「奇跡を見たら、私は回心したであろう」と、彼らは言う。彼らは自分で知りもしないことをするなどと、どうして請け合えるのであろうか。彼らはこの回心が、自分かってに考えだした交わりと語らいとしての神への礼拝から生じると想像している。真の回心は、この普遍的な存在、すなわち、われわれがしばしばその怒りを引き起こし、そのためわれわれをいつでも正当に滅ぼしうるものの前に、全くむなしくなり、われわれは彼を離れて何事もなしえないこと、彼の不興をまねくほかに彼から何ものをも受ける資格がないことを認めるところに生じるのである。それは神とわれわれとのあいだに、いかんともしがたい対立があること、仲保者がなければ、神との交わりはありえないことを知るところに生じるのである。
パスカル『パンセ』