夢月2
新ろだ2-040
水温む、三月上旬。
午前六時。
少し春めいてきたとはいえ、この時期のこの時間は、館全体にまだ薄らと闇が落ちている。
朝食を作るため、いつものように厨房にやってきた夢月を迎えたのは、暗がりに浮かんだ小さな明かり。
加えて何だか甘い香り。そして何より、思わぬ先客の姿だった。
「……何してるの、こんな朝から」
声をかけると、弾かれたように顔を上げて後ろを振り返る。
それは、悪魔や妖怪ばかりが住まう夢幻館に異質な、人間の……それも男のもの。
名を○○と言い、最近になってこの館に住み着いた、新しい居候である。
「あ――――夢月さん。おはようございます」
「おはよう。で、何してるの」
望んだ答えが返ってこなかったため、夢月はカツカツと、○○の横へ歩み寄る。
そして、○○の後ろに隠れるように広がっているものを見て、ひとつの答えを導き出した。
「………クッキー?」
「ありゃ………見つかっちゃいましたね」
○○の、ばつの悪そうな声。
机の上には、おそらく焼き立てであろうクッキーが、こんがりと焼き色をつけて並べられていた。
量はそれほど多くなく、精々がひとりきりのティータイムの友を務められる程度のもの。
形は円で統一されている。時折そうでないものが見えるのは、意図したものではなく、制作途中で崩れてしまったと考えるのがきっと正しいのだろう。
ついでに眼に入るのが、脇に置かれている手本の雑誌。
そこに貼られたイメージ写真とは随分かけ離れている気がしないでもなかったが、幸いにも夢月の関心はそのことには向かなかった。
「へえ。珍しいこともあるものね」
そう。料理の心得がなく、皿洗いくらいしか任せられなかった○○が、自ら進んで何かを作ったのである。
そのことは、普段どこか冷めた印象を与える夢月をもってしてでも、充分に興味の対象となり得るものだった。
「本当は、こっそり片付けまで終わらせたかったんですけどね……」
「私の朝が早いのは知っているでしょう」
「一度作り始めると、途中で終われなかったもので」
初めてならそんなものか、と思いつつ、夢月はクッキーを眺める。
やはり菓子といえども料理だ。味の方も、気にはなる。
「それで、出来栄えはどうなのかしら」
「え?夢月さん――――」
言うや、夢月は手近なひとつを摘むと、サッと口の中へそれを放り込んだ。
――――○○が、止める暇もない間もない出来事だった。
「…………○○、」
途端、夢月の顔が僅かに顰められる。
不機嫌とまではいかないが、何か宜しくないことがあった時に浮かぶその表情は、○○もよく知っているものだ。
「小腹が空いたのなら、今度から私に声を掛けなさい。努力は嬉しいけれど、無理しなくても良いわ」
そう言い残すと、足早に立ち去ってしまう。
その先が流しの方向であると知っている○○に取って、夢月の反応は言葉以上に明確だった。
後に残った○○は、呆然としたまま、ただその背中を眺めていた。
* * *
風見幽香の本拠は夢幻館である。
しかし花の妖怪としての本分を果たすため、幻想郷の太陽の畑と呼ばれる場所にも小さな家を構えており、基本的にはそちらにいることの方が多い。
そして、基本的に朝は遅い。
何事もなければ、日が高くなり始めるころまではまどろみの中にいるのが、彼女の日常である。
何事もなければ。
そう。例えば、突然の来客とか。
「………話はわかったけど。それで、どうして私の所へ来るのよ」
「すみません。頼れる相手がいないもので」
寝間着姿から着替えを済ませ、リビングに現れた幽香の機嫌は大層斜めであった。
それもそのはず。眼の前に座る○○―――こいつさえ現れなければ、あと一時の間は温かいベッドに夢心地で入っていられたのだから。
非難を込めて、幻想郷有数の妖怪が来訪者を睨む。
だが○○は、それ以上に危機迫った顔をして、幽香に頭を下げている。
彼がやってくるなり幽香に切り出した用件は、こうだ。
曰く、バレンタインデーには続きがあり、お返しに一ヶ月後のホワイトデーで贈り物をする習わしがある。
曰く、そのために作ったクッキーを夢月がたまたま食し、反応が如何せん宜しくなかった。
普通ならば、幽香の圧力に呑まれて言葉も出なかったはずだが、
そうならなかった理由は一重に、○○の抱える焦りが、幽香の視線よりも強かったからに他ならない。
はぁ、と小さくため息を吐いて、幽香は睨むのをやめる。
「それで、私にどうしろっていうのよ」
口でこうは言ったが、実際は○○がやってきた理由も大方見当が付いていた。
夢幻館の中でしかコミュニティを持たない○○に取って、料理に関するアドバイザーは夢月を除けば幽香しかいないのだ。
「幽香さんも料理は得意と聞いていたので――――このクッキーに対する助言をいただきたいと」
「この?」
言うと、○○は待っていたかのように鞄から何かを取り出す。
幽香の視線はおのずと自分と○○を隔てるテーブルの上………そこに置かれた、小さな包みへと向けられた。
「これが問題のクッキーねぇ」
言いながら、包みに巻かれていた紐を解いていく。
試しに一口食べてみると、少ししつこい甘みと妙なこげみ、ネチリという嫌な歯ごたえが口の中に広がる。
15点。幽香の脳裏にそんな点数が浮かんだ。
ちなみに基準は1000点満点である。
「………一応聞いておくけど、自分ではどう思うのよ」
「砂糖が多かったかと。あとは、焼き加減ですかね……」
実際何度も考えた事なのだろう、難しい顔をしながら絞り出すように答える。
だが、その答えでは幽香にとってまだ不足だ。
「多かったってレベルじゃないわ、入れる量を0ひとつ間違えたとしか。
それに使ったバターも無塩じゃないでしょう。そうじゃなきゃ、こんな変な塩辛さなんて出てくると思う?」
次々に出てくる指摘に眼を丸くする○○を見ながら、幽香は二回目のため息を吐く。
今の一言で、完全に立場が決まってしまったのだ。脅したところでどうせ帰ってくれそうにもない。
ならばこの面倒事を片づける方法はひとつ。さっさと望みのクッキーを作って、夢幻館に追い返してしまうしかない。
「あぁもう、わかったわよ。少し見てあげる。
ただし、今の私は機嫌が悪いからね。それなりに厳しいわよ、覚悟しなさい」
心底不本意そうに、眉間を押さえながら幽香が言う。
○○は深く頭を下げて感謝の言葉を述べていたが、そんなことで中和されるはずもない。
そういえば朝食を食べ損ねたと気付いたのは、厨房にクッキーの材料がズラリと並べられた後のことだった。
こうして心強いアドバイザーを得た○○は、その指導の下、再びクッキーを作り始めることになったのだが……
「バターが溶けすぎよ。温度に気をつけろと言ったでしょう、仕上がりが変わってくるわ」
「…卵黄を混ぜるときはひとつずつ加えて。均等に混ざらなくなる」
「……型は統一なさい。そんな不揃いなものを渡されても、受け取る方はうれしくないわよ」
「………チョコチップは焼く前に挟めと言っているでしょうがあぁッ!」
なんだかんだで、淑女の嗜みは須らく身につけた幽香である。
時折聞こえる奇声や轟音にさえ目を瞑れば、事態は辛うじて前進する模様を見せていた。
そして、昼を過ぎるころ。
「で、できた………」
疲労や達成感やその他もろもろをない交ぜにしたような○○の声。
紆余曲折あったものの、幽香の熱心(?)な指導のおかげで、台所の机には失敗作と同じくらいの量のクッキーが並んでいた。
「………ま、これなら何とか食べられるんじゃない」
例によって一枚を口に運んだ幽香が、まんざらでない顔を浮かべて言う。
「幽香さん、ありがとうございました」
「今はそれより、さっさと行きなさい。ていうか出てけ。ハリーハリーハリー」
日傘に突かれ、強制的に玄関まで弾き出される○○。
外に出てからも何度か幽香に頭を下げていたが、軽めのマスパをかましてやると全力で太陽の畑を駆け抜けて行った。
「ったく」
日傘を下ろした幽香が、舌打ちと共に苦笑を洩らす。
「周りが見えないくらい夢中になるのは、良いことなのかしらね」
ハタ迷惑には変わりないけど、と付け足すことを忘れない。
「それより今は、」
ぐぅ、と小さく腹の音が鳴る。結局昼も抜いてしまった。
何か適当に腹に詰めようと台所へ足を戻し、そして。
「……あの野郎」
そこに広がる調理器具の残骸を見て、幽香の中で何かが弾けた。
* * *
「夢月さん!」
昼下がり。
突然いなくなった○○の昼食を処分するべきか考えていた夢月は、廊下の先から聞こえた声に静かに顔を向けた。
そこにいたのは予想通りの人物。
肩で息を切らす様子から、マラソンでもしてたのかと訝しげに思う。
「どこに行ってたのよ」
「すみません、少し時間が必要だったもので」
そう言いつつ、○○が取り出した包みは朝のそれを彷彿とさせるもので。
夢月は思わず苦い表情になってしまう。
「これを………作り直してたわけ?」
「はい。今度は、きっと食べられるレベルになっているはずです」
「ふーん……」
やはり気が乗らないのか、夢月は手に取ったクッキーを矯めつ眇めつする。
しかし、やがて覚悟を決めると一息に口の中へと放り込んだ。
パリパリ。
「……………。」
サクサク。
「…………。」
モグモグ。
「………ど、どうでしょう?」
僅かな咀嚼音だけが聞こえる空間に、不安げな声が小さく響く。
夢月はしばらくそうしていたが、それを嚥下すると、驚いたような顔を浮かべて言った。
「……へえ。どういうわけか知らないけれど、朝より上達してるじゃない」
「…!」
「それも、かなりね。残りは今日の御茶請けにもらっても良いかしら」
思わず拳を握る○○。
彼女の口からその言葉を引き出せただけで、○○としてはもう充分である。
しかし一方で、夢月の顔には疑問の色が残っていた。
それは、クッキーの味についてでなく…………、
「でもどうして?今までは、料理するそぶりさえ見せなかったのに」
「……あぁ。夢月さんには、まだ言ってませんでしたね」
「何を?」
夢月が首をかしげると、○○は懐から、ひとつの小さな包みを取り出した。
それは朝に見たものとも、今クッキーの入れられたものとも違う、白いリボンのついた綺麗なもの。
唐突に出されたその包みに、しかし夢月は、確かな見覚えがあった。
「あなた、それ……」
「はい。一月前に、夢月さんから頂いたものです。
外の世界ではバレンタインに続きがあって、一ヶ月後………つまり今日ですね。ホワイトデーと呼ばれるこの日に、お返しをする習わしがあるんです」
だから、と○○は言う。
ホワイトデーはバレンタインのチョコレートと違い、クッキーの他にもマシュマロやキャンデーなど選択肢が多い。
そこにチョコチップを織り交ぜたのも、夢月が一月前にチョコレートを知り、そして気に入ったことへの○○なりの意趣であった。
「そう……だから私に言わずに、ね」
「渡す相手に、手伝ってもらっていたのでは、意味がないですからね」
「かもね」
冗談めかして笑う○○に合わせるように、夢月も肩をすくめた。
が、そんな様子を見せたのも一瞬のこと。
「………○○、」
不意に夢月が言葉を切る。
そして小さく息を吸い、○○に向かい合うと、
「ありがとう」
静かに、穏やかに微笑む。
それは、時が止まったのかと錯覚するくらい脳裏に焼き付いて離れない、鮮明に輝く笑顔だった。
「いえ………………どういたしまして」
その言葉を返せたのは、後から振り返っても奇跡だったと○○は思う。
悪魔であることを微塵も感じさせない綺麗な笑みは、○○の中に夢月という存在を一層深く刻み込んだのだから。
だがあの後、何を喋ってどうやって会話を終えたのかは良く覚えていない。
気づけば遅めの昼食を終えて、部屋へと続く廊下を歩いていた。
何をしようにも、夢月の笑みが頭から離れない。
しかし帰路の最中、○○はふと思い返す。
そういえば、バレンタインの時も、こんな調子で終わってしまったな―――――と。
* * *
西日の傾き始めた時刻に、そいつは急にやってきた。
顔を見るのはひと月振りか。以前やってきた時は散々にからかわれたなと、嫌な思い出が脳裏をよぎる。
それを知ってか知らずか眼の前に座ったそいつは、私がしぶしぶ入れたアッサムを片手にクッキーの包みを紐解いていた。
「よしよし、ちゃんと食べてあげたみたいね」
量が少なくなっているのを確認して、満足そうにうなずくそいつにため息が洩れる。
「やっぱりあなただったのね、幽香」
そう言ってやると、幽香はいつものように得意そうな顔を浮かべ―――――るかと思いきや。
意外にも返ってきたのは、疲れた顔とため息のコラボレーションだった。
おまけに何だか恨めしい視線を送られる。何かしただろうか?
「した」
「何をよ」
「あんたが摘み食いなんかしてくれたせいで、私は朝からアイツに叩き起こされたわ………」
「ああ」
「顔面蒼白で、何かに取り憑かれたような顔して」
「意外。また面白がって、色々吹きこんでたんだと思った」
実際、バレンタインの時は良いようにしてやられたわけだし。
少しだけ、良い気味だと思いながら、私はクッキーを一枚齧る。
「でも、それなら追い返せば良かったのに」
「追い出す方が面倒臭いと思ったのよ。つーかドア閉めたら秒間100発くらいの勢いでノックしてきやがるし」
「○○にしてみれば、頼れる相手が他にいないからね」
「こんなことなら、
エリーに料理仕込んでおくべきだったわ」
はぁ、とまたため息。こんな幽香は珍しい。
加えて、それを引き出したのが○○だと考えると、ますます意外に感じてしまって――――
「……というわけで、夕飯食べてくからよろしく」
「は?」
そのせいで、こいつが何か言いだしやがった時も、対応が一瞬遅れてしまった。
「そのくらいの埋め合わせがないとやってられない気分なのよ。私、朝も昼も食べ損ねてるし」
「……駄目とは言わないけど、今の流れ的に関係ないじゃない。
ちなみに○○は、お昼しっかり食べて出てったけど?」
「よし殺す。夕飯は五人分で良いわよ」
ガタン、と勢い良く席を立つ。そして凄まじい勢いで飛び出して行った。
「あ、ちょっと幽香?」
小さくなる赤いチェックの背中に手を伸ばし、すぐに無駄だと悟って肩を竦める。
いつの間にか手に日傘を握っていたところから見るに、割と本気だったりするのかもしれない。
「……やれやれ。どうするのよ、本当に五人分?」
ぼやいてみても、答える声は無い。
「まったく、面倒なことしないでよね……」
そう言いながら、私は本日何回目かのため息を吐いた。
しかし、口では悪態を吐いてみても、浮かんだ笑みは隠しようがない。
幽香が○○に色んな表情を引き出されているように、私もまた、○○と関わることで変わってきているのだろうか。
そうだとしても、それを否定的に捉える必要は無いと思った。
初めのころは、面倒臭いとばかり思っていた居候。
でも今は心のどこかで、少しずつ、毎日が楽しくなっていくのを実感している自分がいた。
最終更新:2010年10月23日 23:46