豊姫1



新ろだ204


 聞こえるのは、ただ波の音。
 月の表側、静かの海。
 かつて地上人達が残した穢れが水底に沈み、生命の存在しない殺風景な土地。
 滅多な事が無い限り月人が寄り付かず、兎達もいないこの場所は集中して思考を回すには最適な場所である。
 また、雰囲気に浸りたい時、どうしても一人になりたい時の個人的なお薦めスポットでもある。
 そして、今回も煮詰めたい事があって此処にきたのだが。

「何をしているのですか、豊姫様」
「そうね、強いて言えば何もしてないをしているのかしら」
「ようは暇なんですね、分かります。あと離れて下さい」

 既に先着の豊姫がいて、俺の姿を見るなりすぐさま駆け寄ってきた。
 何故かそのまま俺の傍らに寄り添い、自然な動作で腕を絡めてくる。
 周囲の目が無いからまだマシなものの、相手の立場と自分の立場を比べるとこの状況は非常によろしくない。主に俺の心臓に。

「誰も見ていないわよ?」
「関係ありません。というか、そういう問題ではないのです」
「どういう問題よ」
「立場の問題です」
「むぅ」
「唸っても駄目です」
「えー」
「ならぬと言ったらならぬのです」
「……妹だったら喜ぶのに?」
「――」

 まったく予想していなかった一言が。
 ドキリと心臓が大きく一つ跳ね、喉元が縮む。
 言葉に詰まり、頬に血が集まっていくのが分かる。

「あら図星」

 乱れそうになる呼吸を整え、小さく息を吐く。
 上司の手前、これ以上みっともない姿を晒してはならない。

「……どうして知っているのですか」
「知らぬは本人ばかりなり、というのかしら?」
「まぢですか」
「まぢ、よ。少なくとも兎達の間では今一番人気のある話題ね」
「はぁ……」

 少しも気付かなかった、まさか自分がそんな目で見られていたとは。
 どうりで最近、兎達や門番組の見る目がおかしいわけだ。
 そんな俺の悩みを余所に、豊姫は服の中から桃を一つ取り出すと、大きく一口頬張った。 
 周囲に果汁の甘い匂いが漂い、鼻孔をくすぐる。

「桃だってね、美味しそうだからって熟れないうちに飛び付くのは良くないけれど」
「そりゃそうですが」
「あんまり躊躇っていると、食べ頃を逃しちゃうわ」
「同じに扱っていいものですかね」
「だってあなた、凄く焦れったいんだもの」

 それにね、と豊姫は桃にもう一口かじり付き咀嚼して、

「煮え切らないのは、選ばれなかった方からすると苛々するの」
「え?」

 瞳を閉じて、近づいてくる豊姫の顔。
 頬に弾みのある柔らかいものが押し付ける感触と。
 桃蜜の匂いをより一層強く感じて。


「――私が言いたいのはそれだけ。後は全てあの子とあなた次第」


 放心の中、亜麻色の髪を揺らしながら去っていく後ろ姿を見送る。
 未だに湿り気の残る頬に、冷たい風がよく染みた。



Megalith 2012/02/14


「ねえ、○○」
「ん」

 頼まれた屋敷の掃除も一段落付いたところで茶をしばいていた俺は、同じように仕事をサボ――休憩していた彼女に呼ばれた。
 何かマズった事でもしたのだろうか。思い当たる箇所が多いので考えない事にした俺は、必要最低限の返事をした。

「相変わらず無愛想ね」
「年頃の男が愛想振る巻いている姿を見るのもまた空しいものだと思うが」
「そうかしら?」
「媚を売っているというか、相手に好まれようとする魂胆が見えてしまうような気がして、な」

 まるでアラサーを軽く超えてしまって女としての期限ギリギリになって焦りながら婚活に励みまくる独身女性の如く。

「じゃああなたは誰かに好かれようと思わないの?」
「考えた事がなかった」
「変な人ね」

 彼女――綿月豊姫は妙な疑問を投げかけてくる。その疑問を咀嚼し、理解しても尚考えてみたが、答えは出なかった。
 本心では分かっているのだろう。ただそれを認めた所で何かが変わるとは到底思えないから、想われようと考え行動する事の概念がない。
 それもこれもこの地――月面ならではの概念があるから。その概念に阻まれるしかない現実に屈する事を強いられているから。

 高貴な月人様が下賤な地上人なんぞを好きになるはずがないでしょうという皮肉もあった。

「何か用事があったんじゃないのか?」
「ええ、そうね。危うく忘れてしまうところだったわ」

 何をしてるんだと突っ込みたくなるが、話が脱線するのも嫌だったので黙って彼女が本題に入るのを促す。
 周囲からはお互いに何を考えているのか分からないとはよく言われるが、一応これでも自分なりの考えの果てにある結論があってそういう行動をしている。
 それをこの住んでいる天体すら違う月人に、地上人である俺の考えを理解してもらえると到底思えなかった。

「噂で聞いたんだけど、あなたのいた場所では今度相手にお菓子を渡す催し事があると聞いたのよ」

 一瞬だけ何を言っているのか分からなかった。何せそんなイベントがあったっけと本気で忘れる程、この手のイベントには縁遠い。
 だが思い出してしまえば何て事はない。お菓子どころかもっと限定した甘味であるし、渡す物も決まっている業者に踊らされたイベントの事だ。

「多分、バレンタインの事を言っているんだろう」
「名前は分からないわよ。あの子達がそんな催し事があるってしか聞いてないのだから」
「そりゃそうだな。答えはある。バレンタインと言って、かいつまんで話すと女性が男性にチョコレートを渡すイベントだ」
「女性が?」

 微妙な箇所に食いついて疑問を投げかけた彼女にそうだと答え、もう少し詳しく説明する。
 主に義理と本命とで分かれていて、義理は日頃お世話になっている男性に感謝の意を込めて渡すもの。
 対して本命はその名の通り、恋愛感情の意味で好意を持っている男性に対して渡すもの。
 一般的には手作りとされている、男性からすれば貰えればこれほど嬉しいものは無いもの。

 今まで義理すら貰った事無ぇけど。

「地上も変な事をするのね」
「極端な話を言うと、チョコレートじゃなくてもいいんだ。ただ、販売業者の戦略によってそうなってしまったイベントなんだ」

 あえて非現実的な理由を入れるとすれば、アレが一番的確なんだろう。
 他の甘味にはなくて、チョコレートでなければならない理由であり、しかもこういった恋愛に関係している理由と言えば、一つしかない。

 媚薬。この月の住人には効きそうにないけど。

「よく考えたわね。告白する勇気がなくても、言わずして気持ちを伝える事が出来るのだから」
「で、豊の事だからお菓子が食べられるイベントだと思って女性は貰えない事に今落胆している。違うか?」
「はい正解」

 言わなくても何となく分かった。一見すると分からないが、俺には何となくしょんぼりしていると分かった。
 この食い意地の張ったお姫様は桃だけでは飽き足らず、この月にはない食べ物の習慣を作り合法的に食べようとしている。
 そもそもチョコもカカオも無いこの月の都でどうやって作るのだろうか? 仮に材料があっても作り方は分かるのか?
 その疑問は一ヶ月後に解決する。

「もう少し一般的なバレンタインについて説明すると、二月十四日に渡すのが一般的とされ、男女揃ってその日は挙動不審になる日だ」
「ふんふん」
「で、貰った男性は貰うだけでは無く、ちゃんと一ヶ月後の三月十四日にお返しを渡さなくちゃならない」
「そうなの?」
「三倍返しという悪夢を」

 昨今の若い女性の中には高く見せかけたチョコレートを渡してブランド物のバッグとかを平然と要求してくるのもいる。
 その面の皮の厚さたるや鬼の如し。
 知り合いでも数千円程度のチョコを貰ったら十万近くの春物のコートを要求されたと嘆いていた。
 とりあえずその知り合いは殴っておいた。壁殴り代行では済まされない。絶対に許されない。倍数の分だけ殴っておいた。
 周囲から感謝された。

「一般的にはマシュマロとかそういったお菓子なんだけどなぁ。渡した事無いけど」
「無いの?」
「無ぇよ」

 そこに食いつかれると泣きたくなる。あまり人受けしない性格だからそんな事は自覚していても、指摘されるとやはり辛いものには変わりない。
 思わず地上にいた時の事を思い出す。
 貰えない事の疎外感。
 同盟を組んでいた仲間がちゃっかり貰っていた事の痛烈な裏切り。
 辺りをひしめくバの付くカップルの数々。
 その一週間前から何気なくチョコレートを買おうとしたら可哀想なものを見るような目をするコンビニの店員。
 家に帰ると親から聞かれる「何個貰った?」という敗者を嘲笑う為の残酷な質問。
 思わずやさぐれたくなって、持っていた湯飲みの茶を飲み干した。

「おかわり、いる?」
「ああ、ありがとう」

 そう言って豊姫は急須からお茶を煎れ、湯飲みに入れてくれた。
 よく休憩時間中に屋敷の中で休憩している俺にとって、サボり魔の彼女は茶飲み仲間だ。
 具体的には平時では特にやるべき事が多くないからそう見えるだけなのだが。
 今までのバレンタインの話から、どうしても義理でもいいから貰えるのではと期待するのは仕方ない。
 けれどそうやって地上にいた時は貰えると思っていたら義理すら貰えなかったので過度な期待はもうしない。
 したら負けだ。初めから諦めていれば後に来るダメージは極力少ないという経験則が俺には備わっている。

「で、そもそも作れるのか?」
「うん、何とかチョコレートは作れそうね」

 どういう思考回路でそういう結論に至ったのかは全くもって分からないが、豊姫は何か納得した様子でそう答える。
 材料は? 作り方は? 色々と疑問はある。

「そうか」
「出来たら依姫やレイセン達にも分けてあげなくちゃ」

 この時気づいてなかった、あの惨劇が起きる事を。

「だが豊、依もそうだが義理なり本命なり、渡す相手はいるのか?」
「あっ、失礼ね。私にだって渡す相手がいますよ」

 豊姫はぷぅ、と頬を膨らませて俺の軽口に抗議する。思わず頬を指で突いて空気を抜いてみたくなった。
 けれども男性の影は殆ど見られない姉妹で、かろうじて関わりがあるのなんて自分やよく飲み会をする門番達くらいだ。
 本命チョコなんて渡す相手は思い当たらない。こちらは目の前の女性から本命を貰いたくて仕方ないのだが、それは適わぬ夢だろう。
 そんな事は初めから分かりきっていた。
 何故か飲んでいる最中で昆布茶が塩昆布茶になっていた。



 地上の暦で考えればバレンタイン当日。
 今日の仕事は依姫に着いて行って玉兎の訓練を第三者の視点から見て、依姫に意見をするという貴重な役割だった。
 端から見ても依姫は客観的に物事を捉えるのはあまり得意ではない。
 極論を言えば、ワンマンアーミーは得意だが指揮官としては優しすぎる。以前侵略者が来た時も、依姫一人で片付けた事もあったそうだ。
 だから誰かの意見、それもどんな相手でも思った事を平然と言ってのける人物の意見が欲しいそうだ。
 ぶっちゃけると女の子達の、という事を考慮してもお遊戯にしか見えないのだが、実技をサポートできない俺にそこまで厳しい意見は言えない。

「……が、何で玉兎達は殆どいないんだ?」
「わ、私に言われても。何があったの?」

 訓練場所に着いたが、たった一人レイセンだけしかいない。
 彼女はいつもなら十人近い玉兎達と訓練しているはずなのに、今日に限ってはポツンと一人寂しく立ち尽くしていた。

「え、えっと、それが、どうやらみんな倒れちゃって」
「倒れた?」

 何かウサ耳から出ている電波的な物を使った通信で状況を掴んだレイセンが不安そうに答える。

「症状は?」
「昨日の夜から皆けいれんしたり、動悸が激しくなったり、突然興奮したり、突然吐いちゃったりで、みんな今寝ているみたいです」
「何か地上の穢れでも蔓延したのかしら?」

 症状が皆同じようなものであるから、おそらくは全員食中毒とかそういう系統なのだろう。
 となると、唯一気になるのが……。

「レイセンだけやってなくて、倒れた玉兎達全員がした事に覚えは?」
「あ、はい。あります」
「何があったの?」
「昨日依姫様もいましたよ?」
「私も?」

 昨日と言われても寂しく一日の暇を潰していた自分には見当が付かない。

「みんな何度か味見をしたじゃないですか。でも私、今歯を痛めてしまってて……」

 熟考。やがて結論。



「チョコレート中毒じゃねぇか!!」



 俺の叫びは周囲を竜巻の如く駆け抜けた。
 一般論だが兎にはチョコレートを与えてはならない。
 カカオに含まれるテオブロミンと呼ばれる成分は人間が摂取しても大丈夫だが、代謝が遅い動物に与えると危ないからだ。
 更に言えば、他に起きる症状としては、下痢・震え・昏睡・多尿などが挙げられる。

「そのチョコレート中毒でしたっけ? 大丈夫なのですか?」
「摂取量によっては危ない。代謝をすれば大丈夫だろうが、そもそも玉兎にも中毒があると考えても……」

 純粋な兎と玉兎では体の大きさが違う。だから当然両者が食べて中毒になる量は天と地の差があるはずだ。
 ――では、何故。

「結論から言うと、つまみ食いしすぎて当たったんだろう」
「何ですかそれは……確かに結構味わっていましたけど」
「普通の兎と比べ多少チョコに強かったとしても、量によっては危ない。確信は無いが、そう考えるのが一番しっくりくるな」

 それまで食べる人は少ないだろうが、カカオ99%のチョコレートを多量に摂取すると危ない。
 そんなに苦い物を好んで頼む人もそうそういないし、いわゆる醤油の一升瓶一気飲みと同じようなものだ。
 人間と動物との大きな違いは代謝の違いだ。しかし玉兎が兎と同等の代謝であることに驚きを隠せなかった。
 そう理解した上で考える。兎でも少量ならば獣医に連れて行って診察すれば大丈夫なパターンが多い。
 今回は月の医者に頼んでも難しいだろう。いわば外からやって来た物による不調だ。そう簡単に治療出来そうにない。

 ――が。

「要するに、あの子達は地上の穢れを溜めたのね」
「体内に溜まる物と考えればそうなる」
「少し前にも穢れを持ち込んで月にばらまいた巫女がいましたが、あれと似ている状況でしょう」
「えらく物騒な巫女さんだなぁおい」

 そんな禍々しい巫女さんがいてたまるか。さぞや邪神でも崇拝しているカルト系の巫女なのだろう。
 詳しい事は知らんが、例えるなら宇宙コロニーで毒ガスを散布するような鬼畜の如き所業だ。
 持論だが巫女さんには清楚という言葉が不可欠だと思う。そういう意味ではその話に出ていた巫女という名の何かは清楚の欠片も無い巫女なのだろう。

「ですが、あの時とは違って今回は物理的な穢れです」
「出来ないのか?」
「意思も云われもない物に対して出来ない道理はありません」

 そう言って依姫は玉兎達が休んでいる部屋に一人向かう。想像は付いているが、俺も何となくその後を行く。

「今、玉兎達は地上の毒によって穢されているのです」
「少量なら問題はないんだがなぁ」
「致死量という言葉をあなたも知っているでしょう? 過度に摂取すればどのような薬でも毒に成り得るのです」
「じゃあどうすれば?」
「毒――穢れを祓うのであれば、適任がいますから」
「依にはそれが出来るのか?」
「当然でしょう。私を誰だと思っているのです?」

 さも当然のように、少しだけ得意気に依姫は頷く。

「伊豆能売よ。この者達の穢れを祓え!」

 便利な世の中になったものだと、巫女さんの姿をした禊ぎの神を降ろした彼女を見ながらぼんやりと考える。
 いや、ある意味コンピューターを駆使して生活している地上の人間と、方向性の違いはあれど根本的には同じなのだろう。
 そうそう、巫女さんとはこういう感じなのが一般的なのだと、現れた伊豆能売を見て実感する。巫女服らしい巫女服を一切着ない依姫とは大違いだ。
 いや、いっその事依姫だけでなく豊姫も揃って巫女服を着てくれたらどれだけ喜ばしい事だろう。
 美人姉妹が巫女さんをして、そこにひょんな事から若い男が一つ屋根の下で暮らすことになったなんて。

 sneg?

「ま、現実はそうそう甘くないんだけどな」
「何か言いましたか?」
「いや、何でもない」

 チラッと聞いた噂だと神を降ろす事が出来るのは依姫だけにしか出来ない。
 姉妹でありながら豊姫にはその才能に恵まれなかったとの事だが、そこを追求するのは野暮だろう。
 誰だって地雷原でカーニバルなどしたくない。そんな事したらカニバリズムに大変身だ。

「これで穢れは祓われたでしょう――が」
「が?」
「だからと言ってすぐに体調が戻るという事ではありません。彼女達は今日一日大人しくしてもらうのと、あなたは全員の出来る範囲の看病してもらいます」
「元はと言えば懸念してなかった俺の責任だからな」

 まさか中毒になるとは。言葉ではそれで足りるかも知れないが、実際に被害が出た以上見落としてたでは済まされない。
 チョコレートの事を話に出して広めたからには相応の責任がある。
 気持ち程度に顔色の良くなった玉兎達を見やり、自分の軽い行動の重さを知った。

「とは言え」
「ん?」

 十近い人数を一人でやるのはプロでもない限り難しいし、何よりも女性を男性で看病するにはお互いに抵抗があった。
 症状の一つが多尿だし。
 その事は依姫も理解しているのか、こちらを見て咳払いをする。

「あなただけに任せたら治るものも治らないですから、私とレイセンも手伝います」
「あ、分かりました」
「豊は?」
「お姉様なら今日は夜まで用事があって手が離せないと言ってました。仕方ありませんが、三人で皆の体調が落ち着くまで看病しましょう」

 豊姫の用事に心当たりはないが、無い物ねだりをしても仕方なかった。
 多少気にかかるが、それよりもやるべき事をやって、それから考えることにした。



「そういや皆昨日何してたんだ?」
「と言いますと?」

 しばらくして看病も落ち着いた所で雑談をする余裕が出てきて、ふとした疑問を投げかけてみる。
 と言うのも、昨日俺は朝起きるなり突然豊姫に「迎えが来るまで屋敷に戻ってこない事」と宣告されて放り出された。
 しかも放り出され方が月面の結界内の適当な場所に繋げられるという恐ろしい手段だ。
 仕方なく繋げられた都を散策し終えると、いつものように静かの海を見て時間が経つのを待っていた。
 今回の症状と日付を考えると、おおよそ想像は付いているが。

「あ、それでしたら……」
「レイセン」
「まだダメですか? 多分想像が付いてそうですけど」
「くっ……」

 答えようとしたレイセンを依姫が制する。けれどもそこを反論され、言葉が詰まってしまう。
 ちらりと依姫が安静にしている玉兎達を見やる。
 その様子で俺だって予め想像していたとは言え、確信に導けた。

「はぁ、私も虫歯じゃなければ渡せたんですけど」
「虫歯は祓えないのか?」
「お菓子の食べすぎで出来たものですから、きちんと治療してもらいます」
「はぅ……」

 自業自得だったそうだ。見るからにガッカリしたようにレイセンの耳がしおれ、残念そうにしていた。

「だがレイセン、言いたくなければ言わなくていいが、そもそもあげる相手はいたのか?」

 あまり個人のプライバシーに突っ込みたくないが、彼女の様子から察するにいたと見て間違いないだろう。
 本命か義理かは置いといて。
 しかしその質問に返ってきたのは。

「……はぁ」

 揃って呆れ果てた表情と、少ししてからの二人息の合った溜息だけ。

「あなたはあなた自身にあげる人に心当たりは無いのですか?」
「生憎今まで貰った事が無い」
「あれ? そうなんですか?」
「豊から話は聞いてないのか? 自慢は一切出来ないしむしろ汚点なんだが、事実だけ述べると貰った事が無い」
「えー……」
「にわかに信じられませんが……」

 二人から信じられないような顔をされる。
 貰って当然と思われたのだろうか? だとしたら相当人を見る目は無いと思う。

「私が今年作れたら絶対に日頃お世話になってますから渡してましたよ。義理ですけど」
「そりゃありがたいなレイセン、気持ちだけ受け取っておく」

 グサリと義理という言葉が心にブロー。
 けれどそれを僅かにでも出してしまっては負けだ。

「依姫様は昨日豊姫様や他の皆と頑張って作ってましたよね?」
「ち、ちょっとレイセン!?」

 ご丁寧に門番の連中も屋敷に近づけさせなかった徹底ぶりから何となくは想像していた。
 それに本人達は気づいてなかったようだが、屋敷に戻った時に桃とは別の甘ったるい匂いがしたのだ。

「……あー」

 これでチョコについて何か言及すると催促するように見える。
 かと言って一切話を振らないのもまた気を使っている様な気がして、中途半端に会話の切り出し口を失った。
 結局それから屋敷に戻るまでの間、依姫と俺は言葉を封じられたままの不自然な空気に包まれていた。



「あ、お帰りなさい」
「ただ今戻りました」
「戻りましたー」
「ん……?」

 帰った俺達は豊姫の歓迎に迎えられていた。
 しかし依姫も知らない豊姫の用事とは何だったのだろうか? サボるだけの口実だけとは到底思えない。
 代わりに昨日と同じく甘い匂いがしたのが気にかかった。

「どうし……いいえ、なんでもないわ」

 勘の鋭い豊姫は俺を含めた三人の微妙な空気を察し、しかも理解したのか追求しなかった。
 正直助かった。今のギクシャクした状況で何か言われたらまず間違いなく依姫の逆鱗に触れるのは当事者には想像出来る事だ。

「あ、そうそう。はい、日頃の感謝という事でチョコレートよ」

 多分豊姫なら森を素粒子にする扇子を持ちながら地雷原で華麗な舞を踊っても無傷でいられるだろう。
 お姉ちゃんパワー半端じゃねぇ。

「感謝?」
「そう、感謝」

 暗に義理と断言されると、こちらとしては一番辛い。
 他でもなく一番本命を貰いたかった女性から真っ先に義理を貰うと、例え他の女性から本命を貰おうとどうでも良くなる。

「依姫は渡さないの?」
「わ、私は……」
「昨日あれだけ張り切ってたじゃない」

 バツが悪そうに依姫が困った顔をしていた。
 どうやら義理とは言え指摘されるも女性は恥ずかしいらしい。

「い、言っておきますが、日頃私の手伝いとかしてもらってますからね。義理ですから、そこは勘違いなさらないように」
「ん」

 やがて豊姫の無言の追求に負けた依姫は、一旦自室に入ると綺麗にラッピングされた箱を渡してくれた。
 ご丁寧に豊姫と色違いのそれは、姉妹の仲の良さを如実に表していた。

「二人共、ありがとうな」
「あの……」
「レイセンも作れなかったけど渡そうとしてくれた気持ちだけはありがたく受け取っておく」
「……はい!」

 何故そこまで嬉しそうに返事をするのか皆目見当がつかないが、まぁ本人が嬉しいのならそれでよしとしよう。



「はぁ……」

 夜も更けてそろそろ日が変わろうとしていた頃、自室で一人溜息を付いていた。
 原因など解り切っている。一番欲しかった女性――豊姫から本命を貰えなかった事だ。
 要するに男性として見られてないと宣告されているに等しかったので、溜め息の質量も無駄に増えていた。
 彼女が好きであると自覚している。
 他でもなくこの月にひょんなことからやって来た時、自分を拾ってくれたのは彼女だ。
 後になって聞いてみると、俺は意識を失った状態で静かの海の海岸に倒れていたらしい。
 何故倒れていたのか、どうやってこの月にやってきたのか、肝心なところは覚えてないが、事実としてここにいる。

 正直どうやってこの月にやって来たのかは俺自身どうだって良かった。

 そんな状態で彼女に助けられたのであれば、好意を抱かないはずがなかった。
 本来なら問答無用で地上に送り返すなり何らかの措置をしていたと聞いている。
 しかし豊姫はその考えを覆して自分が意識を取り戻すまでの間付きっきりで看病してくれたそうだ。
 何故そこまでしてくれたのか、そう尋ねると曖昧に答えてはぐらかされていた。
 普通に考えれば意識が無い内に地上に帰せばここの事を言及される可能性も無かったというのに。
 どうあれ、それから彼女の人となりを知って、適わぬ想いを抱いた。
 地上の人間と月の民。その事実は俺に重くのしかかっていた。

「はぁ……」

 聞けば欝になりそうな溜め息をもう一度吐き出す。
 身体もどうにかなってから一度だけ、地上に帰るか月に残るか選択を迫られた事がある。
 その時は既に彼女への気持ちを自覚していたから、もちろん残ることにした。
 その後「もし帰りたくなったらいつでも私に言いなさい」と言われ、それからずっと言ってない。
 言うか言わないか。
 何もかも忘れ、ここで起きたことに口を閉ざし、普通に生きていればいいかも知れないと考える一方で。

「多分、忘れろったって無理だよな」

 気持ちに嘘は付けない。自覚しているなら尚更だ。
 そもそも恋心を抱くこと自体間違っていると考える冷静な自分もいる。
 人種も、倫理も、価値観も、寿命も大きく違う。こちらが歳を取り老衰で死ぬことがあったとしても、彼女は――この月の住人たちは何ら変わりない姿だろう。
 その違いをどう埋めるかも考えてないのに、気持ちを抱いて良かったのだろうか?

 ――答えは出なかった。



「……寝るか」

 依姫から貰ったやけに凝った包装の手作り義理チョコを食べ終えた辺りで、ふと呟く。
 手作りなのは既製品が無いからだし、凝った包装なのは依姫も女の子だからだろう。
 まだ、豊姫からのは食べてない。最低でも今日という日付の間は口に運ぶ気にはなれなかった。
 ぼんやりとした頭で備え付けられたベッドに向かう。

 が、それも控えめにコンコンと叩かれた扉の音で止めざるを得なかった。

「誰だ?」

 扉越しにいるであろうノックの主からの返事はない。
 少し待っても反応がなかったので、仕方なくこちらから扉を開けてみる。

「ん?」

 開ける直前まであった人の気配は無くなり、部屋の周囲には誰一人としていなかった。
 勘違いだろうか。そう考えるが確かに人の気配がした。それは間違いない。
 ではどこへ行った? 少し考えた所で、扉を閉めながらこんな悪戯をする心当たりのある人物の名前を呼んでみた。

「何してるんだ? 豊」
「気づくのが早いのね」

 案の定入り口に立っていた俺の背後に豊姫がいた。またしてもどこか甘い匂いがした。
 扉を開ける直前で勝手に人の部屋の中と繋げたのだろう。彼女がその気になればプライバシーも何もあったものじゃない。

「あんまり褒められたものじゃないが何してる」
「ちゃんとノックしたわよ。それに扉を開けるってことは招き入れる準備が出来ているということじゃない?」
「そうだな」

 今一番会いたくない人が目の前にいる。会えばそれだけで考えてしまうから。
 けれども豊姫はそんな事もどこ吹く風。普段通り自由気ままに俺に接してくれている。

「どうしたんだ一体」
「理由が無かったらあなたの部屋に来ちゃ駄目かしら?」
「いや、駄目じゃない」

 つくづく俺はお人好しの甘ちゃんだと実感する。
 俺が勘違いしたらどうなんだ。聡いがそういう邪念とは無縁の彼女に、そう尋ねる事は出来ない。

「理由はあるわよ、ちゃんと」
「それは何だ?」
「はい、これ」

 そう言って俺に渡してきたのは、さっき貰ったはずのチョコの箱と同じくらいのサイズの箱。
 受け取っておいて何だが、心当たりが全くなかったので思わず首をかしげる。

「チョコならさっき貰ったはずなんだが」
「開けてみれば分かるわよ」

 そう促され、丁寧に包装を解いて蓋を開けてみる。



 やっぱり中身はチョコレートだった。



「何このデジャヴ」
「既視感じゃないわよ。二つ目を渡すのだから」
「ちょっと理解をさせてくれ。会話のハンマー投げはお互いに怪我をする」
「ダメよ」

 思いがけない返事に鳩が荷電粒子砲を食らったとした思えない顔に変わり果てた。
 こちらに考えるなと申したか。誰でもいい。俺に理解力を譲渡してくれ。
 それこそ戦後よくある光景だったギブミーチョコレートのように。

「それじゃあまた明日ね」
「あ、ちょ、おい!」

 こちらの制止も効果が無く、豊姫はやはりどこかと繋げて俺の部屋から抜け出ていった。おそらくは自分の部屋だろう。

「たく、一体何なん……ん?」

 唖然とした俺はどうしようかと考え箱の中に視線を落とすと、一般的なハート型のチョコレートの他にもう一つ何かあった事に気づく。
 それはシンプルに折りたたまれた一通の手紙だった。



『一ヶ月後にお返事待ってます』



 俺はそれを見て、ここ数日の疑問が殆ど――チョコレートの材料や作り方以外の謎は――解けていた。


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最終更新:2012年03月08日 00:36