平賀源内関連年表

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・[[1728年]](享保十三年)、[[高松藩]]の志度浦で生まれる。 ・[[1749年]]、父茂左衛門死去。お米蔵番の職を継ぐと同時に、藩の菜園で朝鮮人参栽培をまかされる。 ・[[1752年]](宝暦二年)、医師[[久保桑関]]の随行者として長崎遊学。 ・[[1756年]](宝暦六年)、高松藩を出て江戸へ入る。 ・[[1760年]] 高松藩の命で[[相模湾]]、紀州海岸の魚介類調査を行う。 ・[[1761年]] 二月、高松藩へ「禄仕拝辞願」(事実上の離藩願)を提出。九月二十一日付で受理。            [[湯島聖堂]]から神田白壁町へ引っ越す。          秋、伊豆の船原に派遣していた家僕経由で[[芒硝]]を発見。            勘定奉行より「伊豆芒消御用」の辞令を受ける(幕府から直接雇われたのはこの時だけ)            ただし、直後に源内の師[[田村元雄]]が入れ替わりに幕府から同地へ派遣されている由。 ・[[1763年]] 源内の師[[田村元雄]]、幕府に取り立てられ日光の薬園に勤め始める。 ・[[1768年]] 源内、温度計を再現・製作。友人たちに配る。 ・[[1770年]]十月、オランダ翻訳御用の名目で長崎へ出立。               この時、数頭の[[ヒツジ]]を買い入れ、故郷の志度に送って知人に飼育を依頼している。               ただし、この飼育には失敗した模様。 ・[[1771年]] 高松藩主[[松平頼恭]]、江戸藩邸で死去。 ・[[1772年]]、長崎より江戸へ帰参。          同年、「鉄山開発願」を幕府に提出。秩父鉄山の開発に取り組む。 ・[[1773年]](安永二年)六月、秋田藩の要請をうけて鉱山開発知識教授のため江戸を出立。                  七月、秋田藩に到着、宿としていた商人の家で[[小田野直武]]作の屏風絵を見て驚き、                     源内の意向により直武と面会が成立。 ・[[1774年]](安永三年)八月、[[杉田玄白]]『[[解体新書]]』刊行。            同年、源内が開発を担っていた秩父鉄山、「大しくじり」により閉山。            さらに同年、秩父の贄川‐久下の間について小舟での通航許可を幕府に願い出て認可される。            これにより秩父の木材を炭にして江戸へ運ぶ事業を行う(源内にしては珍しく、大体成功した) ・[[1776年]]、[[エレキテル]]の復元に成功。 ・[[1777年]](安永六年)十二月 [[小田野直武]]、秋田へ帰郷。 ・[[1778年]](安永七年) [[小田野直武]]、秋田藩主の側近として再び江戸へ。 ・[[1779年]](安永八年) 江戸で獄死。                   [[小田野直武]]、藩主の遠慮謹慎の命を受け、秋田へ帰郷。 ・[[1780年]](安永九年) [[森島中良]]編集により遺作集『風来六部集』刊行。                    源内の生母、79歳で死去。                    [[小田野直武]]、31歳で死去。秋田の自宅で病死。       補遺 ・[[ジョン・ケイ]]による「飛杼」の発明が[[1733年(W)]]、ワットの蒸気機関出現が[[1769年(W)]]、    クロプトンのミュール紡績機発明が[[1778年(W)]]にあたり、    源内の生涯はイギリスの産業革命勃興期とほぼ重なる由。       参考文献 『江戸の想像力』田中優子 『平賀源内を歩く』奥村正二 #amazon(4480080074, image, text) #amazon(4000019325, image, text)
・[[1728年]](享保十三年)、[[高松藩]]の志度浦で生まれる。 ・[[1749年]]、父茂左衛門死去。お米蔵番の職を継ぐと同時に、藩の菜園で朝鮮人参栽培をまかされる。 ・[[1752年]](宝暦二年)、医師[[久保桑関]]の随行者として長崎遊学。 ・[[1756年]](宝暦六年)、高松藩を出て江戸へ入る。 ・[[1760年]] 高松藩の命で[[相模湾]]、紀州海岸の魚介類調査を行う。 ・[[1761年]] 二月、高松藩へ「禄仕拝辞願」(事実上の離藩願)を提出。九月二十一日付で受理。            [[湯島聖堂]]から神田白壁町へ引っ越す。          秋、伊豆の船原に派遣していた家僕経由で[[芒硝]]を発見。            勘定奉行より「伊豆芒消御用」の辞令を受ける(幕府から直接雇われたのはこの時だけ)            ただし、直後に源内の師[[田村元雄]]が入れ替わりに幕府から同地へ派遣されている由。 ・[[1763年]] 源内の師[[田村元雄]]、幕府に取り立てられ日光の薬園に勤め始める。 ・[[1768年]] 源内、温度計を再現・製作。友人たちに配る。 ・[[1770年]]十月、オランダ翻訳御用の名目で長崎へ出立。               この時、数頭の[[ヒツジ]]を買い入れ、故郷の志度に送って知人に飼育を依頼している。               ただし、この飼育には失敗した模様。               また、この時に壊れたエレキテルを入手している。 ・[[1771年]] 高松藩主[[松平頼恭]]、江戸藩邸で死去。 ・[[1772年]]、長崎より江戸へ帰参。          同年、「鉄山開発願」を幕府に提出。秩父鉄山の開発に取り組む。 ・[[1773年]](安永二年)六月、秋田藩の要請をうけて鉱山開発知識教授のため江戸を出立。                  七月、秋田藩に到着、宿としていた商人の家で[[小田野直武]]作の屏風絵を見て驚き、                     源内の意向により直武と面会が成立。 ・[[1774年]](安永三年)八月、[[杉田玄白]]『[[解体新書]]』刊行。            同年、源内が開発を担っていた秩父鉄山、「大しくじり」により閉山。            さらに同年、秩父の贄川‐久下の間について小舟での通航許可を幕府に願い出て認可される。            これにより秩父の木材を炭にして江戸へ運ぶ事業を行う(源内にしては珍しく、大体成功した) ・[[1776年]](安永五年)十一月 [[エレキテル]]の復元に成功。 ・[[1777年]](安永六年)十二月 [[小田野直武]]、秋田へ帰郷。 ・[[1778年]](安永七年) [[小田野直武]]、秋田藩主の側近として再び江戸へ。 ・[[1779年]](安永八年) 江戸で獄死。                   [[小田野直武]]、藩主の遠慮謹慎の命を受け、秋田へ帰郷。 ・[[1780年]](安永九年) [[森島中良]]編集により遺作集『風来六部集』刊行。                    源内の生母、79歳で死去。                    [[小田野直武]]、31歳で死去。秋田の自宅で病死。       補遺 ・[[ジョン・ケイ]]による「飛杼」の発明が[[1733年(W)]]、ワットの蒸気機関出現が[[1769年(W)]]、    クロプトンのミュール紡績機発明が[[1778年(W)]]にあたり、    源内の生涯はイギリスの産業革命勃興期とほぼ重なる由。       参考文献 『江戸の想像力』田中優子 『平賀源内を歩く』奥村正二 #amazon(4480080074, image, text) #amazon(4000019325, image, text)

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