聖徳太子

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聖徳太子 - (2011/08/23 (火) 11:27:34) のソース

聖徳太子(しょうとくたいし)は、飛鳥時代の皇族とされる人物。

用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)とされる。また、『上宮聖徳法王帝説』などでは厩戸豊聰耳聖徳法王の子に山代大兄(山背大兄王)らがいるという。

本名は厩戸(うまやど)であり、厩戸の前で出生したことによるとの伝説がある。ただし、生誕地の近辺に厩戸(うまやと)という地名があり、そこから名付けられたという説が有力である。別名、豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)とも呼ばれた。 『古事記』では上宮之厩戸豊聡耳命と表記される。 『日本書紀』では厩戸皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王と表記されている。聖徳太子という名は平安時代から広く用いられ一般的な呼称となったが、後世につけられた尊称(追号)であるという理由から、近年では「厩戸王」の称に変更している教科書もある。


・蘇我馬子が物部守屋と戦った際、馬子側にいた厩戸皇子が戦況の危機に際し、霊木である白膠木(ぬりで)を切り取って四天王像をつくり、頭上におき「今もし勝たせていただけるなら、必ず護世四王のために寺塔を建立しよう」と誓ったという。
 大阪にある四天王寺はこの乱の後、造建されたという。

・灌仏会(かんぶつえ、釈尊の降誕祭)を営み、また[[606年]]7月15日には盂蘭盆会を行っている。これは日本で最初の先祖供養の仏事と考えられる。

・仏教は高麗の僧慧慈に習い、儒教の経典は覚哿という者に習ったという。

・『三経義疏』(法華経義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)の撰者と目されている。

・『日本書紀』推古天皇二十一年([[613年]])の条に、聖徳太子が片岡山で道端に倒れている飢えた人に食べ物を与え衣服をかけた記事が載る。後日、太子の使者がこの者が死んでいるのを見つけ埋葬するが、数日して中を覗くと、墓に変化がないまま中の屍骨はすっかりなくなっていたという。
 この話を聞いた太子は「真人(ひじり)であろう」と答えており、道教の屍解仙の概念との関係が察せられる。

・中国の天台系僧である慧思禅師の後進(生まれ変わり)説話が後代の太子伝などに載る。
 この慧思が、龍樹、慧文、慧思、智顗、智威と続く天台系譜に連なることから、
 日本天台宗の開祖である[[最澄]]の聖徳太子信仰へとつながって行く。
 またそのつながりから、大阪の四天王寺と天台宗の結びつきが生まれてゆく。

(以上、田中嗣人『聖徳太子信仰の成立』)


・[[917年]](延喜十七年)成立と思われる『聖徳太子伝略』に、
   [[聖徳太子]]二十七歳の時、諸国に駿馬を求めさせたところ、甲斐国が献上した
   黒駒を大変気に入り、舎人調使麻呂に飼育させ、
   また麻呂を従えて黒駒に乗り、[[富士山]]頂に登り、
   転じて信濃・越中・越前を経て帰還した、とある。
   『聖徳太子正伝輪』やそれ以降の聖徳太子の事績を記した本では、
   富士山の頂上に登った太子がかぐや姫の声を聴いたとしており、
   さらにかぐや姫は聖徳太子の祖母で、
   天皇の求婚と、その妄執に引かれて地獄に落ちたと語る筋になっている。
   そして、太子の供養により、地獄の苦患をまぬかれた、とする。

(『富士山の祭神論』竹谷靱負)


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