太田 道灌(おおた どうかん)は室町時代の武将。武蔵国守護代。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系である摂津源氏の流れを汲み、源頼政の末子で鎌倉幕府門葉となった源広綱の子孫にあたる太田氏。諱は資長(ただし異説あり)。扇谷上杉家家宰太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城した武将として有名である。(以上wiki) ・[[1458年]](長禄二年)、26歳の時に雲岡舜徳という禅僧によって曹洞宗に帰依している。 ちなみにこの時代、臨済宗が権力者や貴人と結びつき、鎌倉五山、京都五山を確立していたので 曹洞宗への帰依は珍しいともいえる。「臨済将軍、曹洞土民」といった言葉もあったとか。 ・落語に「道灌」という演目がある。 またその兼ね合いで、噺家の符丁に傘がないことを「道灌」という。 ・道灌暗殺を知った小田原城主大森氏頼は、上杉定正に手紙を送っていわく、 「八州(関東)の安危は武の一州にかかり、武の安危は公(道灌)の一城にかかる。思うべし関八州はただただ公の双肩にかかるを。なんぞやその公を謀殺し、求めて日月を地に落とすとは。吾まさに断腸の極み、君まさに慙愧すべし」 (以上、尾崎孝『道灌紀行』) ・