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・『扶桑略記』に、日本最初の銅鐸発見の記事が載っている。
「(天智天皇)七年戊辰正月、(近江)志賀郡に於て[[崇福寺]]を建つ。
始めて地を平さしむ。奇異なる宝鐸一口を掘り出す。
長さ五寸、夜、光明を放つ」と云々。
・『続日本紀』和銅六年([[713年]])に、
「大倭(やまと)国宇太郡波坂(なむさか)郷の人大初位上村君東人(むらぎみあずまびと)、
銅鐸を長岡野の地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制常に異なり、
音律呂に協(かな)へり。所司に勅して之を蔵せしむ」とある。
(『青銅の神の足跡』谷川健一)
・[[三輪山]]周辺の遺跡にて、二世紀末から三世紀初頭にかけて、
銅鐸片の発掘が多く、この時期に銅鐸が大量に破壊されていると見られる。
三品彰英はこれについて、「地的宗儀(銅鐸)」から「天的宗儀(鏡)」へと
信仰の転換があったのではないか、としている。
(『シリーズ「遺跡を学ぶ」051 纏向遺跡』石野博信)
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・[[2015年]]、[[淡路島]]のセメント工場の砂置場で4月に見つかった銅鐸について、
CTスキャンをかけたところ銅鐸内部に舌(ぜつ)が入っている事が確認された。
見つかったのは、約32cmと約22cmの銅鐸が二重に重なったもの二組、計4つで、スキャンの結果
それぞれ13cm、8cmの舌が発見されたという。
舌は内部にひもで結ばれていたと見られ、銅鐸内面の舌と接触する部分がこすれてすり減っている
痕跡も確認されており、銅鐸の使用法について大きな示唆が得られるとのこと。
(この銅鐸は、発見された場所にちなんで「松帆銅鐸」と名付けられたとのこと)
・なお、銅鐸の内部に入った状態ではないが、同地では他にも舌と見られる青銅製品が3つ見つかっており、
同地で見つかった舌は計7本、これは全国最多だという。
・『扶桑略記』に、日本最初の銅鐸発見の記事が載っている。
「(天智天皇)七年戊辰正月、(近江)志賀郡に於て[[崇福寺]]を建つ。
始めて地を平さしむ。奇異なる宝鐸一口を掘り出す。
長さ五寸、夜、光明を放つ」と云々。
・『続日本紀』和銅六年([[713年]])に、
「大倭(やまと)国宇太郡波坂(なむさか)郷の人大初位上村君東人(むらぎみあずまびと)、
銅鐸を長岡野の地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制常に異なり、
音律呂に協(かな)へり。所司に勅して之を蔵せしむ」とある。
・[[三輪山]]周辺の遺跡にて、二世紀末から三世紀初頭にかけて、
銅鐸片の発掘が多く、この時期に銅鐸が大量に破壊されていると見られる。
三品彰英はこれについて、「地的宗儀(銅鐸)」から「天的宗儀(鏡)」へと
信仰の転換があったのではないか、としている。
『青銅の神の足跡』谷川健一
『シリーズ「遺跡を学ぶ」051 纏向遺跡』石野博信
神戸新聞NEXT 2015年6月26日記事
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