白山比咩神社

  • 延喜式式内社。加賀一宮。

  • 平安末期から鎌倉期にかけての時期には、
   宝殿(本殿)、拝殿、被岸所、政所、大倉、傍宮倉と、
   摂社として荒御前(本地毘沙門)、糟神、滝宮(本地不動)、禅師宮(本地地蔵)の
   各本殿、拝殿、祓殿(禅師社のみ祓殿なし)、
   白山寺の主要堂宇で御内八堂(みうちはっとう)とよばれる講堂、剣講堂、
   西堂、東堂、十一面堂(法華常行堂)、新十一面(五堂)、
   馬頭堂、新三昧堂、さらに付属施設として鐘楼、武徳伝、五重塔、
   四足門、廻廊、沙汰所、山王宝殿、談義所、曼陀羅堂などが建ち並んでいたという。

  • 白山本宮は33年ごとに造営を行う慣例だった
   (諸国一宮は、造営の費用を国内から徴収できるため、中世を通して徴収が行われていた)。

   倶利伽羅峠の戦いにおいて、合戦の祈祷に白山へ願書を奉り、その結果神助があった旨の記述がある。

  • 1235年(嘉禎元年)11月、白山造営において在地でトラブルが起こる。
   白山宮造営料米を加賀の知行国司、平経高が賦課したが、
   石川郡大野荘(金沢市域)の地頭代と荘官が進納を出し渋った。
   このため白山の神人らが翌年の三月二日、白山三社(本宮、金剣宮、岩本宮)の
   神輿をかついで押しかけ、地頭代の私宅に振り捨てるなどしたという。

   造営料負担の忌避の動きが国内に起き始めたことに対し、
   白山三社の結束を強め勢力を誇示するためとみられるという。

  • 1239年(延応元年)八月十七日、白山本宮の神殿以下二十一宇が焼失。
   火元は神主の宮保氏盛(みやぼうじもり)の宮倉。
   また火事騒ぎの間に、氏盛の妻が屋敷の西側を流れる手取川に転落し、
   死亡するという事件も起こっている。

   参考文献

『県史17 石川県の歴史』
『平家物語(七)』


最終更新:2014年09月01日 04:51