・[[1757年]] 湯島で第一回薬品会。主催は本草学者[[田村元雄]]だが事実上の発起人は[[平賀源内]]。 出品者21人、出品種目180種。源内自身の出品はない。 ・[[1758年]]、神田で第二回薬品会。出品者34人、出品種目231種。源内の出品は5種。 ・[[1759年]]湯島で第三回薬品会。この時は平賀源内主催。源内の出品は50種だが、 参加人数、出品品目は前回に劣る。 ・[[1760年]]、第四回薬品会。主催は[[田村元雄]]の弟子[[松田長元]]。 詳細は不明だが、出品数はおよそ100種ほどと、さらに小規模な内容だった模様。 同年初夏、大坂にて大規模な薬物会が[[戸田旭山]]の主催で開かれ、 100人の参加者と241種の品目を集める。 同年秋、この大坂での薬物会の品目を記録した『文会録』発行、後書きは源内。 ・[[1762年]](宝暦十二年)四月十日 湯島の京屋九兵衛方で第五回東都薬品会(え)。[[平賀源内]]主催。 日本全国の取次ぎ人に品物を集める仕組みにより、この回は約1300種の品目が集まった。 (翌年、同会の出品物を収録した書籍『物類品隲』刊行) ・[[1765年]](明和二年)九月 漢詩サークル「混沌社」結成。甲会と乙会に分かれ、第一回甲会が九月十六日、第一回乙会が九月二十六日。 ・[[1774年]](安永三年)二月四日 牛込原町の光恵寺の書院にて、宝合の会。酒上熟寝主催で、唐衣橘州・四方赤良(太田南畝)など狂歌師たちが集った。 礼服を着て、もっともらしく、ガラクタを「宝」と称して披露しあうパフォーマンス大会。 なお、参加者の中には早鞆和布刈(はやとものめかり、実は塙保己一)なども居たとか。 ・[[1779年]](安永八年)八月十三日~十七日 高田馬場の信濃屋にて五夜連続の観月の宴。主催は太田南畝で、 [[朱楽菅江]]、[[木室卯雲]]、[[浜辺黒人]]など、のべ七十人ほどが参加し、 狂歌、狂詩や詩、歌、俳諧などを詠み合ったという(『月露草』によるとか) ・[[1795年]]1月1日(太陽暦、旧暦で寛政六年閏十一月十一日)、京橋にある[[大槻玄沢]]の家塾芝蘭堂にて、江戸で最初の「おらんだ正月」。 長崎出島でオランダ人たちが行っていた新年祝いの酒席、正式名を「新元会」。 以降、[[1837年]](天保八年)まで毎年行われた。 ・[[1783年]](天明三年) 四月二十五日 柳橋の料理屋河内屋で、宝合の会。原則一人一品の出展で、計110品が出品されたとか。 世話役は数寄屋連の竹杖為軽([[森島中良]])。なお、四方赤良は出品はしたが当日出席はしなかった模様。 同年七月にこの会の記録が『狂文宝合記』として出版。 ・[[1792年]](寛政余年)五月 両国柳橋の万八楼にて、[[山東京伝]]の書画会(その場で書を揮毫・販売する会、今で言うサイン会)。 170~180人が来会し、三十両近い収益をあげたという。 世話役は版元の[[鶴屋喜右衛門]]と[[蔦屋重三郎]]。 ・[[1824年]](文政七年)五月十五日 上野不忍池の淡々亭にて第一回耽奇会。奇物、書画、珍籍を持ち寄り風俗考証する会。 第一回参加者は[[谷文晁]]を含む五名。以降、毎月十三日に開催、文政八年十一月まで続いた。 なお途中から[[曲亭馬琴]]も参加している。 ・[[1825年]](文政八年)一月十四日 [[関思亮]]の家で第一回兎園会。奇事・異聞の考証をする会。 同年十二月まで毎月開催。主な出席者に[[曲亭馬琴]]など。 会の記録として『兎園小説』がのちに刊行される。 ・[[1836年]](天保七年)八月十四日 両国柳橋の万八楼にて、[[曲亭馬琴]]の古希祝賀の書画会。 世話役は『南総里見八犬伝』の版元[[丁子屋平兵衛]]と、[[和泉屋市兵衛]]。 当日の参会者は600名に及んだというが、準備のための出費がかさみあまり収益は出なかったとか。