赤塚の戦い。信長にとって初の実戦
- 1556年(弘治二年)八月、稲生の戦い。弟・信勝の軍と衝突する。
この戦いで信長は先頭に立ち、敵の主将林美作守を自ら討ち取ったとか。
同年、足利義昭、征夷大将軍の宣下を受ける。
姉川の戦い
本願寺、信長を攻撃
志賀の陣。
朝倉義景・浅井長政軍は比叡山の峰々に陣を張る。
→信長は思うように責められず、
正親町天皇に和平交渉の折衝を申請。
- 1571年(元亀二年)比叡山焼き討ち。事前に琵琶湖南の城をいくつか攻略したあと、
九月十一日、坂本に入り町に火を放つ。
日吉大社にも放火。
そのまま山上に登って殺戮・放火を続けたと
(ただし、近年の発掘調査では、山上にはあまり焼かれた形跡は見られず、
焼き討ちは坂本の堂舎、殺戮も八王子山が中心だったらしいとのこと)
これら放火は十五日まで続いた。
- 1573年(天正元年) 五月十五日、佐和山を訪れ、大船の建造を命じる。
七月五日完成。信長の
大安宅船
同年、朝倉氏、浅井氏滅亡
越前一向一揆殲滅戦
十一月四日、従三位権大納言
十一月七日、右近衛大将
十一月二十八日、長男
織田信忠に織田家の家督と
岐阜城を譲る
本願寺を包囲。
この時、信長方の
松浦党ら水軍が毛利氏の村上水軍と戦い、
毛利方の焙烙火矢(ほうらくひや)などで松浦水軍は大敗、
村上水軍は一艘の被害もなく本願寺に兵糧を入れて引き上げたと
六月、「近江安土山下町中掟書」定められる(その第一条に
楽市楽座の規定)
- 1578年(天正六年) 四月、右大臣および右近衛大将の官職を返上
「一揆持ちの国」九十二年で消滅
- 1581年(天正九年) 九月、伊賀攻め。総大将は二年前に独断で伊賀攻めし失敗している次男織田信雄
七月三日、信長の三男
織田信孝、
本能寺を信長の墓所とし、供養する事を命じる。
- 1869年(明治二年)十一月、旧天童藩江戸藩邸に、織田信長を祀る祠「健織田社(たてしおりたのやしろ)」が設けられる。
- 1870年(明治三年)三月、「健織田社」の神名を「建勲社(たけいさおのやしろ)」に変更。
(参照:『戦争の日本史13 信長の天下布武への道』谷口克広
『信長と天皇』今谷明
『天下人を祀る』 滋賀県立安土城考古博物館図録)
最終更新:2012年06月24日 01:27