織田信長関連年表

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・[[1534年]](天文三年)、[[織田信秀]]の嫡男として生まれる。 ・[[1548年]](天文十七年)、十五歳で、[[斎藤道三]]の娘を娶る。 ・[[1552年]](天文二十一年)三月、[[織田信秀]]没(他に天文十八年説、二十年説もある)                  赤塚の戦い。信長にとって初の実戦 ・[[1556年]](弘治二年)八月、稲生の戦い。弟・信勝の軍と衝突する。               この戦いで信長は先頭に立ち、敵の主将林美作守を自ら討ち取ったとか。 ・[[1560年]](永禄三年) 桶狭間の戦い ・[[1568年]](永禄十一年)織田信長と[[足利義昭]]、入洛。                同年、足利義昭、征夷大将軍の宣下を受ける。 ・[[1570年]](元亀元年) [[浅井長政]]、謀反                 姉川の戦い                 本願寺、信長を攻撃                 志賀の陣。                朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。                →信長は思うように責められず、正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。 ・[[1571年]](元亀二年) 九月十一日より十五日まで、比叡山焼き討ち ・[[1573年]](天正元年) 五月十五日、佐和山を訪れ、大船の建造を命じる。                七月五日完成。信長の[[大安宅船]]                同年、朝倉氏、浅井氏滅亡 ・[[1575年]](天正三年) 長篠の戦い                越前一向一揆殲滅戦 (参照:『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広)
・[[1534年]](天文三年)、[[織田信秀]]の嫡男として生まれる。 ・[[1548年]](天文十七年)、十五歳で、[[斎藤道三]]の娘を娶る。 ・[[1552年]](天文二十一年)三月、[[織田信秀]]没(他に天文十八年説、二十年説もある)                  赤塚の戦い。信長にとって初の実戦 ・[[1556年]](弘治二年)八月、稲生の戦い。弟・信勝の軍と衝突する。               この戦いで信長は先頭に立ち、敵の主将林美作守を自ら討ち取ったとか。 ・[[1560年]](永禄三年) 桶狭間の戦い ・[[1568年]](永禄十一年)織田信長と[[足利義昭]]、入洛。                同年、足利義昭、征夷大将軍の宣下を受ける。 ・[[1570年]](元亀元年) [[浅井長政]]、謀反                 姉川の戦い                 本願寺、信長を攻撃                 志賀の陣。                朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。                →信長は思うように責められず、正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。 ・[[1571年]](元亀二年)比叡山焼き討ち。事前に琵琶湖南の城をいくつか攻略したあと、                 九月十一日、坂本に入り町に火を放つ。日吉大社にも放火。                 そのまま山上に登って殺戮・放火を続けたと    (ただし、近年の発掘調査では、山上にはあまり焼かれた形跡は見られず、      焼き討ちは坂本の堂舎、殺戮も八王子山が中心だったらしいとのこと)     これら放火は十五日まで続いた。 [[明智光秀]]に命じ、琵琶湖の南、[[坂本]]に坂本城を築かせる。 ・[[1573年]](天正元年) 五月十五日、佐和山を訪れ、大船の建造を命じる。                七月五日完成。信長の[[大安宅船]]                同年、朝倉氏、浅井氏滅亡 ・[[1575年]](天正三年) 長篠の戦い                越前一向一揆殲滅戦                十一月四日、従三位権大納言                十一月七日、右近衛大将                十一月二十八日、長男[[織田信忠]]に織田家の家督と[[岐阜城]]を譲る ・[[1576年]](天正四年) 正月、[[安土城]]の築城開始                本願寺を包囲。                この時、信長方の松浦党ら水軍が毛利氏の村上水軍と戦い、                毛利方の焙烙火矢(ほうらくひや)などで松浦水軍は大敗、                村上水軍は一艘の被害もなく本願寺に兵糧を入れて引き上げたと ・[[1577年]](天正五年) 十一月、右大臣                六月、「近江安土山下町中掟書」定められる(その第一条に[[楽市楽座]]の規定) ・[[1578年]](天正六年) 四月、右大臣および右近衛大将の官職を返上 ・[[1580年]](天正八年) 北陸方面軍[[柴田勝家]]、加賀の一向一揆を撃破。                  「一揆持ちの国」九十二年で消滅 ・[[1581年]](天正九年) 九月、伊賀攻め。総大将は二年前に独断で伊賀攻めし失敗している次男[[織田信雄]] ・[[1582年]](天正十年) 六月二日、本能寺の変                  七月三日、信長の三男[[織田信孝]]、[[本能寺]]を信長の墓所とし、供養する事を命じる。 ・[[1869年]](明治二年)十一月、旧天童藩江戸藩邸に、織田信長を祀る祠「健織田社(たてしおりたのやしろ)」が設けられる。 ・[[1870年]](明治三年)三月、「健織田社」の神名を「建勲社(たけいさおのやしろ)」に変更。 (参照:『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広       『信長と天皇』今谷明       『天下人を祀る』 滋賀県立安土城考古博物館図録) #amazon(4642063234) #amazon(406159561X)

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