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[[1605年]](慶長十年)
[[林羅山]]、[[徳川家康]]に拝謁。信任を得る。
[[1613年]](慶長十八年)
東インド会社の商船船長セーリス、[[徳川家康]]に望遠鏡と虫眼鏡を贈る。
(一説に、日本人で最初に望遠鏡をのぞいたのは家康であるとも言う)
[[1630年]](寛永七年)
[[林羅山]]、上野忍岡に林家の家塾を開設
[[1690年]](元禄三年)
林家の家塾、神田湯島に移転。昌平黌と呼ばれるようになる。
[[1691年]](元禄四年)
[[徳川綱吉]]、湯島聖堂にて自ら経書(儒学経典)を講ずる。
[[1699年]](元禄十二年)
[[渋川春海]]、『天文成象図』を刊行。日本人の観測結果を取り入れた初めての天体図。
61の星座、308の星を掲載した。
[[1786年]](天明六年)
[[湲百年]](たにひゃくねん)『経典余師』(けいてんよし) 儒学四書の独習書
[[1788年]](天明八年)
[[大槻玄沢]]『蘭学階梯』刊行。オランダ語の入門書。
[[1793年]](寛政五年)
七月二十日、[[橘南蹊]]宅で、望遠鏡を用いた天体観望会が催される。
日、月、惑星の他、天の川やアンドロメダ星雲なども観測していると云々。
[[1796年]](寛政八年)
[[司馬江漢]]『和蘭天説』公刊。[[コペルニクス]]の地動説が紹介される。
[[1797年]](寛政九年)
[[松平定信]]の寛政異学の禁を受け、林家の家塾「昌平黌」、幕府直営の教育機関へ。→[[昌平坂学問所]]
[[1816年]](文化十三年)
[[国友一貫斎]]、江戸へ上京
[[1833年]](天保四年)
[[国友一貫斎]]、国産初のグレゴリー型反射望遠鏡を完成させる。
[[1832年]](天保三年)
[[坪井信道]]、江戸に蘭学塾日習堂を開く。
[[1835年]](天保六年)
[[国友一貫斎]]、正月六日より、日本人として初の太陽黒点連続観測を実施(翌年二月八日まで)
参考文献
『江戸時代の科学技術』市立長浜城歴史博物館
『江戸の教養』大石学編
[[1605年]](慶長十年)
[[林羅山]]、[[徳川家康]]に拝謁。信任を得る。
[[1613年]](慶長十八年)
東インド会社の商船船長セーリス、[[徳川家康]]に望遠鏡と虫眼鏡を贈る。
(一説に、日本人で最初に望遠鏡をのぞいたのは家康であるとも言う)
[[1627年]](寛永四年)
[[吉田光由]]『塵劫記』刊行
[[1630年]](寛永七年)
[[林羅山]]、上野忍岡に林家の家塾を開設
[[1690年]](元禄三年)
林家の家塾、神田湯島に移転。昌平黌と呼ばれるようになる。
[[1691年]](元禄四年)
[[徳川綱吉]]、湯島聖堂にて自ら経書(儒学経典)を講ずる。
[[1699年]](元禄十二年)
[[渋川春海]]、『天文成象図』を刊行。日本人の観測結果を取り入れた初めての天体図。
61の星座、308の星を掲載した。
[[1786年]](天明六年)
[[湲百年]](たにひゃくねん)『経典余師』(けいてんよし) 儒学四書の独習書
[[1788年]](天明八年)
[[大槻玄沢]]『蘭学階梯』刊行。オランダ語の入門書。
[[1793年]](寛政五年)
七月二十日、[[橘南蹊]]宅で、望遠鏡を用いた天体観望会が催される。
日、月、惑星の他、天の川やアンドロメダ星雲なども観測していると云々。
[[1796年]](寛政八年)
[[司馬江漢]]『和蘭天説』公刊。[[コペルニクス]]の地動説が紹介される。
[[1797年]](寛政九年)
[[松平定信]]の寛政異学の禁を受け、林家の家塾「昌平黌」、幕府直営の教育機関へ。→[[昌平坂学問所]]
[[1816年]](文化十三年)
[[国友一貫斎]]、江戸へ上京
[[1833年]](天保四年)
[[国友一貫斎]]、国産初のグレゴリー型反射望遠鏡を完成させる。
[[1832年]](天保三年)
[[坪井信道]]、江戸に蘭学塾日習堂を開く。
[[1835年]](天保六年)
[[国友一貫斎]]、正月六日より、日本人として初の太陽黒点連続観測を実施(翌年二月八日まで)
参考文献
『江戸時代の科学技術』市立長浜城歴史博物館
『江戸の教養』大石学編