源頼政

  • 名高い頼政の退治は、『平家物語』では近衛天皇の御代、仁平の年号の頃とし、
   『源平盛衰記』では二条院の御代、平治二年の事とし、『十訓抄』では高倉院の時としている。

  • 『平家物語』に即して概略を記すと。
   近衛天皇の御代、東三条の森の方より、丑の刻、よなよな黒い煙が出て天皇を怯えさせるので、
   源義家の古例にならって武士を呼ぶことになり、頼政に白羽の矢が立つ。
   頼政は当初「昔より朝家に武士をおかるる事、逆反の者をしりぞけ、違勅の者をほろぼさんがためなり。
   目にもみえぬ変化のもの仕れと仰せ下さるる事、いまだ承り及び候らず」
   と否定的だったが、朝命であるためやむなく参内する。
   この時の連れは遠江国の住人井早太のみ(「百二十句本」や「流布本」では猪早太)。
   頼政はこの時矢を二本持っていたが、これはもし一本目で物の怪を射損じた時には、二本目で
   頼政を物の怪退治に推薦した貴族の首を射てやるためだった、と書かれている。
(zsphereコメント:やぶれかぶれであるw)
   「南無八幡大菩薩」と唱えて射ると命中。物の怪は、頭は猿、むくろは狸、尾は蛇(くちなわ)、
   手足は虎、鳴声は鵼に似ていたとのこと。
   この変化のものはうつぼ舟に入れて流されたという。
   またこの功績により、頼政は天皇から獅子王という銘の剣を下賜された由。

   五t慈雨、二条院の御代に再び怪鳥のことあり、再び頼政が召される。
   頼政は大鏑を射て、鵼鳥が飛んだところを小鏑で射落とす。
   この功績により、天皇より御衣を得たと云々。




  • 以仁王と共に平家に対して反旗を翻すも、鎮圧される。


  • 『玉葉』治承四年五月廿一日条に、園城寺に篭もった高倉宮(以仁王)攻撃の命が出された武士の中に
   源頼政の名前があり、この時点で平家が、以仁王の蜂起に頼政が関わっていると知らなかった事が
   伺える、とのこと。



      参考文献

『平家物語(四)』


最終更新:2014年08月21日 01:46