松尾芭蕉

松尾 芭蕉(まつお ばしょう、寛永21年(1644年) - 元禄7年10月12日(1694年11月28日))は現在の三重県伊賀市出身の江戸時代前期の俳諧師である。幼名は金作。通称は藤七郎、忠右衛門、甚七郎。名は宗房。俳号としては初め実名宗房を、次いで桃青、芭蕉(はせを)と改めた。蕉風と呼ばれる芸術性の高い句風を確立し、俳聖と呼ばれる。

芭蕉が弟子の河合曾良を伴い、元禄2年3月27日(1689年5月16日)に江戸を立ち東北、北陸を巡り岐阜の大垣まで旅した紀行文『奥の細道』がある。
                           (以上Wikipediaより)


  • 死後、門人による神格化がすすめられ、百年忌の年である1793年に伯家神道家より「青桃霊神」の号を、
 さらに百五十年忌に時の左大臣より「花の本大明神」の号を受けている。

  • 以下引用。
「 そして明治元年(1863)、明治政府は神官主導による大教院を設け、全国の神官と僧侶を教導職に任命したのですが、教導の養成が間に合わず、三森幹雄や鈴木月彦、月の本為山といった俳諧の宗匠を教導職に任命したのです。これは俳諧を通じて“国民の思想を善導し天理人道に導く”という社会教化運動となっていきました。この運動は神道優先の時代背景もあって、芭蕉の俳諧の奥義を崇拝し、これを宇宙の大元神(おおもとかみ)の啓示として日本文学の規範としようとする神道的な俳諧結社の形成をともなっていたのです。松尾芭蕉の霊格を青桃霊神とする一派は、月の本為山らを中心に、明治7年(1874)、「祖翁(芭蕉)の言行を旨(むね)とし、物理を明らかにし、俗談を正しくし、和を専務とする」を主旨とする「俳諧明倫社」を結成し、明治18年(1885)、「神道芭蕉派」を称して、芭蕉二百年忌に古池教会を創設し、松尾芭蕉を祀る芭蕉神社(現芭蕉稲荷神社:東京都江東区常盤)を築きました。

 あるいは江戸の其角(きかく)にはじまる一派は三森幹雄を主幹とし、芭蕉を花の本明神として崇敬する「俳諧教林盟社」を結成し、芭蕉の忌日に「時雨まつり」(しぐれまつり)をおこなって句会を開き、国家神道を軸とした日本の近代化の中で倫理的な文化を形成しようとする運動を全国的に展開しました。そのころ全国におこった新聞創刊の中で、これらの俳諧結社の主催者は投稿俳句欄の選者ともなり、明治の俳句ブームをまきおこし、全国各地に松尾芭蕉を祀る松尾神社が創建され、芭蕉の句碑が設営されたのです。この芭蕉の神格化による俳諧に敢然と立ち向かったのが正岡子規です。子規は芭蕉信仰による俳句を否定し、西欧近代文学を規範とした「文学者としての芭蕉」を研究し、その凄絶な人生とともに磨かれた芭蕉批判が近代俳句の端緒となるのです。」
(以上、ISIS本座「バジラな神々」第七柱-4)
最終更新:2010年09月02日 00:17