安宅丸

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・寛永九年([[1632年]])、[[徳川家光]]の命により伊豆の伊東で建造された巨大軍船。  船手頭の向井将監忠勝が命を受けて作る。  長さ一五六.五尺(47.2メートル)、幅五三.六尺(16.4メートル)、深さ十一尺(3.3メートル)。  推定排水量は1500トン。  船体上部は銅板で覆った堅固な矢倉で守られ、船首の巨大な龍頭が前方を睨み、  船上には二層の天守閣がそびえる、さながら「浮かぶ城」であったという。  寛永十二年([[1635年]])の完成の際には、家光は品川沖で試乗、諸大名を招いて宴を催した。 ・しかし、大きすぎて操船もままならず、一度の航海経験もなかった。  隅田川の新大橋近くの「御船蔵」の岸に繋がれ、維持費には年間十万石がかかったという。 ・[[徳川綱吉]]の代、天和元年([[1681年]])十二月、大老堀田正俊の進言により解体される。 ・解体に際して、船が泣き声をあげた、などの怪異があったという。 ・安宅丸の部材はすべて、御船蔵の近くに「埋葬」され、その場所は明治まで  安宅町(江東区新大橋1丁目)と呼ばれていたという。 (『魔界と妖界の日本史』上島敏昭) 【・[[織田信長]]が琵琶湖北岸にて、「大安宅船(おおあたけぶね)」という  巨大な鉄鋼軍船を作っていたといい、ネーミングはそれにちなんだ可能性も……。  情報ソースが『宗像教授異考録』なのでよく裏付け調査のこと(笑)】
・寛永九年([[1632年]])、[[徳川家光]]の命により伊豆の伊東で建造された巨大軍船。  船手頭の向井将監忠勝が命を受けて作る。  長さ一五六.五尺(47.2メートル)、幅五三.六尺(16.4メートル)、深さ十一尺(3.3メートル)。  推定排水量は1500トン。  船体上部は銅板で覆った堅固な矢倉で守られ、船首の巨大な龍頭が前方を睨み、  船上には二層の天守閣がそびえる、さながら「浮かぶ城」であったという。  寛永十二年([[1635年]])の完成の際には、家光は品川沖で試乗、諸大名を招いて宴を催した。 ・しかし、大きすぎて操船もままならず、一度の航海経験もなかった。  隅田川の新大橋近くの「御船蔵」の岸に繋がれ、維持費には年間十万石がかかったという。 ・[[徳川綱吉]]の代、天和元年([[1681年]])十二月、大老堀田正俊の進言により解体される。 ・解体に際して、船が泣き声をあげた、などの怪異があったという。 ・安宅丸の部材はすべて、御船蔵の近くに「埋葬」され、その場所は明治まで  安宅町(江東区新大橋1丁目)と呼ばれていたという。 (『魔界と妖界の日本史』上島敏昭) 【・[[織田信長]]が琵琶湖北岸にて、「大安宅船(おおあたけぶね)」という  巨大な鉄鋼軍船を作っていたといい、ネーミングはそれにちなんだ可能性も……。  情報ソースが『宗像教授異考録』なのでよく裏付け調査のこと(笑)】 #amazon(4768469469, image, text)

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