- 津軽では暴風雨を「丹後日和」といい、丹後のものがこの土地に
入ったために起こる岩木山の祟りだという。
丹後者の山椒大夫に拷問の末、殺されたからであると。
(『魔界と妖界の日本史』上島敏昭)
- 旧暦八月一日から十五日まで「山かげ」と称して精進潔斎のうえ登拝する風習がある。
- 津軽藩が成立し城を弘前に築いてから南麓の岩木山神社が有名となったが、それ以前は西麓にある厳鬼山神社が旧地だった。
「この御山開らけしはじめは延暦の頃となん人の語ぬ。其むかし、岩城の司判官正氏のうしの子ふたところ持給ふを、
安寿姫、津志王丸と聞えたる。其たまをこのみねに祭る。さる物語の有けるゆへに、丹後国の人は、このいは木ねにのぼりうることかなはず。又此みねの見え渡る海つらに、その国のふねをれば、海ただあれにあれて、さらに泊もとむることかたしと、ふね長のいへり」
とある。
丹後の船が津軽の海に入ると荒れるという「丹後日和」については諸書に同様の記述が見える。
話の元は説経『さんせう太夫』、およびそれを受けて記された『
和漢三才図会』岩城山権現の条。
- 寛永年間、津軽藩二代藩主信枚(のぶひら)が岩木山三所権現(百沢寺)の山門に納めた五百羅漢像の中に安寿と津志王像を入れたといわれる。その二像は明治の神仏分離の際に弘前市の長勝寺に移され現存している。
「昔この山を「あそべの森」といい鬼が住んでいた。延暦十五年に
坂上田村麻呂が退治しようとしたが果たしえず、その後近江国篠原の花輪某が討手に向かい生ヶ原に着船し、住吉の神の夢のお告げにより万字と錫杖の旗指物で攻め鬼を退治することができたという」
同様の記事は『岩木山百沢寺光明院』『
天台宗諸寺院縁起』や、『津軽一統志』付巻にもほぼ同内容の記事が載る。
ただし、こちらはあまり有名な縁起ではない。
- 「丹後日和」の逸話などから、岩木山の神が海上交通と不可分のものであったらしく推定される。
( 国文学 解釈と鑑賞 1982年3月号 特集「寺社縁起の世界」)
最終更新:2011年08月08日 10:57