聖徳太子

  • 蘇我馬子が物部守屋と戦った際、馬子側にいた厩戸皇子が戦況の危機に際し、霊木である白膠木(ぬりで)を切り取って四天王像をつくり、頭上におき「今もし勝たせていただけるなら、必ず護世四王のために寺塔を建立しよう」と誓ったという。
 大阪にある四天王寺はこの乱の後、造建されたという。

  • 灌仏会(かんぶつえ、釈尊の降誕祭)を営み、また606年7月15日には盂蘭盆会を行っている。これは日本で最初の先祖供養の仏事と考えられる。

  • 仏教は高麗の僧慧慈に習い、儒教の経典は覚哿という者に習ったという。

  • 『三経義疏』(法華経義疏、勝鬘経義疏、維摩経義疏)の撰者と目されている。

  • 日本書紀』推古天皇二十一年(613年)の条に、聖徳太子が片岡山で道端に倒れている飢えた人に食べ物を与え衣服をかけた記事が載る。後日、太子の使者がこの者が死んでいるのを見つけ埋葬するが、数日して中を覗くと、墓に変化がないまま中の屍骨はすっかりなくなっていたという。
 この話を聞いた太子は「真人(ひじり)であろう」と答えており、道教の屍解仙の概念との関係が察せられる。

  • 中国の天台系僧である慧思禅師の後進(生まれ変わり)説話が後代の太子伝などに載る。
 この慧思が、龍樹、慧文、慧思、智顗、智威と続く天台系譜に連なることから、
 日本天台宗の開祖である最澄の聖徳太子信仰へとつながって行く。
 またそのつながりから、大阪の四天王寺と天台宗の結びつきが生まれてゆく。



  • 伝聖徳太子著とされる書物に『未来記』がある。
   太子が未来を予見して書いた、一種の預言書とされるが、現在その信憑性は極めて低いものとされている。
   『古事談』巻五によれば、この書物は1054年(天喜二年)に太子の御廟近辺で掘り出されたという。




  • 917年(延喜十七年)成立と思われる『聖徳太子伝略』に、
   聖徳太子二十七歳の時、諸国に駿馬を求めさせたところ、甲斐国が献上した
   黒駒を大変気に入り、舎人調使麻呂に飼育させ、
   また麻呂を従えて黒駒に乗り、富士山頂に登り、
   転じて信濃・越中・越前を経て帰還した、とある。
   『聖徳太子正伝輪』やそれ以降の聖徳太子の事績を記した本では、
   富士山の頂上に登った太子がかぐや姫の声を聴いたとしており、
   さらにかぐや姫は聖徳太子の祖母で、
   天皇の求婚と、その妄執に引かれて地獄に落ちたと語る筋になっている。
   そして、太子の供養により、地獄の苦患をまぬかれた、とする。



      参考文献
『聖徳太子信仰の成立』田中嗣人
『平家物語(七)』
『富士山の祭神論』竹谷靱負


最終更新:2014年09月07日 02:38