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→[[デルポイへの奉納品]]
・中部ギリシア、[[パルナソス山]]の麓に所在。
・日本では「デルフィ」「デルフォイ」などとも記述される。
・[[アポロン]]の神殿があり、その神託によって著名。
神話によれば、元々は[[テミス]]が神託を与えていたが、神託を守護する蛇ピュトンにより地の裂け目に
近づくのを遮った際にこれをアポロンが退治し、以降デルポイの神託を我が物としたという。
この逸話から、デルポイを「ピュトン」の名で呼ぶこともある。
・当初、アポロン神殿は[[テッサリア]]のテンペ峡谷から運ばれてきた[[月桂樹]]によって造られていた、
と伝えられている。その後数次にわたり建て直しが行われ、最終的には[[BC329年]]に
現在見られる基礎部をもとにした神殿が建てられた。
・また、[[オリュンピア競技会]]と並ぶ、各ポリスの代表が参加した大規模な汎ギリシア規模の競技会が
開催されていた事でも知られる。
・デルポイの託宣の信憑性については、ヘロドトス『歴史』巻一に逸話がある。
[[リュディア]]王[[クロイソス]]が神の託宣を得ようとした際、その正確性を試そうと
方々の神殿に同じ日同じ時刻に「今クロイソス王は何をしているか」と問わせ、その時間に、まぐれ当たりの無いよう
羊と亀を青銅の大釜に入れて煮ていたところ、これをデルポイの神託だけが言い当てたという。
・一方、同書の巻五によると、アテネのアルクメオン家の一統がデルポイの巫女を買収し、
[[スパルタ]]から神託を求めに来た人に対してアテネの解放を繰り返し神託させ、
これによってスパルタはアテネに出兵、その独裁制が終わる事になったという逸話を載せる。
なおこの買収は、アルクメオン家の[[クレイステネス]]が行ったと噂されていたとか。
・[[BC548年(W)]]、デルポイの神殿にて火災発生。
ヘロドトスによれば、この際に、[[クロイソス]]が奉納した黄金の獅子像の一部が溶け落ち、
10タラントンの重さがあった像が6タラントン半になったという。
・パウサニアス『ギリシア案内記』によると、デルポイの体育所に空地があり、以前は自然の森が茂っていたといい、
[[オデュッセウス]]がここで行った狩りの際にイノシシによって膝の上に傷を負ったのはこの場所であったという。
(『オデュッセイア』では、この傷によって変装していたオデュッセウスの正体が息子の[[テレマコス]]などに確信される)
参考文献
『図説ギリシア』周藤芳幸
『ギリシア神話』アポロドーロス
『歴史(上)』ヘロドトス
『歴史(中)』ヘロドトス
『ギリシア案内記(下)』パウサニアス
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→[[デルポイへの奉納品]]
・中部ギリシア、[[パルナソス山]]の麓に所在。
・日本では「デルフィ」「デルフォイ」などとも記述される。
・[[アポロン]]の神殿があり、その神託によって著名。
神話によれば、元々は[[テミス]]が神託を与えていたが、神託を守護する蛇ピュトンにより地の裂け目に
近づくのを遮った際にこれをアポロンが退治し、以降デルポイの神託を我が物としたという。
この逸話から、デルポイを「ピュトン」の名で呼ぶこともある。
・当初、アポロン神殿は[[テッサリア]]のテンペ峡谷から運ばれてきた[[月桂樹]]によって造られていた、
と伝えられている。その後数次にわたり建て直しが行われ、最終的には[[BC329年]]に
現在見られる基礎部をもとにした神殿が建てられた。
・『ホメロス風讃歌』所収「アポロン讃歌」によれば、[[クレタ島]]、[[ミノス]]王の街[[クノッソス]]からの船に
アポロンが乗り込み、その乗組員たちをデルポイの神官となした、としている。
・また同書によれば、アポロンはクノッソスの船に乗り込む際に[[イルカ]](デルピス)の姿をとったことから、
その祭壇はデルペイオスという名で呼ばれるであろうとアポロン自身が言っており、
この讃歌にデルポイという地名自体は出て来ないものの、事実上デルポイという地名の語源説を形成していると読める。
・また、[[オリュンピア競技会]]と並ぶ、各ポリスの代表が参加した大規模な汎ギリシア規模の競技会が
開催されていた事でも知られる。
・デルポイの託宣の信憑性については、ヘロドトス『歴史』巻一に逸話がある。
[[リュディア]]王[[クロイソス]]が神の託宣を得ようとした際、その正確性を試そうと
方々の神殿に同じ日同じ時刻に「今クロイソス王は何をしているか」と問わせ、その時間に、まぐれ当たりの無いよう
羊と亀を青銅の大釜に入れて煮ていたところ、これをデルポイの神託だけが言い当てたという。
・一方、同書の巻五によると、アテネのアルクメオン家の一統がデルポイの巫女を買収し、
[[スパルタ]]から神託を求めに来た人に対してアテネの解放を繰り返し神託させ、
これによってスパルタはアテネに出兵、その独裁制が終わる事になったという逸話を載せる。
なおこの買収は、アルクメオン家の[[クレイステネス]]が行ったと噂されていたとか。
・同書巻六では、[[スパルタ]]王[[アリストン]]が、子[[デマラトス]]が本当の子かどうかを神託で確かめようとした際、
[[クレオメネス]]のさしがねで当時のデルポイの有力者[[コボン]]を介して巫女[[ペリアロス]](別写本ではペリアラ)を説き落とし、
デマラトスはアリストンの子ではないと述べさせたという事件があったという。
しかしこのことは後に露見し、コボンはデルポイを追放され、ペリアロスは聖職から解任されたとか。
なお、クレオメネスは後に発狂し、自身の体を足から順に短剣で切り裂いて死亡するという末路をたどっており、
そのためギリシア人の多くは、クレオメネスはデルポイの巫女を買収した崇りであったと噂したとか。
・[[BC548年(W)]]、デルポイの神殿にて火災発生。
ヘロドトスによれば、この際に、[[クロイソス]]が奉納した黄金の獅子像の一部が溶け落ち、
10タラントンの重さがあった像が6タラントン半になったという。
・パウサニアス『ギリシア案内記』によると、デルポイの体育所に空地があり、以前は自然の森が茂っていたといい、
[[オデュッセウス]]がここで行った狩りの際にイノシシによって膝の上に傷を負ったのはこの場所であったという。
(『オデュッセイア』では、この傷によって変装していたオデュッセウスの正体が息子の[[テレマコス]]などに確信される)
・デルポイの神殿には、[[スパルタ]]の哲学者[[キロン]]の三つの訓言が金文字で書かれていた事で著名。
すなわち「汝自身を知れ」「何物もあまり多くを望むな」「借金と訴訟の友は不幸である」。
・プリニウス『博物誌』第十六巻によれば、デルポイには[[アガメムノン]]が植えた[[プラタナス]]の木があったとか。
参考文献
『図説ギリシア』周藤芳幸
『ギリシア神話』アポロドーロス
『歴史(上)』ヘロドトス
『歴史(中)』ヘロドトス
『四つのギリシャ神話』
『ギリシア案内記(下)』パウサニアス
『プリニウスの博物誌 Ⅱ』
『プリニウスの博物誌 Ⅲ』
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