足利義満

 易姓革命の思想に共鳴していた、ともいう。

  • 天皇に対して実質的な王権の簒奪を画策、
 将軍職を足利義持に譲渡、太政大臣を辞し、
 1395年(応永二年)出家して律令官位の軌範から抜け出すと、後円融上皇の没後、
 上皇の権限を後小松天皇に渡さず、自ら継承しようとした。

  • その一環として、毎月七日七夜の顕密祈祷と陰陽道祭をそれぞれ
 北山第と土御門家に定例化、国家の祭祀権を天皇から室町殿に移す事に成功した。

  • 1402年(応永九年)、明の建文帝より「日本国王」に冊封される。
 義満は翌年の明帝あての表文でみずから「臣」と称している。

  • 没後、朝廷は太上天皇の尊号を追贈するが、足利義持
 幕府宿老の斯波義将はこれを返上。義満による皇位簒奪の意図を否定する姿勢を貫いた。
 以降、義満の専制路線の反動から、合議制が重んじられるようになる。

(『要説日本歴史』)


最終更新:2011年08月08日 11:25