太陽を射る

   複日モチーフ


  • 台湾の高山族の太陽征伐に関する民話
  →部族中の勇士が、人民の受ける酷熱の苦しみを除こうとして、
   二つの太陽の一つを射、傷ついた太陽は月になった

 この他、「一つの太陽を射たら二つに裂けて、そのうちの半分が月になった」という話や、
 「昔は天が低くて太陽の熱が甚だしいため、天を衝いて遠ざけ、酷暑の苦しみから逃れた」という話もある。

  • また、台湾の漢族にも同様の民話があり、
 「雷神が九つの太陽のうち八つを打ち殺して、人民のために害を除いた」という。


  • インドネシア、北ボルネオのドゥズン族、スマトラのバタ族にもあり、
 八つの太陽のうち七つを勇士が射落とす。
 マレー半島のセマング族では太陽の数は三つ。
 中国西南部の苗族では十。苗族の話では、射日ののち
 残りの一つの太陽が七年間隠れて、天地が真っ暗になったという。


  • 中国古文献では、
  『淮南子』本経訓
    →「堯の時に至り、十日並び出づ、禾稼を焦し草木を殺して、
      民は食する所無し、堯すなわち羿をして、
      上十日を射使む」
  同文に対する高誘の注
    →「十日並び出づるに、羿は射て九を去る」

  『楚辞』天問
    →羿は焉んぞ日を彊(い)、烏は焉んぞ羽を解く
  同文に対する王逸の注
    →堯の時、十日並び出で、草木焦枯す、堯は羿をして
     仰いで十日を射使め、其の九に中(あ)つ、
     日中の九烏皆な死し、其の羽を堕す。

  • 中国古典中に、十日暴威をふるう話を載せた文献
   →『山海経』海外西経、『呂氏春秋』求人、『荘子』斉物論、
    『楚辞』招魂、など

  • また、天に十の太陽があり、そのいくつかが一度に出たと記す文献
   →『太平御覧』引『汲蒙周書』允甲の時、『竹書紀年』胤甲の時、
    『淮南子』兵略訓「武王紂を伐つの時」

  • 『竹書紀年』にはこの他に、
「帝癸の二十九年、三日並び出づ」
「帝辛の四十八年、則ち二日並びに出づる有り」等の記事がある。


  • インドでは、太陽神の旗竿の上に、三足の烏(Garuda)がいるという伝説がある。
 古代の太陽神には、「三歩(Trivicrama)」の別名もあり、
 その意味は、日出、日中、日没の三つの時間であるという。
 またインドには複日の思想もある。Albiruniにあるバラモンの伝説に、
 十二の太陽を送って大地を焦し、世界を滅ぼしたというのがある。
 仏教徒にも同様の説話があり、Meru山のそばに四つの世界があったが、
 七つの太陽を送ってそれを破壊したという。



   太陽を射るモチーフ

   太陽神ヘリオスに強く照りつけられたため、ヘラクレスが神に向かって弓を引き絞ると、
   神は彼の剛気に感嘆して黄金の盃を与え、ヘラクレスはこれに乗ってオケアノスを渡ったという。








      参考文献

『木馬と石牛』金関丈夫
『ギリシア神話』アポロドーロス
『歴史(中)』ヘロドトス

最終更新:2015年10月12日 19:37