車内は奇妙な沈黙で満たされていた。
狭い運転席から後ろを眺める。乱雑に拭いた髪から雫が滴り落ち、眼鏡のふちを伝う。
眼鏡の奥の瞳は何の色も見せず、少女の裸体など見えていないとしか思えない。
対する少女も、ある意味負けず劣らずの無表情といってもいいだろう。
あまりに紅潮しているため、その顔から羞恥以外の感情がまったくつかめないからだ。
車内を天使が通り過ぎる。絶え間ない雨が音を消し、世界は沈黙を保ち続ける。
実際には数回呼吸を繰り返すだけの間だったのだろうが、日向には数時間とも感じられた。
「……下手をすると風邪を引「クシュッ!」くぞ」
尚也の言葉にくしゃみで返事をしてしまい、日向は何事かモゴモゴと口の中で返事をすると、足元にひいておいた着替えを身につけ始めた。
「あの、着替えましたけど……」
尚也の予備のシャツとズボンを身につけて、後ろから前に身を乗り出す。
「……下着はどうした」
尚也は目の前で自己主張する胸の突起を見た後、視線を移してどこか疲れたように言った。
「えーと、濡れてました」尚也の横に座りながら、日向が返す。
「やっぱりそうですよね、ちょっとあそこだと寒いから風引きそうだなーとは思いました」
尚也は無言のまま車を走らせる。日向は窓の外をきょろきょろと見ている。
「えーと、どこにいくんですか」
「寝泊りしている場所がある。薬も置いてある」
尚也のせりふに、日向はエッと驚いたような顔をする。
「こういうときの基本だ。薬は万が一のときのために備えておくんだな」
「き、基本なんですか、そういうのは」なぜか尚也から少しずつ離れながら聞く。
「あの、できれば初めは普通がいいんですけど」
「普通?ああ、そういうことか。別に医療用とかじゃない。市販品だから副作用は無いと思うが、体質で合わないものがあるのか」
「体質というか、どちらかといえばノーマルだと思うのでちょっと」
「……何をするつもりだ?」尚也は訳が分からずに返す。
「ナニをするんですよね?」日向も不思議そうに返した。
先ほどとはまったく質の違う沈黙が車内を支配する。
尚也はため息と共に息を吸い込んだ。
「何か勘違いしていないか。俺は風邪を引かないように着替えろと言ったつもりだが」
尚也の言葉に、日向はきょとんとした後「えー!!」と叫んだ。
「だ、だって言ったじゃないですか、抱かせろって」
「ここで抱かせろと言うかも知れないとは言った。抱かせろとは言っていない」
「あの、それはもしかして遠回りなお断りなのでしょうか」
予想外の返事に言葉が詰まる。
「……こっちは覚悟を決めてたのに。潔くないと思います、そういうの」
ぶつぶつと日向は文句を言い続ける。が、尚也の呟きに声を止める。
「覚悟か」尚也の口調が変わっていた。
重く冷たいものを漂わせる声に、日向は息を呑む。
「俺に抱かれた後どうするつもりだった」
返事を待たずに尚也は続ける。
「体と引き換えに望みをかなえる。それはいい。ただ、本当にその覚悟があるのか?」
「一時の感情に身を任せてどうなる。生き残りたいのなら、自分の手段が有効なのか見極めろ。体を売るのはいいが、必ず相手が代価を払うとは限らん」
「でも、何でもすると約束しました。それに他に払うものがありません」
日向が弱い声で抗弁する。膝に置いた手は握りこぶしを作っている。
「守って不利になるような約束など捨てておけ。それに代価はすでに受け取っている」
尚也の声から冷たさが消える。
「引き金を引いただろう。それが代価だ」
「でも、弾は出ませんでした。それが代価なんですか?」
日向が不思議そうに返す。
「俺が求めたのは生きようとする強さだ。君はあそこでそれを見せた。だから助けた。死に抗おうとするのは容易い。だが、死の誘惑を跳ね除けるのは何より難しい」
「初めて君があそこに通うのを見たときは、自殺したいのかと思った。通うたびに死に誘われてるのが分かった。それでも君は生き延びることを選択した」
「だから助けた」
いくつかの通りを抜けたところで、少女は口を開いた。
「……そんなのじゃありません。そんな立派な気持ちじゃないんです」
尚也は無言で車を止めると、その先を促す。
「初めは彼女のことが気になっていたんです。もう死んでいる先輩のところにいくなんて。 もし、助けられるならそうするつもりでした。それが無理ならせめて最後まで見届けようとも思いました。でも、校庭で一緒にいる二人を見ているうちに羨ましくなったんです」
「彼女は死んだ後も先輩と一緒にいる。私は毎日それを見ているだけ」
「独りでご飯を探して。独りで隠れて。独りで逃げて。独りで怯えて。いつも独りで!!」
「死のうと何度も思った!死ねば先輩と一緒になれると思った!でも死にたくなかった!怖かった!」
感情の箍が外れ、心の奥の叫びを発する少女を尚也は黙って見つめる。
「私だって好きだったのに!……好きだったのに。でも、死ねなかったんです」
日向は涙を流しながら、まるで許しを請うかのように尚也にすがりついた。
尚也は黙って、日向の背中に手を回す。
「あの時、彼女を見た時、心の底から生きてやろうと思いました。死んでやるものかって」
「私は生き延びて、そして生きてる相手を好きになろうって思ったんです。思い出はきれいでも、形は無いから。だから生きて、生きて、生き抜いていくって決めたんです」
背をさする手の暖かさに心が熱くなるのを感じながら、日向は尚也の胸から顔を離す。
「すいません。変な話ししちゃって。その、助けられたとき思ったんです。強い人だって」
恥ずかしさに俯いた日向は、尚也の顔に刹那の間浮かんだ表情に気づくはずも無かった。
それは深い羨望だった。
日向が顔を上げたとき、瞳に映るのは常と変わらない無表情な尚也だった。
「だから、その、そういう方に考えちゃったんです」
尚也は背中に回した手を戻しながら、自分を見つめる瞳から目をそらした。
そこに映る自分の凍った瞳を見たくなかった。
「生きるつもりがあるのなら、手助けはできる」
「それって、連れて行ってくれるんですか!」日向が声を弾ませる。
「まずは一度、拠点に戻る。今後のことはそこで決めよう」
「はい!」微笑む少女が、尚也には眩しく見えた。
そういえば、あの二人は、ホームセンターの青年と少女は元気だろうか。
あの二人も生きようとする意思で輝いていた。だから助けようと思ったのだと、尚也は初めて気がついた。
自分より、彼らのような人間こそが生き延びるべきだと尚也は強く感じていた。
最終更新:2011年01月19日 20:20