・京都の一条通りと東堀川の交点にあった橋。 ・鎌倉中期成立の『撰集抄』に、熊野から都に帰った浄蔵が、一条戻橋の上で父三善清行の柩にあい、 心に強く念じて蘇生させ、それが戻橋の名前の由来であると伝えている。 ・『権記』長徳四年十二月二五日条に「戻橋路」の記述があることから、十世紀末には一条戻橋の名は存在していたと思われる。 ・『建内記』に、「去ぬるころ異類の物、一条堀川の橋上で歌舞す」とある。 ・戻橋近辺は暗殺が起こったり、また罪人をさらす所でもあった。 豊臣秀吉はここに北条氏政・氏照兄弟の首をさらしたという。 ・平安時代後期には、橋占を行う場所としても有名だった。 藤原頼長が養女多子の入内の正否を占った他、 『源平盛衰記』にもこの近辺での辻占を行った記事がある。