一神教の神と数学上の無限

一を無限の上に足しても、少しも無限を増加させない。一ピエを無限の長さに足しても同様である。有限は無限の前では消えうせ、純粋な無となる。われわれの精神も神の前では同様で、われわれの正義も神の正義の前では同様である。
われわれの正義と神の正義とのあいだの不釣合は、一と無限とのあいだの不釣合ほどには、はなはだしくはない。
                                        パスカル『パンセ』


  • 一神教の「全知全能の神」を表現するにあたって、数学上の無限をアナロジーとして引き合いに出す思想の出自とか経緯について漠然と気になったので立項。
   この二つは本来、まるで別のもののはずである。また、数学史における無限論の展開と関わったり錯綜したりしている可能性もある。

  • なお、無限と信仰に関しては、ラプラス『確率の哲学的試論』に以下の愉快な議論がある。
ここで、パスカルの有名な論証がおのずと姿を現してくる。この論証は、イギリス数学者クレイグが数学的な形で再現した。ある証人が、しかじかのことに従うならば一つや二つではなく無限の幸福な生を享受できるであろうということを神自身から教えられたと主張するとしよう。この証言の確率がいかにわずかでも、無限に小さくはない限り、その指令されたことに従う者の利益は無限大であることが明らかである。なぜなら、この利益はその確率と無限の幸福との積となるからである。したがって、人はこの利益を手に入れることを少しもためらうべきではない。
(中略)
この事例は、きわめて多数の数字が入った壺からただ一つの数字が取り出されたとき、最も大きな数字が取り出されたと発表する証人――そしてそう発表することに多大な利益がかかっている証人――の事例に相当する。われわれは、このような利益がかかっているときはその証言の信憑性がいかに弱まるかをすでに見た。
→要するに、証言する証人の利益の大きさによって信憑性が下がり、下がった信憑性を期待値に掛け算する事になるので、
無限を言う証人の証言の信憑性は無限に低く、分母に無限を持つ分数で掛け算をした結果期待値から無限が約分で消えるとラプラスは証明して見せる。
(zsphereコメント:学生時代から、この几帳面に数式で反論する変な生真面目さが大好きなんだよね……w)
最終更新:2017年05月05日 22:51