- 日本では「デルフィ」「デルフォイ」などとも記述される。
神話によれば、元々は
テミスが神託を与えていたが、神託を守護する蛇
ピュトンにより地の裂け目に
近づくのを遮った際にこれをアポロンが退治し、以降デルポイの神託を我が物としたという。
この逸話から、デルポイを「ピュトン」の名で呼ぶこともある。
- 当初、アポロン神殿はテッサリアのテンペ峡谷から運ばれてきた月桂樹によって造られていた、
と伝えられている。その後数次にわたり建て直しが行われ、最終的には
BC329年に
現在見られる基礎部をもとにした神殿が建てられた。
アポロンが乗り込み、その乗組員たちをデルポイの神官となした、としている。
- また同書によれば、アポロンはクノッソスの船に乗り込む際にイルカ(デルピス)の姿をとったことから、
その祭壇はデルペイオスという名で呼ばれるであろうとアポロン自身が言っており、
この讃歌にデルポイという地名自体は出て来ないものの、事実上デルポイという地名の語源説を形成していると読める。
開催されていた事でも知られる。
- デルポイの託宣の信憑性については、ヘロドトス『歴史』巻一に逸話がある。
リュディア王
クロイソスが神の託宣を得ようとした際、その正確性を試そうと
方々の神殿に同じ日同じ時刻に「今クロイソス王は何をしているか」と問わせ、その時間に、まぐれ当たりの無いよう
羊と亀を青銅の大釜に入れて煮ていたところ、これをデルポイの神託だけが言い当てたという。
- 一方、同書の巻五によると、アテネのアルクメオン家の一統がデルポイの巫女を買収し、
スパルタから神託を求めに来た人に対してアテネの解放を繰り返し神託させ、
これによってスパルタはアテネに出兵、その独裁制が終わる事になったという逸話を載せる。
なおこの買収は、アルクメオン家の
クレイステネスが行ったと噂されていたとか。
クレオメネスのさしがねで当時のデルポイの有力者
コボンを介して巫女
ペリアロス(別写本ではペリアラ)を説き落とし、
デマラトスはアリストンの子ではないと述べさせたという事件があったという。
しかしこのことは後に露見し、コボンはデルポイを追放され、ペリアロスは聖職から解任されたとか。
なお、クレオメネスは後に発狂し、自身の体を足から順に短剣で切り裂いて死亡するという末路をたどっており、
そのためギリシア人の多くは、クレオメネスはデルポイの巫女を買収した崇りであったと噂したとか。
ヘロドトスによれば、この際に、
クロイソスが奉納した黄金の獅子像の一部が溶け落ち、
10タラントンの重さがあった像が6タラントン半になったという。
- パウサニアス『ギリシア案内記』によると、デルポイの体育所に空地があり、以前は自然の森が茂っていたといい、
オデュッセウスがここで行った狩りの際にイノシシによって膝の上に傷を負ったのはこの場所であったという。
(『オデュッセイア』では、この傷によって変装していたオデュッセウスの正体が息子の
テレマコスなどに確信される)
- デルポイの神殿には、スパルタの哲学者キロンの三つの訓言が金文字で書かれていた事で著名。
すなわち「汝自身を知れ」「何物もあまり多くを望むな」「借金と訴訟の友は不幸である」。
参考文献
『図説ギリシア』周藤芳幸
『ギリシア神話』アポロドーロス
『歴史(上)』ヘロドトス
『歴史(中)』ヘロドトス
『四つの
ギリシャ神話』
『ギリシア案内記(下)』パウサニアス
『プリニウスの博物誌 Ⅱ』
『プリニウスの博物誌 Ⅲ』
最終更新:2016年08月31日 03:23