ある駐屯地
「噛め?」「噛めとは?」
待機中、中隊長から発せられた命令に、中隊の隊員達から素っ頓狂な声が上がった。
中隊長は、
「今回の出動は治安出動である。武器の使用に関しては、警察比例の原則が適用される。」
「暴徒は、警察部隊に対し武力攻撃を行わず、噛み殺すことにより警察部隊の無力化を
図っている。火器による攻撃が無いのに火器により攻撃を行うことは過剰防衛にあたる。」
「よって、諸君達は、出動した際には暴徒に対して火器による攻撃を行うのでは無く。暴徒
と同じ攻撃手段をもって対処するように。」
とチュータからの訓示が終わった。訓示が終わると周囲から
「……噛み殺すって……」「……そんな無茶な……」「……俺差し歯なんだ……」
とまどいの声が上がった。
一番若い、防大を卒業したばかりの、第4小隊長が質問した。
「中隊長殿、生命に危険が差し迫った場合の武器使用の判断は、どのようにすればよろしいのでしょうか。」
チュータは、小さな声で
「……」
第4小隊長は、
「中隊長殿、聞こえません。もう一度お願いします。」
チュータは、はあまり変わりばえしない声で
「……」
第4小隊長は、
「中隊長殿、聞こえません。再度お願いします。」
回りの、古参小隊長達はやめろと目線を送って来る。でも若い小隊長は気付かないようである。
チュータ、はやっと聞こえるようなか細い声で
「正当防衛、緊急避難の法令に遵守する範囲内において各自の判断において、発砲を行うように」
第4小隊長は、
「中隊長殿、交戦規定は無いのですか?」
チュータからの答えは無かった。
相変わらず、現場では明確な判断は何も無かった。
でも出動待機命令だから、出動時には明確になるかもしれないと、淡い期待を持っていた。
官邸
総理:
「警察は何をしている。何で治安の回復が図れないのだ。」
警察庁長官(以下、K長):
「暴徒は警察部隊に対し、噛み付いて、噛み殺しています。催涙ガスも効果がありません。
発砲の許可をお願いします。」
内閣法制局長(以下、内法長):
「駄目。駄目。駄目。発砲なんて問題外だよ。きみ。暴徒は銃器を使ってないのに、発砲なんて
過剰防衛じゃないか。」
K長:
「それでは、治安の回復は行えません。」
内閣官房長官(以下、内官長):
「警察庁長官、今はね国会会期中なんだよ。そんなことをして、今国会が乗り切れなければ、きみ、
責任を取るのかね?」
K長:
「警察官の生命に危険がある場合には発砲しても構わないのでしょうか」
内法長:
「あくまでも警察官職務執行法の範囲内でだよ。それに、その件については確か決着が付いて
いる筈だよ。あくまでも現場が緊急性と生命の危険性をどう判断するかだよ。」
総理:
「そっ、そうだよ。あくまでも現場の判断に任せるということだ。」
秘書官が入ってきて総理に耳打ちする。
「総理、社○党の土□議員からお電話です。」
総理
「あ、もしもし・・・」
社○党の土□議員
「総理、自衛隊に対して待機命令出したでしょう。駄目なものは駄目。直ちに解除しなさい。
さもないと、明日の審議中に不信任案提出するわよ。」
総理
「何のことかわからないが・・・」
いつまでも、明確な命令を出さない官邸、出したがらない官邸。
官邸の周囲は暴徒によって包囲されていた。
防衛庁中央指揮所
もう2日前から不毛な会議が続いている。日本全土に暴動が発生してから、自衛隊の出動を
前提として治安出動待機命令が発令された。ただ自衛隊の出動に関して明確な規定が無いので
関係省庁との協議が続いていた。
厚生労働省代表:
「自衛隊による野戦病院の設置は、○▽法第二条の規定により認められない。」
防衛庁内局代表」
「では、負傷者は地元の病院で収容していただけるのか?」
厚生労働省代表:
「前向きな姿勢で善処するよう努力する。」
ここでも、いつまでたっても結論が出ない。
中央指揮所がある防衛庁の周囲は暴徒によって包囲されていた。
ある駐屯地。
衛兵:
「連隊長殿、暴徒達が駐屯地内に侵入しようとしてます。阻止出来ません。発砲の許可を願います。」
連隊長:
「冷静に話し合え。お前は人を説得しようとする努力が足りない。腹を割って話せば何とかなる。」
衛兵:
「連隊長殿、無理です。既に暴徒によって3名が噛み殺されました。いや喰われました。」
連隊長:
「入り口にバリケードを構築しろ。それでしのげ。」
バリケードの構築が終わるまでに更に20人以上の隊員が食い殺された。それ以上の隊員が、噛まれ
負傷を負った。
官邸
防衛庁長官(以下、防長):
「総理、駐屯地に暴徒が押し寄せ甚大な被害が発生しています。暴徒に対する発砲許可を願います。
総理:
「ハァ?。そうだお茶。秘書官、お茶を持ってきたまえ。」
防長:
「総理、このままでは、出動出来なくなります。」
総理:
「だから、何度も言ってるだろう。武器の使用は現場の判断に任せると。君もクドイな。そんなこと
では偉くなれんぞ。」
K長
「総理、私からもお願いします。発砲許可を下さい。自衛隊に治安出動を発令して武力鎮圧をお願い
します。」
総理:
「法制局長官。何とかならんものかね?」
内法長:
「暴徒が銃器を使用しない以上、過剰防衛です。武器の使用は認められません。生命の危険の判断は
現場が行うべきものです。」
総理:
「そうだ。現状は現場が一番知っているだろう。防衛庁長官、警察庁長官、あくまでも武器の使用
は警察官職務執行法の範囲内だよ。それ以上は過剰防衛だ。生命に危険がある場合は、現場の
判断だ。」
既に人間が存在する所は点の拠点だけになってしまった。
防衛庁中央指揮所
まだ、不毛な会議が続いている。何時終わるのだろう。終わった時に日本人は何人生きているのだろうか。
環境省代表:
「自衛隊車両は、Nox・Pm削減法施行区域内を通行する際は必ずDPF又は低減装置を装着して下さい。
このままでは、環境基準がクリア出来ません。」
防衛庁代表:
「そのDPF装置とかは何処に行けば付けられるのですか?。」
環境省代表:
「それは、うちの管轄ではありません。あっ、それと。低減装置付けた際には排出基準をクリアしている事を
確認するため、ガス検を受けて下さい。」
防衛庁代表:
「ガス検って?。それは何処で受けられるのですか?」
環境省代表:
「確か、経済産業省の外郭団体で1つ、国土交通省の外郭団体で1つあるはずです。」
防衛庁代表:
「はあ……」
官僚は、省益を守る事が第一優先。この頃になると、その各省庁の庁舎内にも生きた人影は無かった。
ある駐屯地
駐屯地の周囲は暴徒だらけである。
内部でも不穏な空気が蔓延した。暴徒に噛まれて怪我をした隊員達が暴徒になってしまった。
当番中隊長:
「連隊長、反乱です。一部の隊員達が反乱を起し、暴徒に加わりました。」
連隊長:
「言葉を慎め。いいか説得しろ。帰順させるのだ。絶対に外部に漏らすなよ。」
連隊長からの報告
連隊長:
「師団長閣下。当部隊内にて一部隊員により反乱が発生しました。現在、帰順に向け説得中です。」
師団長:
「分かった、総監にはこちらから報告する。分かっているとは思うが、この件に関しては緘口令
を引くように。」
暴徒化した隊員達は取り押さえた。でもまた多数の隊員が噛まれてしまった。
官邸
防長:
「総理。自衛隊の一部で反乱が発生しました。」
総理
「何処の部隊だ。全く軽挙妄動しやがって。鎮圧だ。即刻鎮圧しろ。」
防長
「鎮圧を行う際は武力鎮圧を行います。」
総理
「法制局長官。この場合の武器使用は認められるのかね?。」
内法長
「反乱部隊が銃器を使用していれば、正当防衛にて処理出来るかと。」
総理
「防衛庁長官。反乱部隊側の兵力は?。それと押えられた武器はどれくらいかね?。」
防長
「反乱部隊は数十人とのことです。尚、武器は所持せず、ひたすら噛み付いて来ると……。」
内法長
「なんだ、その程度か。だったら武器の使用は許可出来ないな。過剰防衛だ。」
官邸の敷地内でも負傷した機動隊員の中から暴徒が発生しつつあった。
防衛庁中央指揮所
何が問題なんだ。一体全体。そんなに省益が大事なのか。この連中は。
国土交通省代表:
「自衛隊のヘリコプターが飛行場以外に着陸する場合は、……」
防衛庁代表:
「それでは有効な部隊運用が出来ない。」
国土交通省代表:
「法治国家としてのルールです。自衛隊の出動も法令の範囲内で行って下さい。」
防衛庁代表:
「はあ……」
中央指揮所の入り口の前は、暴徒で溢れていた。
ある駐屯地
出動命令は未だ来ない。でも駐屯地内は修羅場と化している。隊員の戦闘服を着た暴徒が
駐屯地内を徘徊している。連中による被害は甚大だ。おまけに連中は臭くてたまらない。
先程、連隊本部の通信隊の連中からは、方面総監部と師団司令部との通信が途絶したとの
話があった。最後の通信は「暴徒により包囲されている、救援を求む。」だったそうだ。
駐屯地の中からは、ついに脱柵する隊員が出始めた。脱柵隊員達は止めてあった装甲車や
トラックに弾薬庫から弾薬を搬出し一斉に積み込み始めている。
ついに 『パーン、パーン』銃声が響きだした。今の発砲が正当防衛に該当すると法務官
が認めてくれればいいのだが。
駐屯地内で待機中の部隊は総崩れとなった。生き残った隊員達は装備もろとも脱柵して
いった。駐屯地内は暴徒だけが残された。
官邸
秘書官が入ってきて総理に耳打ちする。
「総理、国会が暴徒により占拠された模様です。」
総理:
「何!……。ということは。あの煩い土□議員もいなくなったのか。」
防長:
「総理。もう一刻の猶予もなりません。出動命令と武力制圧命令を出して下さい。」
総理:
「あ~、秘書官はいるか。それだ、あの煩い土□議員の消息を確認しろ。全てはそれからだ。」
k長:
「総理。今すぐに待機中の自衛隊に出動命令を出せ。出すんだ。」
総理:
「まあ、落ち着いて。ここはゆっくり茶でも飲んで。な。沢庵でも食べれば気も休まるものよ。」
その時、『バキ、ミシ』という音と共に総理執務室のドアが開いた。そこには機動隊員が
立っていた。
k長:
「お前は何だ。ここをどこだと思っている。お前が来るような所ではない。持ち場に戻れ。」
機動隊員の表情はどこか暗く、びっこを引きながら警察庁長官に近寄っていく。
k長:
「お前、速やかに持ち場に戻れと言っているのだ。聞こえないのか?。」
機動隊員は、警察庁長官に近づいたと同時に頬に噛み付いた。長官は「うぉー」と雄叫びを
発し、悶絶した。総理執務室の開け放たれたドアからSPや機動隊員達が虚ろな表情で入って
来た。
官邸の内外は暴徒により埋め尽くされた。
防衛庁中央指揮所
司会役の内閣官房副長官が、休憩を宣言した。
まだ自衛隊が出動する際に問題となる事項の1割も決着していなかった。
中央指揮所入り口のドアが開放された。そこにいたのは、沢山の暴徒だった。
中にいた、各省庁選りすぐりの課長クラスや課長補佐クラスの官僚達は、あっという間に
暴徒達に襲われ、見えなくなった。
エピローグ
ここは、海上自衛隊の硫黄島基地。
俺は、通信士だった。この騒動が起ってから、ずっと無線を聞いていた。
つい先程、松山の陸曹教育隊からの無線が途絶えた。本土の部隊で最後まで組織的に動いて
いた部隊だった。
俺:
「司令。先程、松山の陸曹教育隊からの通信が途絶えました。」
司令:
「そうか……」
ここには暴徒はいない。でも食料も残り少ない。俺達もいずれ暴徒になるんだろう。
--------------- 終わり ---------------
最終更新:2010年12月08日 15:36