- 1749年、父茂左衛門死去。お米蔵番の職を継ぐと同時に、藩の菜園で朝鮮人参栽培をまかされる。
- 1761年 二月、高松藩へ「禄仕拝辞願」(事実上の離藩願)を提出。九月二十一日付で受理。
湯島聖堂から神田白壁町へ引っ越す。
秋、伊豆の船原に派遣していた家僕経由で
芒硝を発見。
勘定奉行より「伊豆芒消御用」の辞令を受ける(幕府から直接雇われたのはこの時だけ)
ただし、直後に源内の師
田村元雄が入れ替わりに幕府から同地へ派遣されている由。
同年、幕府は鉱山採掘令を発し、各藩に対して鉱山発掘を強く奨励。
- 1768年 源内、温度計を再現・製作。友人たちに配る。
- 1770年十月、オランダ翻訳御用の名目で長崎へ出立。
この時、数頭の
ヒツジを買い入れ、故郷の志度に送って知人に飼育を依頼している。
ただし、この飼育には失敗した模様。
また、この時に壊れた
エレキテルを入手している。
同年、「鉄山開発願」を幕府に提出。秩父鉄山の開発に取り組む。
- 1773年(安永二年)六月、秋田藩の要請をうけて鉱山開発知識教授のため江戸を出立。
七月、秋田藩に到着、宿としていた商人の家で
小田野直武作の屏風絵を見て驚き、
源内の意向により直武と面会が成立。
同年、源内が開発を担っていた秩父鉄山、「大しくじり」により閉山。
さらに同年、秩父の贄川‐久下の間について小舟での通航許可を幕府に願い出て認可される。
これにより秩父の木材を炭にして江戸へ運ぶ事業を行う(源内にしては珍しく、大体成功した)
小田野直武、藩主の遠慮謹慎の命を受け、秋田へ帰郷。
源内の生母、79歳で死去。
小田野直武、31歳で死去。秋田の自宅で病死。
補遺
参考文献
『江戸の想像力』田中優子
『
平賀源内を歩く』奥村正二
最終更新:2013年11月24日 05:07