空海

  • 『弘法大師行状絵詞』(康応元年(1389年)成立、東寺所蔵)では、空海の伝説として以下のように語る。
「幼少のころから普通の子供のように走り回って遊ぶことをせず、土で仏像を作り礼拝していた、また虚空蔵菩薩求聞持法を修するにあたっては菩薩が感応し、明星の光が口に入った、唐にて他界していたはずの師匠恵果が出現して戒律を授け、帰朝後南都六宗との論争時に大日如来が空海に乗じて出現した」など。

  • 弘法大師には他に、入定説話もある。
 五十六億六千万年後の弥勒菩薩下生まで、高野山奥の院大師廟にて死なずに存命しているという説話。髪が伸びながら顔色は変わらず、また衣も汚れていないという。
 空海の死後五十七年後の成立である『御遺告』にあり、そこから前述の『弘法大師行状絵詞』に載り、『本朝神仙伝』『今昔物語集』などにも載った。
 この説話を元に、空海に従い自らも入定する即身仏の風習を生んだ。
 そのため、こうした即身仏になる行者には、空海と同じ六十二歳で入定することが厳しく求められたという。

  • 空海の伝記『真言砿石集』によれば、高野山奥の院にて、空海の命日である三月二十一日に毎年その衣を取り換える秘儀が行われているが、その際、衣には泥が付着しているという。
 これは、空海が密かに廟を抜け出し各地を巡錫している事を示している。

  • 全国に、「弘法清水」「弘法井戸」などの伝説があり、貧しい身なりをした空海が地面を錫杖や杖で突き、水を湧かせたという内容。

  • 他に、貧しい身なりをした空海が芋を所望するが、老婆が「この芋は石ころのように固くて食えない」と嘘を言って断ると、以来本当にその土地でとれる芋が固くなってしまう「芋大師」や、空海が子供らに栗の実を枝をたわめて取ってやって以来、その木の低い枝に栗の実が生るようになった「栗大師」などの逸話がある。


  • また、巡錫伝承の一端として、四国八十八か所の遍路との関わりがある。遍路の着用する及摺(おいずり)や笠には「同行二人」と書かれているが、これは空海と二人で歩くの意味がある。


  • 空海が入唐した際、唐の皇帝が空海を招き、宮殿の壁に揮毫させ、その出来栄えを感賞して「五筆和尚」という号を与えたという。
 また『行歴抄』には、のちに唐に渡った円珍が、現地の恵灌という僧から「五筆和尚は健在か」と問われたという逸話もある。既に世を去ったと答えると、その僧は胸を叩いて悲泣し、「異芸、いまだかつて倫(たぐひ)あらず」と叫んだという。
 後世の伝説であった可能性が高いが、空海の書の巧みさを思わせる逸話。

  • 大和国高市郡久米寺の東塔の下で、『大日経』を発見した。これは、「久米の仙人」が建立した私寺とされる。『今昔物語集』にその話がある。

(司馬遼太郎『空海の風景』参照)


最終更新:2011年08月07日 02:56