後嵯峨天皇

  • 土佐へ流された土御門上皇の皇子、那仁王(くにひとおう)が即位した天皇。
 もともと、急死した四条天皇に子がなかったため、
 順徳上皇の皇子忠成王(ただなりおう)と共に皇位の候補者となったが、
 順徳上皇が承久の乱の際、討幕に積極的だったため、幕府の反対が入り那仁王の即位となった。
 →土御門天皇順徳天皇

 後嵯峨が後任の「治天の君(=政治の実権を握る上皇)」の選定を幕府に一任したことから
 後深草系の持明院統、亀山系の大覚寺統の対立が生み出された。

(『要説日本歴史』)



最終更新:2011年08月08日 11:22