仮眠の途中で聞きつける、かすかな異音。
それが聞き覚えのない靴音だと判断する前に、瞳は開き右腕は銃を抜き放っている。
今まで閉ざされていた黒瞳にはすでに鋭い光が宿っていた。
視線の先には、まだ状況の掴めていないであろう女性が立っている。
Tシャツ一枚で下はホットパンツにサンダルと軽装だ。手には日傘を掲げていて武装はしていないようだ。
年は尚也と同じかやや上ぐらいだろう。髪をアップでまとめていて活動的だ。
「あれ?お客さんですか。あの、お祖父ちゃんはどこでしょうか」
コルトパイソンを向けられているのに、女性の声は間延びして穏やかなものだった。
「ここのGSのオーナーなら店の裏にいると思う。親戚だったらすまないことをした」
老人の足音が近づくのを聞き、銃口を下ろしながら尚也は謝る。
「まあ、こんなご時世じゃ、どっちが悪いとも言えんなあ。葉月も気をつけんといかんぞ。もしこの人が強盗だったら今頃どうなってるか分からん。おや、今日は歩きか」
店の裏手から出てきた武老人が、女性をたしなめた。
「こんにちは、お祖父ちゃん。途中まで原付に乗ってたんだけどガソリンが切れちゃったみたい。日傘を用意しててよかったわ」
GSの屋根が創る影の下で、葉月は日傘を回しながらおどける。Tシャツが汗で透けて下着の線が出ているのも気にしていない。
「こんにちは、強盗じゃない方。お祖父ちゃんのお茶のみ友達にしてはお若いですね」
葉月は尚也のそばに来ると、軽く覗き込みながら微笑む。あまりに無防備な様子に、老人がため息をついた。
「俺は単なる客だ。ガソリンの代価を払ったらすぐ消える」
尚也は葉月と瞳を合わせずに呟く。
「お客さん?車もバイクも見当たりませんけど。あ、あなたもうっかりガソリン切らして歩いてきたんですね。だめですよ、万が一に備えて日傘ぐらい持ってないと」
尚也と老人はそろってため息をつく。それを葉月はくすくす笑いながら人事のように見ていた。
尚也は自分のおかれている状況が理解できなかった。今まで自分を見失ったことなど数えるほどしかない。常に冷静に状況を分析し、最良の方法を模索してきた。
眠っていても物音が立てばすぐに飛び起きるし、安全を幾重にも確かめた場所以外では気を抜いたことが無い。それが当たり前になっていたはずだった。
だが、今、自分の身に何が起きているのかまったく掴めなかった。
頭が重く、全身を悪寒が襲っている。指先まで隙間無く鉛を詰められたかのようだ。絶え間ない脱力感と、極度の疲労。手を持ち上げるだけの力も無い。
ベッドのようなところに寝かされて、体には柔らかい布がかけられているのは分かった。
どうやら防弾着は脱がされていて、全身を覆うのはかけられた布だけらしい。
体を動かそうにも、あまりの疲れに屈しそうになる。
すさまじいまでの精神力を振り絞り、瞳を開ける。
見覚えの無い天井。
顔を横にすると、革張りのソファーとそこに座っている女性が眼に入る。
――誰だ?見た覚えがある。そうだ、確か葉月と呼ばれていた女だ。
そこまで意識した瞬間に、尚也はあることに気がついて心臓を凍らせた。
見知らぬ人間の前で意識を失っていた!
もし相手に悪意があれば、濡れた布で顔を覆うだけで自分は死んでいる。
慄然とする尚也に、起きた事に気づいた葉月が声をかける。
「尚也さん、気分はどうです。どこか痛いところはありますか」
まるで熱を出した子供にでも話しかけるように、葉月は容態をうかがう。
「……ここはどこだ?いったい何が起きたんだ」
かすれた細い声が喉から滑り落ちる。尚也は左手を上げて額に張り付いた髪をかきあげようとしたが、腕を持ち上げてるだけが精一杯だった。
葉月は尚也の手をそっと握ると毛布の中に戻し、尚也の代わりに額にかかった髪をかきあげて汗をふき取る。
「憶えていないみたいですね。尚也さんは車を取りに行ったところで倒れたんですよ」
車。
そうだ。確か弘明老人に留守を任せて、GSのオーナーとその孫と一緒に、自分の車を止めたところまで向かって行った。車は隣町の山道に入ってすぐにところに隠しておいた。
太陽の日差しを浴びているというのに、妙に寒気がしていた。
車に給油している時点で、ずいぶんと酷い顔色をしていたのだろう。葉月に言われて、道端で休むことにした。道端に座ると寒気は徐々に収まったが逆に酷く眠くなった。
その後、葉月が近くの川にハンカチを濡らしに行ったところまでは思い出せる。
「ハンカチを濡らしに行ったあの後、俺は倒れたのか?」
「いえ。記憶がはっきりしていないのね。川でゾンビたちに襲われた私を助けてくれたのは尚也さんなんですよ。私が悲鳴を上げたあと、すごい速さで駆けつけてくれて」
「悪いが憶えていない。そのあたりから意識がはっきりしていなかったみたいだ。すまない。流れ弾に当たらなかったのは運が良いとしか言えない」
尚也は目を伏せて、自己嫌悪に陥る。暴発させなかったのは単に運の問題に過ぎない。
「そんなこと気にしなくて良いのに。第一、尚也さん銃なんか使いませんでしたよ」
「冗談だろ。あの時持っていたのは、銃の他はナイフが何本かだけだ。まさかそれで複数のゾンビと渡り合うはずが無い。そうだとしたら俺も無事ではすまない」
言い終えてから、尚也は表情を無くす。
もし、本当にナイフで感染者と戦闘したというのなら。しかも複数の相手と。
考えられる結果は一つしかない。
感染。死亡後、発症。いや、現状の体力の衰えを考えるとこのまま発病する確率もある。
「葉月さん。すまないがいくつか頼みたいことがある」
「なんですか。喉が渇きましたか」
「上着のポケットに入っている注射器と試験管を持ってきて欲しい。一緒に銃も頼む」
最終更新:2011年02月10日 12:52