられるのがつらくて、俯いていた。
 そして、今。二人は同じ場所に、同じ存在となって立っている。
 それなら、自分は。
 ついに死者たちが永遠の飢えと苦しみを満たすために、いまだ生きる少女へとその手を伸ばしだす。
 振り返る前の日向ならば、むしろ甘んじてそれを受けただろう。
 だが、今の少女はそんな気は毛頭無かった。
 放たれた矢の如く、死者へと駆け寄る。死者の指が触れる寸前、その姿は忽然と消失していた。
 布の引きちぎれる音と共に、路面を滑り込んで少女は囲みを脱していた。

立ち上がり、再度走ろうとした日向の上体が止まる。
 最後列にいたゾンビがその長い髪を掴んでいた。
 日向の判断は素早かった。忍ばせておいたナイフで、一気に切り裂き、難を逃れる。
 ゾンビの手元には黒くつややかな髪が残されていた。

 前方にゾンビの姿は無い。脱出は成功したかに思えた。
 だが、死の手は彼女を逃すつもりは無かった。
 50mほど駆けたところで、彼女の体が宙を泳ぎ水溜りへと倒れる。
 道路のくぼみが見る見る間に、朱に染まっていく。
 滑り込んだ際の出血と栄養の不足が力を奪っているのだ。
 ゆっくりと歩み寄るゾンビたちを見据えながら、日向はなおも必死に後ずさり続けた。
 ただ、校庭へと焦点は合わせない。今の状態で二人を見たら、死の誘惑を跳ね除ける自信は無かった。
 救いは鼓膜を圧する響きを伴って訪れた。
 街路の脇道から飛び出した車が日向の脇にタイヤの軋みと共に急停止する。
 ゾンビと日向を遮るようにドアが開き、黒ずくめの長身が降りたった。
 青年は日向を眼鏡の奥の感情の無い目で見下ろすと、一言不思議と響く声で問いかける。
「生き延びたいか」
 死にたくないかでも、助かりたいかでもない。
 生き延びたいか、と青年は少女へと問うた。
 少女ははっきりと頷き、生存の意思を示す。
 それに対する青年の答えは過酷なものだった。
「なら、撃て」
 短く告げ、少女にグリップを向けて拳銃を差し出す。
 さらに青年は、迷いを見せた少女に「時間は無い」と迫るゾンビを指差して見せた。
 青年の指差す方向には確実に近づくゾンビと、校庭から一直線に伸びる視線があった。
 少女の震える手がグリップを握り、銃口をゾンビたちへと向け、そして。

 そして少女は引き金を引いた。

 少女の予想に反して、固く握り締めた銃からは轟音も衝撃も発生しなかった。
 再度引き金を引いても、何の反応も起きなかった。
 何をどうしたらいいのか迷っていると、青年の手が伸び銃を取り上げる。
 途方にくれて青年のほうを見るが、その顔には変わらず何の表情も浮かんではいない。
 いや、先程までとはひとつだけ変わっているものがあった。
 自分を冷たく見据えていた瞳が、少し違う色をたたえている様に感じられた。
 一体どう違っているのかと思わず凝視すると、青年はゾンビへと向き直ってしまい確認することはできなかった。
「車に乗って耳をふさげ」
 変わらぬ調子で告げられ訳の分からぬまま素直に従う。
 手のひらで覆っても、鼓膜を揺るがす銃声は防ぐことができなかった。
 フロンドガラス越しに、制服姿の死者たちが次々と倒れていくのが見える。
 青年は前面のゾンビらを始末すると、車に乗り込みバックさせてある程度の距離をとった。
 後ろの様子を確かめようと振り向く視界の隅に、青年が何かを投げつけるのが映る。
 一体何を投げたのかを確かめようと学校のほうへ向き直ると同時に、爆音とともに死者たちが吹き飛ぶのが見えた。
 その後の青年の行動は、少女には流れ作業をこなしている様にしか思えなかった。
 再度車を止めてアスファルトの上に降り立った青年の体が、銃声に併せわずかに揺れる。
 そのたびに最前面のゾンビが頭部を破裂させて地に伏していく。
 日向は一方的な虐殺を、目をそらすことなく見据えていた。
 なぜ、青年の行動が流れ作業のように思えたのか。
 その答えが目の前にあった。
 ――この人は私の代わりに、ゾンビたちを殺している。
 だから目をそらしちゃいけない。
 少女の視線は最後の死者が倒れるのを見届けると、その先へと自然と向かっていた。

 変わらず立ち続ける姿へと、自然と向かっていた。

 日向はもう二人から、死の誘惑を感じなかった。
 そこにあるのは二人の亡骸、帰らぬ日々の幻でしかないのだとはっきりと認識していた。
 胸の痛みはいまだ強く、思い起こした記憶を照らす光は優しかった。
 それでも日向は、寄り添う二人から目をそらさなかった。
「お願いです、あの二人を撃ってください。私にできることは何でもします。だから」
 視線はそのままで、青年へと願いを告げる。青年の返事は、予想の範囲だった。
「何でも、か。その意味が分かっているのか。ここで抱かせろと言うかも知れないぞ」
「もしそれが望みでしたら、構いません。その、そういう経験は無いですけど、がんばります。でも――」
「――でも?」どこか苦笑を滲ませて先を促してきた。
「でも、死ぬことだけはできません。親友との最後の約束だから」
「……約束を破っても相手はもう怒れないから、か」呟きに、微かに頷いて答える。
「分かった。あの二人を眠らせてやる」
 銃声が二度響き、校庭に立つものはいなくなった。

 尚也は車を黙ったままターンさせ、しばらく街道を走らせた。適当なところで停車し、前方を見つめたまま少女へと声をかける。
「後ろの座席に着替えがあるから風邪をひかないようにするんだな」
 学校を離れる際に、足の手当ては済ませてある。同時にタオルと毛布を渡しておいた。
 もっとも毛布は雨に濡れたままの制服の上から羽織っているため、少女の体は少しでも熱を上げるために震えたままだった。
 最強にしてあるヒーターをすべて少女のほうへと向けてある。
 少女は黙ったまま後部座席に移る。尚也は黙ってヒーターをすべて後部へと向けた。
 水分を含んだ布地が、床に落ちる音がする。体力を失っている状態で寒さは大敵だ。
「……準備できました」後ろからか細く返事する。体力が落ちているのだろう。
「体を温めないと危険だ。拠点に戻れば暖かい飲み物ぐらいはあるからいいが――」
 尚也の忠告は、後ろを振り向いた瞬間に途切れた。


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最終更新:2011年01月19日 19:55