「なんかおかしなふうになってて外に出るの怖いから、買い物、行ってきて」
その日、俺は妻に言われて買い物に出た。食糧やら生活用品を買うためだった。
世界中で暴動だか一揆だか集団ヒステリーが頻発し、日本もその影響を受けてか
かなりきな臭くなっていた。テレビや新聞では、世界に広がる暴動について
大きく報道されていた。しかし、俺は「まさかこの日本で暴動など起きるはずがない」
と根拠の薄い自信を持っていた。それでも念の為、万一の準備はしておきたかった。
マンションに一週間もこもっていれば、暴動が起きたとしても、収まるだろう。
某巨大匿名掲示板で、「暴徒は、実はゾンビ」などという根も葉もない噂が流れていた。
「ゾンビ」と聞いて、俺は死者が甦って生者を襲う古い映画を思い出した。
もちろん、俺はそんなたわごとを信じていなかったし、他の人間もそうだったろう。
家の近くのスーパーで缶詰やレトルト食品、米などを買い込んだ後、
ホームセンターへと車を走らせた。駐車場に車を置くと、近くの病院のほうから
叫び声や物が壊れるような音が聞こえてきた。事故でも起きたのだろうか?
必要なものを選び、カートに入れてレジに並んでいたときのことだった。
出入り口で叫び声が上がった。商品の山が邪魔をして、俺の位置からは
何が起きたのか見ることはできなかった。と、突然、
「お客さん、何をしているんですか!」
「やめてください!!」
店員の怒号にも似た、ただごとならぬ大声が聞こえてきた。
カートを列に置いたまま、声が上がったほうに足を向けると、血だらけの男女が数人、のろのろと歩いていた。事故でもあったのか、と俺は思ったが、様子が変だ。
彼らから少し離れたところでは血染めの白衣を着た看護婦が客の足にかぶりついていた。
またその横では、やはり血だらけの若い男と店員が格闘中だった。これが暴徒?
俺の目の前で、映画『ゾンビ』の1シーンが繰り広げられているようだった。
周りを見まわすと、ほとんどの客がその状況を見て、口をポカンとあけていた。
尋常ならざる事態に俺は気が動転していたが、ハッと「暴徒は、実はゾンビ」
という言葉を思い出した。奴等はどう考えても、普通の人間ではない。
人間に襲いかかり、肉を咀嚼する姿はまさしく映画のゾンビそのものだった。
本当にゾンビなのか、それとも暴徒、つまり人間なのか・・・。
とにかく、このままではマズイ。逃げなければ。
しかし、出入り口から次々と暴徒どもが店に入ってくる。
どこへ逃げる? 俺は店の奥へと走った。何か、武器を!
電動工具はだめだ。接近戦は絶対に不利だ。距離をおいて戦える得物を探した。
時間は限られている。俺は目の前にあった大きな「くぎ抜き」を掴んだ。
一匹のゾンビが俺を見つけて近づいてきた。距離は9m、7m、5m・・・。
だが、こいつが人間だったら、どうなるんだ。殺人じゃないか。
3mをきったとき、心を決めた。「殺らなければ、殺られる!」
俺はくぎ抜きを力任せに投げつけた。
ザクッ!
暴徒の胸に突き刺さった。が、少しよろめいただけで両手を前に突き出して、
俺に向かって歩いてくる。なぜだ!? 普通の人間なら・・・普通の人間?
違う、奴は「ゾンビ」なんだ。映画を、映画を思い出せ。どこをやればいいんだ。
そう、頭だ。俺はもう一本くぎ抜きを掴み、今度は振りかぶって頭に一撃を入れた。
手に、グシャッという嫌な手応えが残った。くぎ抜きがゾンビの鼻のあたりにまで
食い込んでいる。そこまでしてやっとゾンビは動きを止めた。ダイレクトに
後ろに倒れて胸に刺さったくぎ抜きが、床に押されて音をたてて抜け落ちた。
なんとかしてここから逃げなければならない。頭に妻子の顔が浮かんだ。
店内をよく見ると、生きた人間が右往左往している。ゾンビの数はよくわからない。
混乱が混乱を呼んでいるが、冷静に考えればゾンビはそんなに多くはないだろう。
なんといっても、ここは火葬が当たり前の日本なんだ。死体の数自体・・・、
待てよ、近くにあるあの病院はどうなんだ?
それを考えると頭がクラクラしてきた。ゾンビどもは病院から吐き出されているんだ!
一刻も早くこの場から離れなければ。俺は我を忘れてくぎ抜きを振り回しながら
出口に向かった。途中で武器になりそうな鉈をベルトに挟む。ゾンビに襲われて
息も絶え絶えな人間が俺に助けを求めたが、すがりつく手を蹴りつけた。
自分のこと、家族のことしか考えられなかった。レジ前にあったカートを盾に突進して
ゾンビを何匹か転がした。俺は店の外に出ることができた。店外は、店内以上に
ひどいことになっていた。逃げ惑う人間、それを追うゾンビ。腕を半分以上食われて
呆然としている若い女性。はらわたを引き千切られている男。ゾンビに抱きつかれて
喉から噴水のように血を吹き上げている子ども。生きた人間を跳ね飛ばしながら
逃げていく車。阿鼻叫喚の地獄絵図。本当にこれが日本なのか?
俺は駐車場に置いた自分の車にたどりつき、乗り込もうとしたときだった。
隣の車の陰からゾンビが襲いかかってきた。何が起きたのかわからなかったが、
左手に激痛が走り、噛まれたことを悟った。一瞬の出来事だった。
俺は無傷の右手でそいつの顔面を殴り、なんとか振りほどいた。
地面に倒れたゾンビの頭にくぎ抜きで一撃を加えて動きを永遠に止めてやった。
痛む左手を抱えながら運転席に座り、エンジンをかけて家路を急いだ。
気分が落ち着いてくると、俺は陰鬱な感情に襲われた。
俺はゾンビに、噛まれた 噛まれた 噛まれた 噛まれた 噛まれた・・・。
映画のとおりなら、俺は三日ともたないだろう。このまま家に帰っても先が無い。
自分が死んだ後、ゾンビとなって家族を襲うであろうことは想像に難しくない。
俺は車の中で、血が流れる左手を振りまわしながら、あらん限りの声を上げた。
アクセルをベタ踏みしたまま、壁に激突して死んでやろうかと思った。
どれくらい時間が経っただろうか。車は路肩に乗り上げて止まっていた。
俺はハンドルにつっぷして涙を流していた。
泣きながら自分が泣いていることに気がつかなかった。
助手席に置いてあるくぎ抜きを後部座席に放り投げたとき、ガサッとビニール袋が
音をたてた。振り返って見ると、そこにはホームセンターに寄る前に買った
大量の食料が乱雑に散らばっていた。
放っておいても俺はいずれ死ぬ。そうであるならば、残りの命、
これからを生きていく者のために使おう。そう、家族のために。
マンションの駐車場に車を置いて辺りを見まわした。
よし、まだ奴等はここまで来ていないようだ。
食料をビニール袋に戻し、それをくぎ抜きにひっかけて肩に担いだ。
自宅のドアを開けると、子どもが走り寄ってきた。妻がその後ろから顔を出した。
「おかえりなさ・・・どうしたの、その腕!?」
部屋の中に入り、血が流れている左手にタオルを巻きながら俺は事情を話した。
それと、言いにくいがどうしても言わなければならないこと、
俺の命があと三日ともたないことも。
妻はショックを受けているようだ。俺は努めて明るい顔を見せようと努力した。
横で聞いている子どもは、何が起きたのかわからずにきょとんとしていた。
俺が笑いかけると、にこっと笑顔が返ってきた。その笑顔がいとおしくて仕方がなかった。
子どもを寝かした後、俺はこれからのことを妻と話し合った。
いずれにしても俺は死ぬ。だが、家族には一分でも一時間でも長く生きていてほしかった。
俺は、死んだときには間髪を入れずにあの世に送ってくれるよう妻に頼んだ。
何度頼んでも、妻は首を縦には決して振らなかった。
そんな問答を何時間も繰り返し、言葉が途切れたとき、どういうわけか
楽しかったころの思い出話になっていた。結婚する前のこと、旅行に行ったときのこと、
子どもが生まれたときのこと、子どもがはじめて自分の足で歩いたときのこと・・・。
いつのまにか夜が明けていた。
太陽の光を見ながら、俺は自分の首に縄を巻き、縄の先をベランダの支柱に括り付けた。
勝手に死んで勝手に甦ったとき、家族に自分の手がかからないようにだ。
俺はそのままの格好でベランダに出て、タバコをふかした。八階から下を見ると、
特徴のある歩き方をしている人間――ゾンビども――が、数はまばらだがうごめいていた。
絶対絶命だ。もうマンションから逃げ出すこともできない。
妻に呼ばれて居間にいくと、テレビで政府の発表が流されていた。
未だに政府はゾンビのことを「暴徒」と表現していた。
アナウンサーが「人間として死にたい」と言いながら
カッターで喉を切って絶命したシーンが全国に流れたのは、その日の夜のことだった。
ゾンビに噛まれてから二日目。
俺はいつの間にか台所で寝ていた。もちろん首には縄が巻かれたままだ。
高熱が出て体が重い。左手の傷は化膿して異臭を放っている。そばにいた子どもが
「お父さん、どうしてそんなところで寝ているの? お布団で寝ないと風邪引くよ。
どうして首に縄を巻いてるの? どうしてそんなに汗をかいているの?
どうして、どうして、どうして・・・」
俺は我が子を抱きしめていた。
また一日が経った。噛まれてから三日目。俺はまだ生きている。
地上のゾンビどもの数が爆発的に増えているのがわかる。地獄の釜の蓋が開いたようだ。
すでに街行く車は途絶え、ときどき自衛隊のものとおぼしきヘリが飛んでいる他は、
人間の社会活動は完全に停止したようだった。テレビもラジオも沈黙している。
辛うじてネットでの情報交換が可能だったが、これもいつまで続くのかわからない。
俺は、噛まれた人間がどうなるか実況しようとしたが、
「無用の不安が広がるからやめろ」
と罵声を浴びて、書き込むことをやめた。確かにその通りだった。
死ぬのはわかりきっているのに、そんなことをしてどうなるというのだ。
だが、俺は、ゾンビに噛まれながらも、なんとか、まだ、生きている人間が、
ここに、いることを、誰かに、知ってもらいたかった。
四日目、まだ俺は生きていた。
すでに気力のみで自分をもたせているような状態だった。
思考してもまとまりがなく、言葉もろくにしゃべれない。
だんだんと目の前が暗くなっていく。
いよいよそのときが来たようだ。家族がいる部屋を覗くと、
妻と子どもが寝息を立てている。
もう一度、家族と話がしたかった。もう一度、家族の笑顔を見たかった。
もう一度、もう一度、我が子を自分の胸に抱きしめたかった。
だが、もう間に合いそうも無い。
俺は最後の力を振り絞り、ベランダの柵を乗り越えた。
金属の支柱を抱きながらタバコをくわえ、煙を深く吸い込んだ。
括り付けてある縄をほどき、吸い終わったタバコを支柱でもみ消して地上に落とした。
結婚する前、妻から
「吸殻の投げ捨てはやめてよね」
と、さんざん注意されたのをなぜか思い出し、少しだけ苦笑した。
俺は手を広げてベランダのコンクリートを蹴った。
少しでも遠くへ・・・。
遥か彼方に、悠々と飛んでいる鳥を見たような気がした。
―――――――終わり―――――――
最終更新:2010年12月06日 20:30