銅鐸

   CTスキャンをかけたところ銅鐸内部に舌(ぜつ)が入っている事が確認された。
   見つかったのは、約32cmと約22cmの銅鐸が二重に重なったもの二組、計4つで、スキャンの結果
   それぞれ13cm、8cmの舌が発見されたという。
   舌は内部にひもで結ばれていたと見られ、銅鐸内面の舌と接触する部分がこすれてすり減っている
   痕跡も確認されており、銅鐸の使用法について大きな示唆が得られるとのこと。
(この銅鐸は、発見された場所にちなんで「松帆銅鐸」と名付けられたとのこと)

  • なお、銅鐸の内部に入った状態ではないが、同地では他にも舌と見られる青銅製品が3つ見つかっており、
 同地で見つかった舌は計7本、これは全国最多だという。





  • 『扶桑略記』に、日本最初の銅鐸発見の記事が載っている。
   「(天智天皇)七年戊辰正月、(近江)志賀郡に於て崇福寺を建つ。
    始めて地を平さしむ。奇異なる宝鐸一口を掘り出す。
    長さ五寸、夜、光明を放つ」と云々。

   「大倭(やまと)国宇太郡波坂(なむさか)郷の人大初位上村君東人(むらぎみあずまびと)、
    銅鐸を長岡野の地に得て、之を献ず。高さ三尺、口径一尺、其の制常に異なり、
    音律呂に協(かな)へり。所司に勅して之を蔵せしむ」とある。




  • 三輪山周辺の遺跡にて、二世紀末から三世紀初頭にかけて、
   銅鐸片の発掘が多く、この時期に銅鐸が大量に破壊されていると見られる。
   三品彰英はこれについて、「地的宗儀(銅鐸)」から「天的宗儀(鏡)」へと
   信仰の転換があったのではないか、としている。




『青銅の神の足跡』谷川健一
『シリーズ「遺跡を学ぶ」051 纏向遺跡』石野博信

神戸新聞NEXT 2015年6月26日記事



最終更新:2015年07月01日 04:15