人生はすごろくだ。

 そう昔の人は例えて言ったことがある。
 振ったサイコロの数は自分が決められることもあれば、そうじゃなかったりもする。
 幸福、不幸とが入り混じった世界で、思いもよらないことが次々に起こっていく。
 それが面白い、と不満や文句を垂れ流しながらも口をそろえて同じことを言うだろう。
 じゃあそれが面白いというならば、今の俺の状況もいつか面白くなるための布石なのだと思いたい。

 そう思ってなきゃやってられない。


 
 「よく燃えたわね」

 「キャンプファイヤーにしちゃ、随分と豪勢すぎますけどねぇ」

 「全くね」


 灰と燃えカスしかない不毛の地を見て、そんな感想を述べる。
 かつてそれが服だったであろう物体を手にとってみれば、僅かに触れた程度で崩れ去っていく。
 昨日までは確かにあったはずの光景は、今はただただむなしさが募るばかりになっていた。
 無くなってしまったのだと実感するには充分すぎるくらいで、これでもかというくらいに現実を教えてくれた。

 
 
 「これでまた最初に逆戻りか」




 ―――――――――――――――――――――さようなら、我が家よ。
 
 



 「金は全部家に建てる費用で使っちゃったしなぁ」


 「そうね、始めて会った時と同じく一文無し、着の身着のまま、完全に手ぶら。
  唯一、あなたは無傷だったのが救いと言えば救いね。悪運だけは強いという、何よりの証明かしら」


 「………振り出しに戻されたと同じですがね」
  

 「あなたらしいわね」

 

 有り金ゼロでリスタートを宣告されたような気分というか、まさしくそれである。
 まだそれがゲームの中ならマシだろうが、残念ながらこれはまぎれもない現実だ。
 "止めた"と強制的に終わらせることもできない理不尽なこの状況を、嘆かざるを得ないのは仕方がない。
 ゲームと現実は違うのだ、都合のいいように改変することも出来やしない。
 
 死なないだけマシとは分かってはいるが、その度に失うものが大きすぎる。


 
 「あなたも災厄ばかり引き寄せるのは、体質とはいえ大変ね」
 
 「大変で済ましますか」

 「実際はそれでは済まないんでしょう?」

 「まあそうですけど」



 避雷針のようだと、そう俺を例えだしたときから避雷針と呼ばれるようになった。
 ただ集めるのは雷じゃなくて、災厄そのもの。
 誰かといればそれは確実に俺へと向かってくる、でもギリギリで回避する……………そういうように出来ている。
 今までも、そしてこれからも。
 
 

 「厄を取っても取っても、すぐにあなたに取りつくのは驚いたわ」
 
 「これでめんどくさいことから解放される、と喜んだのもつかの間でしたよ」
   
 「私としては集めるのが楽でいいけど」

 「都合のいい奴だとか思ってません?」


 「………………そんなこと思ってるわけないじゃない」


 
 思いっきり目線を逸らしてそう答えるその姿に、説得力は全くなかった。
 "嘘だと言ってよ、神様"と縋ったところで無視されるのはなんとなく分かったのが悲しかった。
 神様にさえ見放されたのかと考えるならば、自分の運のなさもここに極まったとも言えるのか。
 

 
 「大丈夫よ、見放さないから」

 「心でも読みましたか?」

 「そんな顔してたから」

 「どんな顔ですか」

 「こんな顔よ」


 
 思いっきり両手を使い、表情筋をこれでもかってくらいに使って可笑しな表情をする女性が目の前にいた。
 というか神様だった。
 ………………うわぁ。



 「変顔すんのやめてください、まるで俺がブサイクみたいじゃないですか」

 「?」

 「不思議そうな顔するのやめてください、しまいにゃ泣きますよ」

 「泣くなら慰めてあげるわ、あなただけ特別に」

 「あ、そういうのいいです」



 神様のご厚意を無下に断ると、ちょっとだけ悲しそうな顔をした。
 あんまり表情を変えないかと思えば、全力で意味不明なことをし出すこともある。
 拝んでもあんまりご利益なさそうだと思うが、その通りご利益はたった一日しか続かないのだ。

 なむなむ。


 
 「遠慮はいらないわ、あなたならいつでも歓迎よ。家なら知っているでしょう?何度も来ているんだし」

 「妖怪の山の白狼天狗突破出来ないんですが」
 
 「頑張りなさい」



 暴論で事を済まそうとするトンデモ神様であることも追記しよう。
 可憐な姿をしているのに、どうやら仕草や言動にはまるで関係がないらしい。
 幻想郷における女性は、美人でありながらどこかズレているのは共通項で、目の前の神様も例外ではなかったみたいだ。
 "非常に残念だ。"
 なんてことをうっかり口を滑らせて言ってしまったら、ものすごく不機嫌そうな顔でこちらを睨むんだろうが。


 
 「何か言った?」

 「いえ何も」



 無駄に勘が鋭いのも、心が読まれたのもただ偶然だと思いたいが。
 どっちが正解かは、彼女だけが知っている。
 そしてその答えを、俺は知らないままだ。



 「ちょうどいい機会だし、私の家に来てみない?」


 
 さて、この言葉にどういう意味があるのか。
 いろんな意味で受け取れるが、たった一言で全てを理解するにはまだ不十分。
 真意を知るために、俺は厄神様に問いかけた。



 「情けでもかけてくれるんですか?」

 「………平たく言えばそうね。あなた、これからどうするつもり? 家も無いのに、明日からどうやって生きていくの?」



 外の世界ほど、幻想郷は優しくはない。
 自分の身は自分で守らねばならない、誰かが守ってくれるわけじゃない。
 一歩踏み出した先で妖怪に襲われても助けはない、暗い夜でも明かりが切れたら火を貰わなければ進めない。
 便利になりすぎたあの世界とのギャップは、今でも上手く埋めきれていない。
 なんとかなるさという精神は、この場において一番危険なんだろう。



 「大して当てもないですしね。慧音先生ならなんとかしてくれそうですが、もうこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
  ………あの人は気にしないんでしょうけど」

 「お節介焼きね。………私も人のことを言えないけど」

 

 最後の言葉は掠れて僅かに聞こえるくらいだったけど、俺の耳には確かに届いていた。
 何かと気にかけてくれる慧音先生と、同じように俺を気にかけている自分自身を重ねたのか。
 でも、どちらが世話になったかを比べて、現時点を振り返ってみれば世話になったのは圧倒的に厄神様の方だった。
 そう思うと、厄神様にこれ以上負担を強いるのはどうだろうかという考えが思い浮かぶ。  


 
 「あなたといると、厄が集めやすいのよ」

 

 頭にそれが出た瞬間、その言葉で喋ろうとしたことを遮られた。
 それは言わせないと暗にそう言われたのは、そう聞こえたのは、そう錯覚したのは俺の勘違いだろうか。
 表情を見ても、雰囲気を見ても、やっぱり分からなかった。


 
 「そしてあなたは自分で厄を取り除けない、私が必要なのはもう分かっているわよね?
  あなたとしても厄が取りついてもすぐに取り除けるのだから、悪い話ではないと思うのだけれど」

 「……………」



 早口で捲し立てるその姿に、どこか違和感を覚える。
 なぜそんなにも必死になるのか、どうしてなのかということに説明がつかない。
 好意で俺に住居を提供してくれるということは分かる、俺がいることで厄を集めやすいことも確かだ。
 だがそれは必要かと聞かれれば、別にそういうわけじゃない。
 
 いれば便利だが、なくて困るほどじゃない。
 それをまるでなくてはならないものだと、そう力説する姿が不思議に見えて仕方ない。
 助けになりたいという善意の他に、それ以外のものが何かあるんじゃないかと疑ってしまっている。
 ………………酷い考えだ、今まで散々世話になっているというのに。
 そんな考えを頭に残しながら、答えない俺に困った顔をする厄神様だった。

 

 「いつも通り、あなたは私に厄を取り除かれるのを受け入れるだけよ。納得できないかしら?」


 
 理屈の上では納得できるが、それ以外が俺の邪魔をする。
 素直を首を縦に振ることを拒む、嫌だと駄々をこねる子供みたいだと、どこか自分を遠くでみているようだった。
 甘い罠だと、そう決めつけていいのだろうかと思いつつも、やっぱりそう見えてしまっていた。
 そんな考えに耽っていると、厄神様は困った顔から一つ思いついたように答えた。


 
 「………もし、あなたが居座るだけで心苦しいというのなら、私の手助けをして頂戴。
  それがあなたの役目、あなたの仕事よ」
 
    
 
 タダ同然で居続けることに息苦しさを汲んだのか、条件を提示してきた。
 もちろん家に転がり込むこということに、何も思わない訳じゃないけど。
 そういうプライドとか誇りとか、そういうものを守ろうとしてくれている。
 
 もちろんまだどこかで納得はしていないということは分かっている、けれど。
 これまでを振り返って、そして今を見て"はい"と言わないのは鬼畜の所業だ。

 
 
 「…………よろしくお願いします」
 

 
 そう答えるほかにもう選択肢はなく、あとは流れるがまま。
 さて何が待っているのかという予想を胸に、厄神様につき従うだけ。
 結局また厄神様のお世話になるという、いつもと同じ繰り返し。
 情けない話だと、自らの力のなさを痛感する。
 


 「ええ、よろしくお願いされたわ」


 
 でも、気持ちいいくらいの笑顔でそう答えるもんだから、先ほどの行動は間違ってなかったと理解する。
 何故そこまで俺を助けてくれるのかという疑問は尽きないけれど、それでも。
 厄神様の笑顔が見れたならば悪くはないか、とそう思う自分がいた。

 
 
 「帰りましょう、私たちの家に。………行くわよ、遅れないでね」

 「子供じゃないんですから…………」

 

 勝手に歩き出す厄神様を追いかけて、横に並んで歩いていく。
 俺の肩くらいの背丈しかない彼女を横目で見れば、まだ嬉しそうな顔をしていて。
 そして、こんな表情が見られるのは知る限りだと俺だけだ。
 ちょっとだけ、優越感に浸れることを許してほしい。


 「あ、笑ったわね」
 
 「そっちもでしょう、さっきから笑ったままじゃないですか」

 「ふふ、そうね」

 
 
 災厄を引き寄せるばかりで碌なことなんでないけど。
 悪運はまだ尽きてない、案外悪くないのかもしれない。
 厄神様に出会ってからそう思い出したのは、つい最近のこと。

 ならばせっかくの機会なのだ、なにか彼女に返せるものがあるならば返していきたい。
 きっとそう簡単には受け取ってはくれないかもしれないけど、それでも譲れないから。
 つかの間の平穏だろうと、始めて心穏やかに過ごせる日をくれたのだから。


 
 「…………どうかしたの?」

 「別に、なんでもないですよ」

 「変ねぇ……………あ、最初からね」

 「さりげなく酷いこといいますね」

 「嘘よ」

 
 さりげにキツイ冗談かますのも、心を開いてくれているからだとそう思いたい。
 ……………そう思いたい。
 
 















 

 雨が降り続いている。
 いつかにやったゲームのフレーズにそんなものがあったなと思い出しながら、意味もなく考え事をしていた。
 曇天の下、止まらない雨粒の音を聞いていてもあまりにつまらない。

 とはいっても特になにが出来るわけでもなし、結局は動かずにできることに落ち着いた結果がこうである。
 今日の夕食は何かなとか、そろそろ髪が伸びてきたなとか、厄神様の冗談は相変わらず酷いなとか。
 くだらないことを次々に浮かべては消し、浮かべては消していく。
 そして最後の残ったのは―――――――――。



 「…………あ、そういや厄神様傘持っていってないな」


 
 半分寝かけたままの頭がかろうじて覚えていた、"厄を集めてくるわね"という言葉。
 いってらっしゃいを寝ぼけたままで、上手く回らない口でそう答えたのは、朝と呼ぶには遅い時間。
 あれから今を見れば昼も少し回った頃になっていて、いつも帰ってくるはずの厄神様はまだ帰ってきていない。
 別に帰ってくるまで待っていてもいいけど、やることもないからつまらない。
 気がつけば外に出る準備は出来ていて、手に傘を持っていた。  
 無意識の中で"迎えに行く"という選択肢を勝手に選んでいたみたいだ。



 「さて、お迎えに上がりますか」


 
 何してるのかなとそんなことを考えながら、家から出る一歩を踏み出す。
 どこかの木の下で雨宿りでもしてるんだろうかなんて、適当な想像を広げながらまた一歩歩き出す。
 三つ、四つと歩いて行くその先に、厄神様が多分待ってるだろうから。

 
 
  
 
 

 
 
 

 「あら、お迎え?」

 「ただの散歩です」

 

 雨粒さえ通さないくらいの密度の葉と枝を持つ、巨大な木の下に厄神様を見つけた。
 寄らば大樹の陰の諺の言葉のまま、じっと動くことなく空を見上げていた。
 その横顔は天気のせいもあってかいつもと違って見えていて、少し話しかけるのを躊躇ってしまった。
 でも厄神様はそんな葛藤を知らずか、向こうから話しかけてきたわけだけども。


 
 「やることないんですよ、だから気分を変えたくて」

 「………そう」



 短く言葉を返した厄神様は、予想が違ったから期待外れみたいな顔をしていた。
 待っていたものと違うものを出された子供のような、当てを外されたような、そんな表情だった。

 ………まあ、冗談なんだけど。
 


 「というのが建前で、本当は迎えに来たんですよ」

 「…………それも嘘でしょ?」

 「違いますよ」


 
 こんな顔をするとは、俺も予想が違った。
 普段何かと言われる機会があるから、少し真似てみただけなのだが。
 本人は言うことには大丈夫な癖に、他人に言われるといい顔はしないみたいだ。
 随分と我儘な神様だ…………美人だけど。

 

 「傘を持ってなかったでしょう、だから困ってると思って来たんですよ。ちょっとは信用してくださいよ、厄神様」
 
 「……………いつも冗談ばかりの癖に」
 
 「耳が痛いですね」


 
 そう言って、いつも通りの顔をする厄神様。
 よかった、家主を不用意に怒らせるものではない。
 夕食が野菜一品だけになるのは、もう二度と起こさないと誓ったのだ。

 

 「一応予備の傘があったので持ってきましたよ、どうぞ」

 「ありがとう」


 
 どこにでもあるような、変わり映えもしない傘を手渡す。
 その傘を厄神様の差し出された手に置くときに、随分白い手だと感じた。
 外に出る機会はあるはずなのだが、日焼けしないということなのか。
 厄を纏うというイメージも重なって、健康的とは真逆な印象を受ける。
 どちらかといえば負に寄っていることもあって、退廃的な雰囲気を醸し出す。
 それは触れてはいけない、と言われているような気がしてならなかった。



 「……………くしゅん!」



 とはいえども、直後にそういう雰囲気を見事にぶち壊すのが得意なのでもあった。
 流石である。



 「冷えましたか?」

 「少しね。服も少々濡れているし、そのせいもあるかもしれないわ」

 「神様なのにくしゃみはするんですね」

 「私は万能じゃないのよ」
 

 
 いつからここにいるのかは知らないが、その言葉の通りならくしゃみの一つもするのは当たり前。
 神様が病気にかかるのかと少々の疑問を持ったが、神様も死ぬんだからありえないことじゃない。
 だがそもそも、こうやって一緒にいること自体が可笑しいことではあるけど。


 
 「もしそうなら、あなたはもうとっくに普通の人になっているでしょう?」

 「それもそうですね」

 

 自分自身が特別な人間であるという自覚は、嫌でも認めざるを得ない。
 避雷針と呼ばれ、厄を集め、悪運だけは尽きることはなくて。
 そして今は厄神様と一緒で、逆に神様に救いの手を差し伸べている。
 こんな馬鹿なことがあるものか。



 「例えばだけど………あなたは、普通の人間になりたいと思ったことはある?」

 「――――――――正直、うらやましいと思ったことがないわけないですよ。
  人並みに幸せを受けてみたいと、貧乏くじを引かないってどういうことなのかって考えたこともあります」
 

 
 捨てることもできないハズレを無理矢理持たされる。
 どれだけ突っぱねてもどこまでも追いかけてきて、逃がさないという。
 何をしたところでもう無駄だと分かっていても、やりきれない思いが募ってばかりだった。
 例え最悪の結果にならないとしても、摩耗していくのは避けられない。
 
 そんな化け物相手に立ち向かう力も擦り切れたとき、厄神様に出会った。
 
 

 「今は、あまり考えなくなりましたよ」



 たった一日だったけど、始めて何もない平和な日が訪れた。
 でもそれで十分だった、それだけで良かった。
 だからもう、そんなことを考えることも必要もなくなった。

 
 「…………そう、それはよかったわね。――――――話が長くなったわ、帰りましょうか」 

 「そうですね、早く行きましょう」 


 俺は貴女にどれだけ感謝しているのか、知っていますか?
 今までに積もりに積もったありがとうがどれだけあるのか、知っていますか?
 そんなことを言ったら、いつもみたいに"冗談でしょ"って返すばかりで。
 まともに受け取ろうとしないくせして、与えては知らない顔をする。
 一体いつになったら変わるのかを期待しているけど、その日までは遠そうだ。


 
 「……………この傘開かないわ」

 「え?」



 俺の渡した傘を開こうとする厄神様だが、傘は一向にその姿を変えようともしていない。
 今度は力を込めて開いてみようとしているみたいだが、傘は動くことさえしなかった。
 ただのステッキもどきになり下がった、本来の目的を果たせない傘じゃ雨水は防げない。



 「あれ?なんで開かないんだ?」

 「不思議……………でもないわね」

 「え?………ああ」



 厄神様の反応を見て、考えるまでもなく納得する。
 俺自身に向けられた視線は、それだけで説明が十分すぎるほどについたから。



 「またですね、俺の悪運」
 
 「あら、別にそうでもないわ」 
  
 「へ?」

 「傘は一本じゃないでしょ?」



 厄神様の指し示すの先にあるのは、俺の右手にある畳まれた傘。
 開かない傘とは違う、ちゃんと目的を果たすことのできる傘。
 使える傘は一本、傘を使いたいのは二人、出る結論は一つ。
 
 

 「相合傘?」

 「そうよ」



 律義に答えてくれてありがとうございます。
 そして何事もないかのように、俺の右に並ぶ厄神様。
 さもそこが当たり前だと言わんばかりの顔をして、早く行けと目で合図を送ってきた。



 「傘あんまり大きくないですから、二人分入れるほどの場所は無いですよ」
 
 「なら肩を寄せればいいじゃない」

 

 その言葉通り通りに俺に肩を寄せる厄神様。
 いつもより近い距離に、彼女がよく見える。
 これほどまでに近いことは今までにもなく、これが始めてだ。

 

 「………ありがとう。迎えに来てくれて、正直助かったわ」

 「いえ」



 厄神様の感謝の言葉に、短く切って返すのが精一杯。
 もっと何か言えることがあるだろうとは分かってはいるが、頭がそれに追いつかないでいる。
 熱に浮かされたように、別のことばかりで上手く動いてくれないような。
 ぐるぐると思考回路は廻り続けているくせに、そればかりが脳内を占領して他が手につかない。  
 それを押しのければ押しのけるほどに、より一層動きは鈍くなっていく。

 

 「急に雨が降った時はどうしようかと思ったの。偶然あの木を見つけたから、雨宿りは出来たけど………。
  雨が止む気配はないし、誰かが通るわけでもない。………本当に、どうしようか悩んでいたのよ」

 「そうですか」



 それとは対照的に、厄神様は次々に言葉を捲し立てていく。
 マシンガンのように浴びせられる数々のこれまでをことを、たった一言だけ返した。
 それだけだった。


 
 「だから、ね。………迎えに来てくれてありがとう」


 
 そんな感謝の言葉をぶつけられても困惑するだけで。
 内心はうろたえたままだけど、表面上だけは取り繕ったハリボテを作るだけだった。
 今は、それが俺の限界だった。
 

 
 「…………………」

 「…………………」
   

 

 俺の返答を待っているのか、厄神様はそれ以上何もいわなかった。
 でも俺は返す言葉なんて持っていなくて、ただただ雨音と歩く音が響くだけ。
 今は前を向いているけど、横を見れば多分厄神様がこっちを見ているんだろう。
 でも、そっちを向いたところで、気の利いた一言が出てくる気がしない。
 より頭を鈍らせていくだけだ。
 
 艶のある緑髪、確かな光を持つ目、透き通った鼻、潤いのある唇、無駄のないすっきりとした輪郭。
 あらゆるものが、俺を釘付けにして動きを止めるんだ。
 だからそっちを向くことは出来ない、本当に何も考えられなくなるから。


 
 「…………ひょっとしてだけど、照れてるの?」

 「………………」  
 

 
 ある意味間違っちゃいないが、俺と厄神様との認識には決定的な違いがある。
 でもそれを指摘するにも、指摘できるわけがなかった。
 言ってしまったら気まずくなるかもしれない、明日からまともに取り合ってくれないかもしれないから。
 それが怖いから、否定することができない

 そして、否定したところでその次を説明することもできない。
 だから結局、肯定する以外に選択肢なんかない。
 



 「………別に、そんな大層なことじゃないでしょう」

  

 鈍りに鈍った頭で弾き出したその答えも、出すタイミングを完全に逃したから別の意味に聞こえてしまう。
 何より先ほどの厄神様の出した結論に対して、ある意味説得力を持つようになっている。
 言葉とは何と難しいものか。



 「ふふっ…………そうなの」

 「はい」



 得意げな顔をして俺を見ているんだろうけど、今はこれでいいか。
 勘違いさせておいた方がいいこともある、俺自身のために。
 変な顔されるよりは、ずっとマシだから。
 笑ったままでいてほしいから。 
 だから、これは俺のエゴだ。 
 
    
 
 
 

 
 
 


 「はい」

 「………………」



 今日の一品が、非常に小さな形で差し出された。
 それは皿の上にあるわけでもなく、かといって丼や鍋でもない。
 二本の細長い棒、箸によって挟まれたそれは、俺に向けられたもので。

 いわゆる、あーんという奴である。


 
 「あの、一人で食べられますけど…………」



 反射的にその言葉が出てきたのは、ごくごく当然のことだと思う。
 この年になってそうやって貰わねば食べられないのでもなく、自分一人で可能なことだから。
 必要性はあるのかと聞かれれば、ないと即答できるはずだ。
 


 「あなたの利き手はどっち?」

 「右です」



 ただ、この包帯でぐるぐる巻きになった右手を見れば、多少なりとも必要性について考えるのかもしれない。
 手首から先の稼働を制限されている今、箸をつかむことさえ困難である。
 動かすだけで結構痛むくらいで、医者からは絶対安静だと通告されている。
 利き手が使えないことで日常生活に支障が出ることは当たり前だし、多少なりとも補助がいることもある。
 そう考えれば、割とおかしなことじゃないと言えるのか。



 「その腕を見て、箸が使えると思う?」

 「思いません」

 「じゃあいいわね、はい」



 そして、厄神様はそれ以上の会話を続けないで、箸を俺の口に寄せた。
 今までの会話で察しろということだろう、乱暴だが言いたいことは分かってはいた。

 "食べにくいだろうから、私が手伝ってあげる"

 献身的な彼女だから、こういう結論が出ることは当然のことなのだとは理解はしていた。
 が、いざその時になってみるとたじろいでもいる。
 『可愛い女の子に、あーんされる』という現実に。


 
 「……………実は…………むぐっ!」

 「おいしい?」
 
 「……………………おいしいです」

 「そう、それはよかったわ」
 


 そんな現実に対して、彼女に対して言いたいことがあった、言わなくちゃいけないことがあった。
 けれど口を開いた瞬間に、待ち構えていた箸が俺の中へと侵入し、今日の一品が投下された。

 塩味の利いた歯応えのある青菜は、俺の好みの味付けで、それはそれは大変おいしゅうございました。
 だから、反射的に問いかけられた質問に答えてしまうのは当然のことだった。 
 それと同時に、俺の言いたかったことを封じられたのでもある。
 
 

 「まだまだあるわよ、はいどうぞ」

 「…………………………」



 そして、次も言わせないつもりらしい。
 また同じく俺の目の前に寄せられた料理を乗せた箸は、早く口を開けろと唇に触れてくる。
 どうやら、もう逃げ場はどこにもないみたいだった。
 
 あの時を振り返って思う。
 ――――――――――もっと気を付けておけばよかった、と。


 

 
  
 






  

 
 先日の天気は何だったんだろうかというくらい、空は大きく様変わりしていた。
 相合傘をして厄を集めなくてもいい、ということに残念だと思いつつも、ジメジメとしたものから解放されるのだから嬉しくないわけじゃない。
 やっと洗濯物が乾かせるわね、と厄神様が言うくらいにこの数日は雨が降り続いていたのだ。
 そして俺も、同じく気軽に外に出ることのできない日々に飽き飽きしていた。
 気晴らしに散歩をすることが難しいのだから、日課を邪魔されたことでストレスも溜まっていた。
 だから、晴れてよかったと本当に思う。


 
 「厄神様、布団どこに干せばいいですかね?」


 
 寝室から布団をまとめて抱え、裏庭にある物干し竿がある場所にまで辿り着いた。 
 厄神様の要求通り"布団を干したいから持ってきて"との言葉に従い、ここまで持ってきたわけだ。
 物干し竿には洗濯物が順序良く並べられていて、いったいいくつ干すつもりなのだろうかというくらいだった。
 

 
 「そうね、とりあえずこっちまで持ってきてくれないかしら?」
 
 「分かりました」

 

 縁側の近くにあったサンダルを履いて、厄神様の方へと向かって歩いていく。
 布団が大きいこともあって、視界が遮られるもんだから前がよく見えない。
 重量もそれなりにあり、汚すわけにもいかないのですぐにはたどり着けなかった。 
 二人分は流石に大変だ、とそんなことを感じた。



 「ありがとう、よく持ってこれたわね」

 「また寝床に戻るのは手間だったので」
 
 「ふふっ…………流石、あなたも男ってことかしら」

 「…………それはどうも」
 


 凄い判断基準ですね、という突っ込みは心の中で押さえておく。
 褒められているのだろうから、ここは素直に受け取っておこうか。
 あえて天邪鬼なことをするのも、捻くれたことをする必要もない。
 意図的であろうとなかろうと怒らせたり、機嫌を悪くさせるべきではないのだ。

 冗談を言った結果で厄神様を怒らせるのは、性分なので仕方がない。 


 「これで終わりね」
 
 「それにしても、随分と洗濯物溜まってたんですね」

 「ええ、かなりの量になったわ。そろそろ替えの服が無くなる頃だったの、晴れてくれてよかったわ」

 「そうですね」



 流石に替えがなくなるとどうしようもない。
 一人ならまだ何とかなるのかもしれないが、二人でかつ男と女だ。
 もしそんな事態になったらいろいろと大変だ、これからの生活にも支障が出る可能性もある。
 そうならなくてよかった………………と思う。 
 ………………そう思う。



 「…………時に質問なのですが」
 
 「何かしら?」
 

 
 前々から疑問になっていたことがあった。
 度々気にはなっていたのだが、果たしてそれがいいのか迷った挙句、聞きそびれていたからだ。
 そして今が聞ける絶好のチャンスでもある、これを逃したらいつになるのか分からない。
 本当に今更なのかもしれないが、今しか聞けないことを聞いておく。 
 

  
 「洗濯物は、俺と厄神様と別々に洗濯しているのでしょうか?」


 
 共同生活している場において、同性ならばまとめて洗濯するのはあまり抵抗はないだろう。
 しかし、俺は男で厄神様は女だ。
 外の世界においてもよくあることだが、男女別に洗濯機を回すこともあるのだ。
 別にだからどうしたって訳じゃないけど、その辺りはどうなっているのか気になったこともある。 
 俺自身が掃除とローテーションで食事を任されたことで、それ以外のことについては全く知らないのだ。
 日々当たり前に行われている裏側を、少し覗いてみたくなった。
 


 「?…………変なこと聞くわね、あなた」

 「そうですか?」

 「そんなことしないわよ、いつもまとめて洗濯してるわ」



 厄神様は、どうやら分けて洗濯するわけではないようだ。
 というかそんな不思議な顔をされるとは予想外だった、"何故"という顔をこちらに向けてくるとは。
 幻想郷に慣れてきたとはいえ、まだまだ外の世界に染まりきった思考回路は直らないようだった。
 勝手が違うのだとはもう分かり切ってはいたのだが、まだまだ知らないことがあるということ。
 その溝は埋まったと思っていたが、実はそうでもなかったらしい。

 
 
 「そんな必要があるかしら…………気にしたこともなかったわ」
 
 「いえ、少し気になっただけなので」

 「………いいの?」

 「はい」
 


 困った顔してそんなことを言うもんだから、それ以上何か聞くことを躊躇った。
 本気で回答に四苦八苦している表情を見せられてしまうと、もういいと自然に口にしていた。
 そんな返答に厄神様はもういいのかと訊ねてきたが、いいですよと返すしかない。

 少なくとも、"男女別にまとめて洗濯する"のだと分かれば、問いかけに対しての返答は得られているので問題はない。
 "単純に洗濯する手間や水などが無駄だから、まとめて洗濯しているのか?"
 "別にそんなことを気にする必要もないから、まとめて洗濯しているのか?"
 どちらが本音なのかは分からないが、どちらにせよそれが許される程度の仲だと分かれば、後はもうどうでもよかった。
 なにはともあれ、疑問を一つ解消出来たのだからいいのである。


 
 「…………終わったことだし、休みましょうか」

 

 そんな一声で、今日の洗濯は終わった。


 
 






 
 「さっきあなたが質問したから、今度は私が質問していいかしら?」

 「…………んー、そうですね」


 急須のお茶がなくなったので、注ぎ足しに台所まで来た。
 お茶缶から葉を取り出して、いらなくなった古い葉を捨てる。
 ……………残りがあまりないようだ、今度買いに行かなくては。
 これ高いんだけどなぁ、と少なくなったお茶缶を振りながら元の場所へと戻した。



 「俺に答えられることなら」

 「大丈夫よ、むしろあなたにしか答えられないことだから」
 


 俺にしか答えられないことって何だろう?
 複雑なこと聞かれたらどうやって答えるか、ただそれだけを考えながら身構えていた。
 左手に熱湯の入ったやかんと、右手に急須を添えて。




 
 「"好きになる"って、どういうことだと思う?」
 

  
 「え………………?」



 
 「答えて、くれない?」



 その質問の意味はどういうことか、すぐには理解出来なかった。
 俺にしか答えられない、という前置きの意味と照らし合わせて、真意を確かめようとする。
 
 でも脳内は動いていても、体は動いたままで。
 左手はやかんの重さで動き、重力に逆らうことなく口は下を向いた。
 その到達地点は急須じゃなくて―――――――――――。

 

 「―――――――――――――――――――――――熱っ!!!!」
 
 

 とまあ、そういうわけである。
 










 「次は何がいい?」

 「…………煮魚で」


 利き手を火傷するという、日常生活においてかなりのハンデを負った。 
 結局は自分が招いたミスなのだが、こうやって厄神様はお世話してくれているということだ。
 非常にありがたい、ありがたいのだが………………。

 正直恥ずかしいというか、こうやってくるとは思わなかった。
 控え目なイメージを持っていたし、これまでも積極的な姿勢を見せたことは少なかったから。
 だから、まさかという思いもよらないことに戸惑ってもいる。


 
 「はい、どうぞ」

 「…………………」


 
 そして、実は左手でも箸は使える。
 利き手が使えないなんてことは今までにもないわけじゃなかった、その時に練習して左手でも使える位には出来るのだが。
 そんなことを伝えてもいいのだが、でも今は何故かそれを伝えようとすることに気乗りしなかった。
 
 "この機会を失うのがどこかで惜しい" 

 心の何処かでそう思っていることには気が付いていたし、見てしまった以上目を背けるのはもう無理だ。
 自分のそんな本心と向き合って、逃げないことにしたから。
 甘んじて受け入れるのだ、厄神様のあーんを。


 
 「今日は上手く出来たと思うのだけれど、どうかしら?」

 「……………確かに、味がかなり染みてますね」

 「そうでしょ?」


 
 誰かに見られたらどうしようか、とは思っているけど。
 

  
 




 








 
 
 

 春眠暁を覚えずという諺がある。
 春の夜は心地よいから、朝になったことにも気がつくことなく眠り続けてしまうということだ。
 しかしその解釈の仕方で議論されることもあり、実は『春は夜明けが早いから』とか『夜明け前に目覚めなくてもいい』という見方もある。
 言葉の受け取り方一つでどう取るかが変わる、ということでもある。



 「…………き……………い」



 では、先日の言葉の意味の解釈についても考えてみたい。
 
 "好きになるって、どういうことだと思う?"

 さて、この言葉を額面通りに受け取るならば、好きとは何かを答えるのが妥当になる。
 がしかし、その前にある前提条件を考えなければならない。
 俺にしか答えられない、ということ。

 つまり裏を返せば、俺自身にのみ聞いているということでもある。
 他の誰でもなく、俺だけに許された権利。
 以上を見れば、俺の意見を求めていること他ならない。


 
 「…………ぇ、…………まで…………る………もり?」



 好きになる、ということに説明を求められると、正直答えにくい。
 感覚的でありながら抽象的、形のないものについて何かまとめようとしても、すぐには答えられない。
 実際に感じてもらったほうが早いのだろうが、そもそもその概念をある程度理解してもらわねばならない。
 となると、やはり言葉で分かってもらう他ないという結論に至る。

 

 「……………やく…………きてよ………」


 
 いやしかし、そもそもLOVEかLIKEなのか、まずそこから聞く必要がある。
 なんとも長い説明になるのが予想出来て、骨が折れそうな予感がひしひしと伝わってくる。
 だが、他でもない厄神様の頼みなのだ、どうしても聞かない訳には――――――――――



 「――――――――――――起きなさい!!」

 「………………え、ああ…………おはようございます」


 
 夜が明けて日が昇っている空を背景に、俺の両肩をつかむ厄神様がいた。
 開幕早々にして凄い剣幕である、何事かと一瞬驚いた。
 しかしそれもすぐに気がついて、先ほどまで自分が寝ていたという事実を思い出した。
 
 そうか、今のは夢だったのか。
 昨晩に考え事をしながら床に就いたまでは覚えているが、そのまま寝ていたとは。
 その中でも考え事をしているとは、よほどあの言葉が心に響いたらしい。


 
 「はぁ…………あなたって起こさないといつまでも寝てるから厄介ね……………」

 「それは申し訳ないです」

 「前世も寝てばかりいたのかしら…………だとしたら、まるで成長してないわね」

 「それって変わるものですか?」

 「あなたで実験してみたら? 成長日記つけてあげるから。とりあえず一年は見積もっておきましょう」
 
 「遠慮しておきます」

 

 目覚めてからのこの調子、相変わらずというべきか。
 この前の発言をした本人が同一人物かどうか疑いが生まれてきた。
 俺の聞き間違いじゃないかとか、勝手な妄想が生み出した幻とか。
 そんなことを考えていると、自然に眉間にしわが寄っていく。
 じっ、と厄神様を見つめて。



 「………………どうかしたの?」

 「………………いえ、なんでもないです」

 

 それを不思議に思ったのか、厄神様は俺に問いかけてきた。
 先ほどから一転して、いきなりこちらを気遣う仕草を見せてくる。
 あの冗談もやり取りも、本人にとってはスキンシップのつもり。
 軽口を叩くこともあるけど、その正体は優しくて献身的ということである。
 それを一番見てきただろう俺が言うのだから、間違いはない。


 
 「まだ右手が痛むの?」

 「まあ、多少は」
 

 
 あれからギプスをつけたままの右手は、未だ包帯を取ることができない。
 自分の手ながら、グルグル巻きになったその下を直視したいとは思えないくらいだ。
 薬が効いているから痛みは多少軽減されてはいるが、皮膚の無い状態では痛くない訳がなかった。
 


 「火傷したあの日の夜、その時は眠れなくて困りましたが。
  …………今はそうでもないです、強いて言えば寝るときに邪魔なくらいですかね」

 「……………そうなの、少しずつ治っているのね。
  それじゃあ右手を出して、薬を塗って包帯を変えましょう」
 


 指示に従い、右手を厄神様の前に差し出す。
 包帯で巻かれた太くて白い腕がどんどん小さくなっていく。
 その下にはガーゼにテーピングされた患部が見え、何とも言えない異臭を放っていた。
 それに鼻が刺激されて顔をしかめて目を背けるが、厄神様はものともしていない。
 すげぇ。



 「いつも思うのだけれど、手が大きいわね」

 「そうですか? あまり意識したことはないですが」
 
 「そうよ、ほら…………明らかに大きいじゃない」

 
 右手をつかむ厄神様の手は、俺よりも一回りも二回りも小さかった。
 その小さな手は俺が握ったらその中に収まってしまいそうな、そんな気がするくらいだ。
 どうみても色白な彼女の手は、少し力を入れたら折れてしまいそうで。
 男と女の違いをこの目で、この感触でもう一度思い知らされる。

 

 「ああ、確かにそうですね」
 
 「でしょ?」

 
 
 でも実は、厄神様が小さいからじゃないのという突っ込みは抑えた。
 右手をつかまれて弱点をさらしている今、不用意な発言で何をされるか分かったものではない。
 つんつんされたら悶絶するのは確定だ……………ああ、恐ろしい。
 考えただけでもおぞましいので、これ以上余計なことを頭に浮かべるのは止めようか。

 

 「うわぁ………………」

 「自分の手でしょ?」

 「といってもあんまり見たくないです」

 「仕方ないわねぇ…………」

 

 眼前に広がる火傷した手は、人によってはモザイク処理が必須になるであろう姿を見せていた。
 残念ながら脳内でそんな都合のいいフィルターがあるわけでもないので、思わず目をそらしてしまう。
 そして感嘆の声が自然に出るのもごくごく普通のことで、その次が出てこないのもその通り。
 厄神様の真っ当な意見も分かってはいても、受け入れる気には到底なれない。
 すぐには治ると聞いてはいるが、果たしてこれが元通りになるのだろうかと常々思う。
 

 
 「………っ痛……………」

 「………薬が上手く塗れないじゃない、我慢して」


 
 空気に触れることでむき出しの肌が痛むが、やっぱり見る気にはならない。
 見たらさらに痛みが増しそうで、ちょっとトラウマになりそうだから。

 けれどそんな右手に対して、まっすぐ向き合って処置している厄神様。
 やっぱりすげぇ。
 流石神様…………もはや女神様でもいいかもしれない。
 


 「前よりは随分まともになってきてるわね、治りが早いのかしら?」

 「そういう体質らしいです、怪我しても一晩寝ればかなり良くなるので」

 「これもあなたが成せる"悪運"のせいかしら?」

 「悪いことが起こっても助かるのはいいですけど、災厄を呼び寄せるのは勘弁してほしいですね。
  もはやわざと呼び起こしてるんじゃないか、とそう思った時もありますよ。
  ………そもそも、なんで生きているのかが不思議で仕方ないですから」


 
 無事なのはいいが、そもそもそんなことになることを持ってこないでほしい。
 いくつ命があっても足りない修羅場など、一生に一度あるかないかでいいだろう。  
 命を対価にしてギャンブルしているわけでもないのに、災厄は我が物顔でこっちにやってくる。
 いらないです、帰ってください。



 「そうね、最初にあった時も下手したら死んでいたものね。
  ………あの時は川にぷかぷかと浮かんでいて、とっくに死んでいるものだとばかり思っていたわ」
  
 
 「……………諦めてたんですか」 
 
 「半分くらいはね、死んでいたとしても弔ってあげないといけないでしょ?」
 

 
 確かにそうだが、もしそのまま土葬なり火葬なりされていたら危なかった。
 それこそ本当にお陀仏である、早く意識を取り戻して正解だった。
 埋められて意識を取り戻して復活したとしても、それこそゾンビやキョンシーだと思われかねない。
 違う種族の仲間入りを勝手に果たさなくて良かったと思う。



 「そうですけど………………痛ぇ」

 「もう少しだから頑張って」


 「……………そういえば、厄神様」



 今朝まで考えていた事をようやく思い出した。
 言われてからずっと、それこそ夢にまで考え続ける位に悩んだのだ。
 結論は出た、だからもう話してしまおう。



 「"あなたにとって好きになるって、どういうこと?"って言いましたよね。
  あの時は答えられませんでしたけど、今答えましょうか?」

 「………………そうね、聞かせてくれると嬉しいわ」



 薬を付け終わったのか、ガーゼにテーピングをしたものが右腕に張り付けられた。
 その感触を合図にして、ようやく俺は前を向いた。
 やっと終わったと安堵する間もなく、厄神様は新しい包帯を手にとって、俺の右手をぐるぐると巻いていった。  
 手を休めるつもりはないらしい、作業しながら聞く体勢に入っていた。


 
 「好きになるって、正直答えにくいです」
 
 「…………確かにね、誰かが教えてくれるものじゃないわ」

 「でも、答えられないことはないんです。好きになるって、多分ですけど………」



 「気がつくとそればかり考えてる、目で追っているってことだと思うんです。
  寝ても覚めてもずっと離れることがなくて、いつの間にかそれが中心になってたりすることもある。
  自分を変えてしまうくらいの力を持つものだと、俺は考えてます」




 好きになるというのは、もはや説明すること自体に意味がない。
 理屈や理論で答えられるものじゃない、それは感情や心で分かるものだと思う。
 逆に理由など必要はない、むしろ説明などするほうがおかしいから。 
 "好きだから"それだけでもう、何もいらないはずだ。
 
 
 
 「………じゃあ、あなたの中には何があるの?」

 「………俺の中に、ですか?」
  
 「気がつくとそればかり考えてる、目で追ってるってものは何?
  ――――――――――あなたを変えたのは、何?」


 
 包帯を巻き終えた厄神様は、俺の右手から両手を離した。
 俯き加減で話を聞いていた体勢は、いつのまにか俺の真正面を見据えていた。
 その顔には、その瞳には、いつもとは違うという予感がする。
 ふざけた回答ではなく、あなたの本心を聞かせてほしいと言われている気がした。 


 なら、答えない訳にはいかない。


 答えはもう出ている。
 後は、一歩踏み出せる勇気があればいい。
 それでいい。
 





 「――――――――――厄神様ですね。後にも先にも、それ以外にないです」
 
 



 その言葉を聞いて、瞳が僅かに揺らいだことを俺は見逃さなかった。
 見間違いじゃない、夢や幻じゃない。
 確かに俺は見た。
 



 「………………そう……………………………。
  ………………ありがとう、居間に戻るわね」


 

 それだけ聞いて、厄神様はそそくさと居間に戻っていく。
 逃げるように、ここには居られないとばかりに出ていく様は、いつもの動きとは違っていた。
 堂々とではなく、どこかコソコソとしていて、まるで気まずくなって出ていくようだった。
 それが厄神様の心を表しているようで、なんだかこっちも気まずくなった。

 だって、顔を真っ赤にするところ、始めて見たから。


 
 「……………可愛かったな」


 
 誰もいなくなった寝室で独り言が漏れた。
 聞くものは誰もいないから、本当に良かった。
 だって、聞かれてたら。

 もっと真っ赤な顔してただろうから。
 
 そんな顔した厄神様を見たら、こっちまで赤くなりそうだから。

 だから――――――――――良かった。





 






 
 

 人里を離れてから、それなりの月日が経った。
 日が昇って沈み、月が出てまた日が昇るのが二桁を数えた辺りから、厄神様との生活にも慣れてきた。
 そしてそれが二桁から三桁になる頃には、もはや前の生活がなんだったのかを忘れていくようになっていた。

 一人暮らしから二人になったことで、良くなったことも悪くなったこともある。
 お互いの事に対して不満を抱いたり、邪魔だと感じることがなかったわけじゃない。
 けれど、こうしてまだ一緒に過ごしているということは、上手くやれているということだろう。
 

 
 「何を見ているの?」

 「いや、野菜が安いと思いまして」

 「あら、本当ね」



 厄集めのついでに人里に寄った。
 その後、別れてからなんとなく売り場を徘徊していると、集め終えたのか厄神様は戻ってきた。
 目に見えるほどの厄を溜めこんだ彼女は、それはそれは禍々しい。
 見るからに近寄ってはいけないということが一目瞭然であり、誰しもがそれを分かっていた。
 だから話しかけるのも俺だけで、近寄るものは誰もいない。

 『厄神に近づけば不幸が訪れる』 
  
 書物にもあるまぎれもない事実は、これまでにもいくつもそれを証明してきた。
 確かな答えがあるからこそ、皆はそれを避ける。
 不幸になると分かっていながら、近づく訳がないから。
 ………………避けられた奴の気も知らないで。



 「ほうれん草とキャベツがいいですね」

 「ええ、買っていきましょう」


 「―――――――――すいません、これとこれお願いします」



 二つを手にとって、店のオヤジに会計をお願いする。
 あくまで事務的に対応するその姿は、明らかに歓迎する気のないことが伝わった。
 当然か、厄神が近くにいると分かればいい顔をするわけがない。
 それが例え、自分のためになるとしても。
 

 
 「行きましょうか、用事も済みましたし」
 
 「そうね、帰りましょう」



 あまり長居するのも、俺も向こうも気分が悪いのなら退散しよう。
 それがお互いのためにとって最善だろうし、納得するだろうから。
 ホッとした表情を浮かべ、やってきた客に笑顔を振りまくオヤジの姿を視界の隅で捉えた。
 間違っていなかったことにはよかったが、やはり気分はあまり良くなかった。
 …………忘れろ、気にしていても仕方のないことだ。
 

 
 「何か面白いものはあった?」

 「外の世界の本があったので買ったくらいですかね」

 「どんな本?」

 「向こうでは誰もが知ってる文学ですよ」



 最初の一文を聞けばタイトルが確実に連想される、超有名どころだった。
 出版されたことも多いからこそ、こうしてここにまで紛れ込んできたのだろう。
 話を聞いてみると"たまたま落ちていたので拾った"とのことらしい、拾った本を売るのかとは思ったが。
 しかし実は、俺はその本を読んだことはなかった。
 元々興味はあったこともあり、こんな場所に来て今更ながら、外の世界の有名な本を読むことにした。
  
 保存状態は案外悪くない、値段もそれほど張らなかったことだし幸運だったといえる。
 かなり小さいことだけど、まだ俺の運も捨てたもんじゃないらしい。
 

  
 「へぇ、読んでみたいわね」

 「読みますか?」

 「………いいの?」

 「いつでも読めますし、興味があるなら先に読んでもらっても構いませんよ」

 「………ありがとう、じゃあ読ませてもらうわね」



 山の向こう側へと姿を隠し、赤くなっていく空を背景にして。
 こっちを向いて笑う厄神様は、それはそれはとても綺麗だった。
 あまりにも綺麗に笑うもんだから、俺もつられて笑ってしまう。
 さっきの嫌な気分を吹き飛ばしていくような、何もかも洗い流していくような。
 そんな気持ちになれたのは、彼女がそういう力を持つからか。 

 その恩恵を一番受けていると自負する俺が、一番それを見てきた俺が。
 自分を止めてしまいそうになるくらいに、でも逆に何もかも変えてしまいそうで。
 もやもやとした、やりきれない思いがまた一つ募っていった。

 
 
 「……………暗くなるわね」

 「そうですね、日の入りが遅いからと長居しすぎました」

 「辺りも見えにくいから、躓いて転ぶかもしれないわ」

  

 そんなわけないでしょ、と厄神様の方を向いて言おうとした。
 言おうとした、けれど言葉は出なかった。
 何かを期待しているような、でもどこか不安げなその瞳は、俺を待っている気がした。
 早くしろと急かされているようでもあり、でも間違えないでほしいと言われている気がした。
 
 いつもハズレばかり引く俺が、この時になって当たりを引かねばならないとは。
 けれどそのくじは始めから一本しかなかった、一本しか見えなかった。
 間違える未来なんて予想もしないから、勇気を持つ必要もなかった。
  


 「………………手、繋ぎましょうか?」



 手を固定するギプスはもない、火傷の傷痕はもうどこにもない。
 元通りになった右手を差し出して、厄神様に提案を持ちかける。
 お互いに止まったままで、何も言わなければ誰も動かない。

 その静寂を打ち破ったのは、他でもない彼女だった。



 「……………うん」



 そう頷いて、俺の手のひらの上に厄神様の小さな手が添えられた。
 一回りも二回りも小さい、俺とは違う女の子の手だ。
 ゆっくりと壊れないように握ると、向こうも握り返してきた。
 


 「…………やっぱり、大きいわね」

 「そういう厄神様は小さいと思いますけど?」

 「あなたが大きすぎるのよ」

  

 重力に引かれて落ちていく二つの手は、離れることはなかった。
 お互いに何も合図はなかったけど、でも歩調は合ったまま歩き出す。
 この手の形が、この手の温かさが、確かに横にいるということを実感させる。

 

 「あなたの右手、治ってよかったと思うわ」

 「あのままじゃ、何も出来ませんからねぇ」

 「そうね…………。こうやって、手を繋ぐこともできないもの」
 
 

 握りしめてきた手を、軽く握り返した。
 あとはもう、どうでもよかった。 

 
 
   
    







 夕焼けは常にその姿を変える、と言われるくらいに早い。
 見られるのは僅かな時間だけで、それが過ぎてしまえばもう真っ暗な空しか見えない。
 どこまでも広がる暗闇は、星の輝きとともに夜を伝えてくる。
 
 日が昇っていたころの熱気はとっくに無くなって、今はただ涼しい風が吹くばかりだ。
 そんな俺はただ何をするでもなく、柱にもたれかかって空を見上げていた。
 


 「湯冷めするわよ?」

 「それはお互い様でしょう」



 同じくして、空を見上げる厄神様。
 俺とは違って背筋を伸ばし、縁側に足を投げ出しながら並んで座っている。
 厄神様と俺との距離は、ほんの少し寄れば触れる位の絶妙な位置を保っていた。
 
 つかず離れずといったこの曖昧な距離は、今の俺と厄神様を表しているようで。
 はっきりしないこの感じは、お互いに何も言わないからなのか。
 言葉にするのが怖いからか、一歩踏み出せないからかもしれない。 
 分かっているくせに、知っているくせに。 

 

 「そう言って風邪をひいたのは誰かしら?」

 「誰ですかね?」

 「………馬鹿言わないでこれを羽織りなさい」

 「はい」



 別に寒くもないのだけれど、厄神様が言うのだから大人しく従っておいた。 
 先ほどの言葉の通りに前例がなかったわけじゃない、保身のためにもやっておいて損はないはずだ。
 そんな思惑とともに、恐らく渡すつもりで持ってきたであろう袢纏を身につける。
 ふと横を見れば厄神様も赤い袢纏を羽織っていて、それは大きさこそ違えど俺の袢纏と同じ形をしていた。
  


 「これ、いつの間に買ったんですか?」

 「作ったのよ」

 「え!?」

 「嘘よ」



 俺の質問をはぐらかす厄神様。
 俺の驚いた反応を見てか、クスクスと笑っている姿を見せた。
 こういうところは今になっても相変わらずだなぁと、少し昔を懐かしむ気分に浸る。
 

 
 「………夜空を見ることが多いけど、好きなの?」

 「別にそういうわけじゃないですよ」

 「ならどうして?」

 「外の世界じゃ、この光景は珍しいですから」



 縦に伸びた無機質な建物、武骨な鉄の塔、コンクリートで固められた高速道路。
 消えることのない人が作った光、酷く濁ったような空。
 それらが常にあり続ける向こうでは、遠くにある星を見ることなんてできなかった。
 プラネタリウムで見たあの光景は紛い物で、本物を見ることなんてなかったから。

 だからつい夜空を見上げてしまう。
 絶対に見れないはずものが、目の前にあるのだから。


 
 「見飽きたりしない?」

 「いいものは何度も見たくなるんですよ」

 「…………なるほどね」

 

 あの向こう側に何があるんだろうとか、いつか見た本のように誰かが見ているんだろうとか。
 夢とかロマンが詰まった遠い遠い向こう側へと、俺も行ってみたいと思った。
 俺の悪運が通じない、普通の人として生きることができる世界へ飛んでみたかった。
 探せば一つくらいは見つかるかもしれない、そう昔は考えていた。

 今は、そんなもの探さなくていい。 

 
 「例えば厄神様とか」

 「え!?」

 「嘘です」



 「…………………………」 
 
 「痛い痛い痛い!!」



 冗談をかましたつもりが、脇腹の肉を全力でつままれるという反撃に出会った。
 眼を細くして、いかにも不機嫌そうな表情でこちらを睨む姿は、間違いなく怒っているのは一目瞭然。
 思わず声をあげて叫ぶが、止めるつもりは全くないらしい。
 

 
 「ごめんなさい!俺が悪かったです!」

 「……………この嘘つき」


 
 謝罪の言葉が出た瞬間、すぐに手を離す厄神様。
 攻撃された箇所を擦りながら、明日その場所を見て痣になってないことを祈る。

 俺に攻撃を加えた張本人は、まだ不機嫌そうな顔をしてそんなことを言ってきた。
 それはあなたもでしょう、と言ったらまた同じことになるので口を噤む。
 痛いのがお好みでもなく、またいじめられることに喜びを感じもしない普通の人間なのだ。


 
 「…………あー、痛かった………」

 「……………………………ふん」


 
 そっぽを向く厄神様。
 ちょっとだけその仕草が可愛いと思ったのは、普段とは違う子供っぽい所を見たからだろうか。
 ともかく露骨にへそを曲げたものだから、それ以上何か言ってくることもないだろう。
 そして、こちらから何を言っても応えてくれることはない。



 「………………」

 「………………」



 俺もそれ以上何か言うこともないもんだから、お互いに無言が続く。
 厄神様は別に気まずいってわけじゃないけど、怒った手前で話しかけるのも癪にさわるのか。
 時折こちらを見る癖に、やっぱり止めるという引っ込み思案みたいなことを繰り返している。
 
 視線を合わせてみれば、あわててそっぽを向く姿が可愛くて仕方ない。
 近づきたいくせに近づこうとしない、興味はあるくせにやたら警戒心の強い猫のように見えた。
 脳内で勝手に厄神様に猫耳と尻尾を組み合わせてみると、それは思いのほか可愛かった。
 ……………かなり似合いそうだ。
 

 
 「………猫神様か」

 「………何か言った?」
  
 「いいえ、何も」 
 


 どうやら考えていることが口から出てしまったらしい。
 厄神様には聞かれなかったらしいが、逆にそれが聞こえなかったことで警戒心を強めた。
 何か言われたと勘違いでもしているのか、先ほどよりも不機嫌な顔をするようになった。
 逆にそれが微笑ましくて、ますます猫に近づいていく様を見て、少し笑ってしまう。



 「………何を笑ってるのよ」

 「別に、なんでもないですよ。…………ただ、可愛いと思っただけですよ」

 「………………もう騙されないんだから」



 夜はまだまだ長い、今日は終わらない。 
 
 
 
  
 
 
  






  
 




 


 日付がそろそろ明日になろうという頃になっても、厄神様は機嫌が悪かった。
 よくもまあ続くものだと感心するが、いい加減こちらが見ていない時にチラチラ見てくるのはどうにかならないものか。
 冗談でもちょっとやりすぎたかもしれないと思い、厄神様に向き直って問いかけてみる。
 


 「……………何よ」
 
 「いい加減機嫌直したらどうです?」

 「別に、そんなんじゃないわよ」



 もう騙されないという発言の通り、聞く耳を全くもたないらしい。
 困ったものだ…………………間違いなく自分のせいだけど。
 とはいえどもこのままだと何も進展しないので、さてどうしたものか。



 「いいわよ、私はすぐに見飽きる女よ」
 
 「子供じゃないんですから………」

 「子供でいいわよ」


 
 完全にいじけモードに入った厄神様。
 縁側の上で体操座りの姿勢で、頭を下げて完全に自分の世界に入ろうとしている。
 明確な拒絶の意思を見せるもんだから、ますます子供っぽく見えて仕方ない。
 どんどんそうなっていくなぁ、と他人事のように眺めていたいがそうもいかない。
 
 明日の食事の当番は俺ではない、つまり明日は断食の可能性もある。
 水一杯で過ごす過酷な減量を強制的にせねばならない、そんな未来は回避せねばならない。
 ならばこのまま寝てしまうという、そんな選択肢はありえなかった。



 「子供って年じゃ……………」

 「……………女性に年齢の話をしないで」

 「ごめんなさい」


 
 とはいっても状況は悪化している、悪化させてしまっている。
 ますます落ち込む厄神様を見て、何かいい方法はないものかと考える。
 下手に口を滑らせば機嫌をさらに損なわせかねない、リスクのことを思うと止めた方がいいと判断する。
 じゃあどうするのか?ということに対して出てきたものは。
 

 「厄神様、何か願い事ってありますか? 俺が叶えますから、言ってくださいよ」


 
 厄神様の願望を叶えてあげることだった。
 神様の願っていることを人間である俺がやってみせるという、なんとも傲慢に似たことだけれど。
 少なくとも、これ以上に何があるかといっても特に思いつかない。
 物で釣るとか、立ち直らせる言葉をかけてあげるとかあるだろうけれど、俺はそこまで上手く立ち回れる気がしなかった。
 厄神様のことについてまだまだ知らないこともあるから、下手に地雷を踏むよりはという安全策だ。

 骨なしチキン……………カーネルクリスピーであることは否定しない。


 

 「………………」



 しかし厄神様は何も返してはくれない。
 もはや俺の声さえ届かないくらいに、心を閉ざしたのか。
 手遅れ、何もかも後手後手だったのが敗因だったのだろう、と今になって後悔する。

 先ほどの体操座りで、頭を膝につける体勢を変える素振りすらない。
 ああ、やらかしたかという思いが募り、こりゃ明日は水オンリーかもしれない陰鬱な気分になる。
 しかしもうやれることもない、ここまでかと諦める方向へと考えはシフトしていく。
 もう終わりだ、寝ますか。
 明日になっていたら元通りになっている、という僅かばかりの期待を持ちながら立ち上がる。

 
 
 「……………もう夜も更けたので先に寝ますよ。厄神様、おやすみなさい」



 返ってくる言葉はやっぱりなくて、また少し期待していたから傷ついた。
 挨拶をして、厄神様を横切って寝室へと向かう。


 しかし、完全に彼女を通り過ぎたときに厄神様は喋った、そして動いた。
 聞き間違いじゃない、都合のいい妄想じゃない。


 
 「…………願い事なら、あるわ」
 
 

 そう呟いたのは、俺を呼びとめたのは、まぎれもない厄神様だ。
 俺の裾を掴んで、勝手に行くなと止めるかのように。
 まだ終わっていない、これからなんだ、今から始まるんだと言わんばかりに。
 ギュッと握られたその強さが、それを物語っていた。
 

 「……………本当に願っていることはあるけど、でもそれはあなたにお願いしちゃいけないことだから。
  私自身で叶えなくちゃいけないことだから………………だから今は、違うことを願うわ」

 「……………では、何を願いますか?」


 手に入ることが出来るのに、あえてそれを見逃すということをした。
 最短距離で掴めるはずのものを、わざと遠回りしてから掴みに行くという非効率な選択をする。
 自分自身の手で叶えなければならないというのは、何ですか?
 でもそれを聞いたところで、厄神様は答えてはくれない。
  
 もどかしいけど、でもどうしようもない。
 俺は、厄神様の願いを叶えると言ってしまったのだから。 
 だから、俺はその責任を果たさなくちゃいけない。 


 
 「…………いつも厄神様って呼んでるわよね。私のことを、これから名前で呼ぶようにして。
  ――――――――――"厄神様"なんて呼ばないで」

 
 「はい」


 「敬語も止めて、あなたが一番楽に喋れるようにして。……………変に畏まらないで、普通に喋って」

 
 「…………分かりました…………いや、分かった。これからそう呼ぶよ、厄じ…………雛」



 約束通り願いを叶えた。
 そうするって決めた以上、覆すわけにはいかない。 
 他でもない彼女がそう望むのだから、その効力は絶対だ。


 「……………もう他人行儀な呼び方も、喋り方も止めてね」

 「分かってるよ、もう呼ばないから」 
 
 「……………ふふ、信じてるわよ」
  
 
 今思えば、これがきっかけだったのかもしれない。

 




  
   
  
 
 

 
 

 あの一件以来、厄神さ………………雛は少し変わった。
 具体的に何がと聞かれると、前よりも積極的になったような気がする。
 確か手を繋いで帰ったあの日は俺から手を繋ごうと言ったのに、今では向こうから勝手に繋ぐようになった。
 それが例え人がいようと、いなかろうと関係などない。
 むしろそれを見せびらかすようにするもんだから、あらぬ噂が立つようにもなっていく。

 曰く、"厄神様と一緒にいる輩と付き合っている"とか。
 いや、"実はもう、結婚までしていて同居している"とか。
 
 嘘ばっかりじゃないかとは否定できない要素があるのが、また何とも恐ろしい。
 微妙に的を得たようなことを言われると、否定しようにも否定しにくい。


 まあ、そんなことに対して今更とやかく言われたところで、別にどうともしないんだけど。
 
 
 
 「新聞書いてる烏天狗に聞かれたよ、雛と付き合ってるのかって」

 「…………へぇ、そうなの」


 
 なんでもないというような素振りをするが、残念ながら目が泳いでいる。
 目は口ほどに物を言うという諺があるが、まさしくその通りだった。
 私は嘘がつけない正直者ですと、自分から宣言したようなものだ。

 
 
 「……………一応聞くけど、どう答えたの?」

 「付き合ってるって答えたよ」



 「……………嘘つき、またそうやって騙すつもりでしょ?」
 
 「バレたか」


 しかし動揺していても、残念ながら俺の嘘は見破られた。
 どうも最近、雛は俺の嘘を見破るようになってきている。
 今はまだだけど、いつの日か俺が一方的にやられる日も遠くない気がする。
  


 「"今は"そういうのじゃないですよ、って返しておいたよ」

 「…………………そう」

 「照れた?」

 「…………馬鹿じゃないの」
 
 
 真っ赤になって否定する雛は、やっぱり可愛かった。
 それを指摘するともっと真っ赤な顔して怒るんだろうけど、俺から見れば可愛さが更に上がるだけだ。
 今だってそう、そっぽを向いて罵倒の言葉を浴びせるその姿に、心揺らいでいるんだから。
 
 

 「そもそも厄神と一緒にいる大馬鹿野郎なんだから、今更じゃない?」

 「…………………そうね、確かに馬鹿だわ。救いようのない超ド級の馬鹿ね、後にも先にもあなただけよ」

 「酷い言われようだ」


 
 「そして私に対してただ一人だけ、優しくしてくれる馬鹿よ」
 


 未だ顔を真っ赤にしたまま、笑顔でそう答えるもんだから。
 だから、その笑顔に俺は釘付けで、目が離せなくて。
 俺が大好きなものが目の前にあるもんだから、何も考えられなくて。
 


 「……………なんだよ、馬鹿馬鹿言いすぎだろ」



 それだけしか返す言葉がなかった。
 それだけしか返せなかった。
 それだけしか出てこなかった。

 でも、それだけで十分だった。
 他のどんな言葉よりも、多分これでいいはずだから。
 いつも通りの俺なら、同じことを言うから。 
 


 「自分で言い出したんでしょ?」

 「そうだけどさ、それでも心にくるというか…………」 

 「………じゃあ後で慰めてあげるから」

 「あ、そういうのいいです」



 いつかと同じように、神様のご厚意を無下に断ると、ちょっとだけ悲しそうな顔をした。
 そしてあの日みたいに、次も似た言葉が繰り返される。
 あの日は聞かないふりをしたけど、本当は嬉しかったんだ。
 なんてことを言ったら、また彼女は顔を赤くするだろうか?
 ………………考えるまでもないか。



 「遠慮しないでいいのよ?あなただけ特別だから」

 「特別も何も、俺しかいないんじゃないの?」

 「専用って意味じゃ、確かにその通りかもしれないわね」

 
 「私の隣は、常に一人しかいない。あなたの隣も、常に一人しかいない。………お互い様なのよ、私たちは。
  あなたがいれば、私はもう一人じゃない。私がいれば、あなたはもう一人じゃないから」
  

 「違いない、だって俺たちはお互いのことが――――――――――」

  
 
 繋いだ手を離しはしない、離すものかと強く思う。
 だって俺は、雛のことが―――――――――――





 
 「「好き」」






 
 どちらともなくその言葉が出たのは、ただの偶然か。
 それとも雛の言った通り、俺たちが"お互い様"だからか。
 少なくとも考えていたことは同じ、ということらしい。
 


 「…………本当の願い事、叶ってよかったな」

 「うん」



 
 またいつも通りが始まる。
 日が昇って、月が出て、また日が昇って。
 春が過ぎ、夏が終わり、秋が来て、冬を越えて、また春がやってくる。

 そうして過ぎ去っていく日々を、雛の横で見ていくのだ。
 この悪運が尽きぬ限り、ずっとそうあり続けるのだ。



Megalith 2013/05/21
──────────────────────

 
 見慣れない景色、知らぬ道、何処かも分からない場所。
 そんな場所をただひたすらに駆け抜けている。
 
 息はとうの昔に切れ、鉛のように重くなった足は悲鳴を上げ、今にも休ませろと体は訴えかけてくる。
 しかしそんな余裕はない、立ち止まればそこらに転がっている何か、元の原型さえ分からない残骸のようになる。
 こんな碌でもない場所で死ねるか、という思いが立ち止まるということをさせない。

 アスファルトのように整地された場所でもない、小石や木の根、ぬかるんだ地面、それは走るにはあまりにも不適切。
 何度も足を取られそうになりながらも、なんとか体勢を立ち直らせて走る。
 今止まったらもう走れない、そうなったらもう終わりだということは、嫌でも理解している。
 どこに行けばいいのかなんて分からないけど、この山を抜けるしか方法はなかった。

 

 「はぁはぁ………………っはぁ……………」


  
 後ろから薙ぎ倒されていく木々の音、それは死が確実に迫ってきていることを知らせていた。
 ゲームや本といった空想上にしかありえないであろう怪物は、俺との距離を付かず離れずといった具合で追ってきている。
 撹乱や隠蔽のためにあえて木々の立ち並ぶ場所をジグザグに回っているが、以前奴とは何も変わっていない。
 目がいいのか、鼻が利くのか、この場所を知っているのかは知らないが、どちらにせよ思惑は外れた。
 
 右も左もわからない状況でどうする、なんて言われても何も思いつかない。



 「どうする…………?」


 
 この木々を抜け、奴の速度が上がれば俺は死ぬかもしれない。
 ではこのまま走り続けてもジリ貧、今度は俺の体力が無くなる。
 武器などない、丸腰の状態では何かの策を立てることも出来やしない。
 
 視界の先の光る何か、聞いたことのある音。
 わずかな可能性に賭けて、俺はそっちに向かって走り出す。
 助かるという保証などなく、追い込まれるかもしれないという危険性だって充分に考えられるけど、他に方法などない。
  
 辿り着いたその先、信じてみたその結果は。

 

 「………………川か」



 この上流の方からここまで来たのだろうか、人が渡るには少々難しい川が流れていた。
 濁っておらず、透き通って底まで見えるその川は綺麗で、このような状況でなければ休むには良い場所だった。
 しかし流れが急であることと、川の真ん中がかなり深いことは、今の俺にとっては死活問題だった。

 奴も追ってきている以上、もう引き返すことは出来ない。
 この川を渡るしかないのに、渡りきれるかは分からない。
 
 音はどんどん近くなってきている。
 考える余裕はない、勇気を出して進むしかない。 


 
 「――――――――――――冷たっ!」



 火照った体を冷やすにはいいだろうが、長い時間使っていると体力を削られる。
 向こうにたどり着くまでに、一体どれだけ流されるかは完全に運任せ。
 急がないと、という思いが俺を突き動かす。

 だからだろう、奴の動きを見逃したのは。
 カタパルトのように投擲される大木、ターゲットは俺。
 見えていれば避けることもできたかもしれない、けれどこの水場で足は取られ、背を向けた状態だ。
 奴との距離を見るために振り返ってみれば、もう避けられない位置にまで大木は迫ってきていた。


 
 「―――――――――――――――――!!!」



 言葉さえ出ない、その一瞬のうちに両手を体の前に折り曲げて出してブロックしたのは、とっさの判断か。
 しかしそれに反応できたとしても、大木を防ぐことなんて出来はしない。
 その衝撃に耐えきれずに足が倒れこむ、滑らす、支えをなくした体が沈んでいく。
 バシャンという水音を最後に、上下左右の感覚も分からなくなっていく。
 ヤバい――――――――――そう思った時にはもう意識を失っていた。

 
 















 ―――――――――――――――――――――何かしら、あれ?


 
 

 ―――――――――――――――――――――――――人間かしら、もう息はないよう…………





 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――え?





 ――――――――――――――――まだ、生きている?

















 「―――――――――――――――起きたかしら?」



 目が覚めてみれば、知らない女性がこちらを覗きこんでいた。
 ………………美人だ、ということに気がついたのが一番最初で。
 ここはどこなのか、ということが次に思いつく。

 それを告げようとして声を出そうとするが、喉はカラカラに乾いていて何も出なかった。
 だから体を起こそうとして力を込めるが、上手く力が入らなかった。

 

 「あっ、体を起こそうとしないで……………あなたの体は、まともに立てるような状態じゃないのよ」



 軋む体は、寝ている体制に戻すだけでも少々の痛みを伴った。
 だからといって余計に痛がって動かす分だけさらに痛みが出る、じっと我慢するしかなかった。
 目を動かしてみれば、先ほどの彼女が水を入れた容器をこっちに向けてきていた。

 
 「水よ、まずはこれを飲んでゆっくり休んで」


 寝ていても飲みやすいように改良されたであろう容器の口を、ゆっくりと俺の口の前まで持っていった。
 少しだけ傾けられたことでちょっとずつ水が出始め、俺の喉を確実に潤していく。
 喋られる程度には喉の渇きもなくなったことで、彼女に向かって問いかけることにした。


 「ここ、は?あなた………は?どう、やった………ら――――――――――――」

 「待って、そんなに一気に問い詰められても答えられないわ。それにあなたは怪我人、本来は喋ることもしないほうがいいのよ?」


 そう言われて、それ以上何か言うことを止めた。
 目の前にいる彼女の言うことは尤もだ、反論しようにも反論できる材料が何もない。
 やんわりと止められてしまうと、その勢いを削がれてしまったということもある。
 何より、思ったより自分の体は重傷らしいということを、やっと実感した。
 喋るのでさえ結構つらいという、本来当たり前のことさえも満足に出来そうにないから。


 
 「まずここは私の家、そして私は鍵山雛。あなたは川に流れていたところを私が見つけた、そして助けたの。
  …………ここまではいい?」



 僅かに首を縦に振って彼女にアピールする。
 …………なるほど、流れ着いた俺を助けてわざわざここまで運んできてくれたらしい。
 俺は男性の一般的な体重だが、一人の女性がよくここまで持ってこれたものだ。
 見た限りだと彼女は特別力持ちには見えないが、実は結構な怪力を持っているのかもしれない。

 あるいは、彼女も人外か。

 

 「見慣れない服装をしているけれど、あなたはここに住んでいる人かしら?」


 
 今度は首を横に振る。
 よく見れば、彼女の着ている服はあまり見慣れない服装をしていた。
 というよりも彼女自身の髪型も今までに見たことがない珍しい髪型だった。
 フリルのついた赤いドレスのようなもの、同じくフリル付きのヘッドドレス。
 エメラルドグリーンの髪を全て前で結び、一本にまとめている。
 俺の見る限りだと、そんな恰好をして出歩く人は今までに見たことがない。

 しかし対照的に俺はどこにでもありふれたような服装。
 現代人がよく着るような服で、動きやすいくらいで特徴はあまりない。
 少し外を歩いて人ごみに紛れれば分からない、そんな格好だ。

 しかし彼女はそれを"見慣れない"と言った。
 そこから導き出される結論はいくつも浮かぶけれど、確信めいたものがあるのはトンデモな推論だった。
 信じたくはない、だってそんなこと普通はあり得ないことだから。
 
 でも、畏敬の怪物から逃げるというあり得ないことが起きていたのもまた事実だ。


 
 「そう、あなたは外の人間なのね」


 
 そう言われても、驚いて体を動かさずに済んだのはよかったことなのか。
 それとも、悩みの種と新たなる疑問が出てきたことを悲しむべきか。
 けれど、今確かなのは。

 俺は生きている、まだ死んでいないってことだ。
 それが分かれば、少しだけ安心した。
 

 
 「寝るのかしら、次に起きたらもう少しお話ししてあげるから。………………だから、今はゆっくり休んでね」



 頭を撫でられる感触。
 普段ならそんなことされたら手を跳ね除けるのだけれど、その時はそんなことを思わなかった。
 助かった自分が褒められたようで、よく頑張ったと言われたようで。
 きっと、手が動いても大人しくしていただろうと、そんなことを思った。






















 「…………厄を集める?」

 「そうね、私の役目。厄を集め、それを人間に戻らないように見張っている。そして、私の周りにいる者は必ず不幸になる」

 

 怪我もある程度治ったある日、彼女もとい厄神様についての話を聞いた。
 何をしているのか、そしてその正体を見定めるために。
 結果として分かったことは、彼女は厄神と呼ばれる妖怪であり、人間の味方だということ。
 
 厄を集め、それを元の場所に戻らないようにしている。
 だが、あらゆるものを不幸にするという力を持ってもいる、ということ。
 
 

 「…………あなたも、厄が取り巻いているわ。普通なら十回以上死んでいるくらい、どうして生きているのかが分からないわね。
  この前の怪我でも医者が見たら、三回は死んでるらしいわ。運が強いというよりは、悪運が強いと言った方がいいのかしらね」
 
 「…………碌なもんじゃないですよ」

 「でしょうね」

 

 厄が呼び寄せたトラブルを、自らの悪運で回避する。
 俺自身は助かる、とはいっても無傷ってわけでもない。
 周りは避雷針などと考えればいいのだろうが、俺にとって俺とは疫病神と同じだ。

 
 「すぐにでも人里にあなたを送りたいのだけれど、それ以上にあなたの厄が多すぎる。
  厄神としてはそのままにはしておけないわ、厄を取り除いてからじゃないと」

 「…………じゃあ、それを取り除けば」


 「そう、あなたは"悪運が強いだけ"の人間になるわね」
 
 

 …………まさかここにきて不運ばかりの俺が、常人と同じようになる機会が与えられるとは。
 行く場所がどこであろうと地獄巡りでしかなかったはずなのに、やっとそうじゃなくなる。
 そう思うと、目の前の厄神様は女神様以外の何物にも見えなかった。

 神など信じたことはなかったけど、厄神様ならば一生信仰し続けてもいい。
 本気でそう思った、これはずっと変わらないと確信めいたものを感じ取る。

 

 「じゃあ、今すぐにでも――――――――――」

 
 「ええ、じゃあ始めましょうか」



 さらば災厄。
 もう二度と会うことはあるまい。













 ――――――という期待は、数日後になって裏切られた。
 どうやら、定期的に厄を取り除かれねば、また災厄が降りかかるらしい。
 彼女曰く"体質"だという。
 
 とはいえども、そのおかげで普通に暮らせるようになり。
 彼女の元を離れ、人里に住むようになった。
 
 そして、厄神様はまた一人になった。



 
 
  
 
  



 








 「あなた、本当に変わっているわね」

 「それは俺自身についてですか?」

 「そうね」

 

 風の吹く丘で、足を投げ出して両手を枕にして寝転がっている。
 久しぶりの晴天、部屋に閉じこもっていることが最近は多かったから新鮮な気分だ。
 昨日まで空を覆っていた雲はどこかへと消え、青々とした空が広がっている。

 俺がもし飛ぶことが出来るのなら、どこまでも飛び続けたいと思うくらいに。
 けれど一人で飛ぶにはつまらない、どうせなら隣にいる彼女と飛びたい。
 いつも表情を変えない厄神様のいつもの違った顔を、見てみたいと思うから。

 
 
 「少なくとも、自分から私と関わろうとする人間はあなた以外知らないわよ。
  ―――――――――何度警告したところで意にも介さない、そんな人間はね」



 ちょっとだけ棘のある言葉でそう答えたけれど、本心は別のはずだ。
 なんとなくだけど、隣にいる厄神様の雰囲気で分かる気がしたから。
 勝手な予想、でも多分間違っていないはずだと思うのは自惚れだろうか。
 

 
 「あなたは、何を考えているの?」

 「特に何も考えてないですよ、何も」


 
 正直な考え。
 それをそのまま厄神様にぶつける。
 言葉通り、俺は何も考えてなどいない。

 ただ心向くままに、その場の気分や考えでそれを選んだ。
 何をどう思ったとかそういうことではなく、知らず知らずにその選択肢を選んでいた。 
 その気持ちがどうしてなのかは説明がつかないけれど、それでも確かだと言えることはある。
 
 

 「………本当に分からないわね、あなた」
 

 
 先ほどとは打って変わって、少し困ったような声調になる厄神様。
 どうしてそんな表情をするのか、俺はその理由を知っていた。


 
 「ねぇ、知ってるでしょう?私と一緒にいるだけ、あなたに不幸が降りかかる。
  それでいいの?私を忌避する人も妖怪もいるというのに」

 「いいんですよ、俺がそうしたいから」
 

 
 また同じことを言われるであろうから、そうなる前に結論を打ち出す。
 何度も繰り返された議論をわざわざ蒸し返す必要はない、だからもう一度答えを提示しておくことにする。



 「俺は厄神様と一緒にいて楽しいんですよ。それじゃ理由になりませんか?」


 
 厄神様に助けられて、女に厄を取り除いてもらって、普通の人間に戻ったことで恩返しをしたいと願った。
 でもそれはいつしか、彼女と出会う度に楽しいと思うようになった。

 理由などそれくらいしかない、それ以上に何も返すことはできない。
 上手い嘘でもつけるならばつくかもしれないけれど、残念ながら俺には無理だ。
 馬鹿正直に答える他に何も持たない、だからそう答える以外に術を持たない。


 
 「………馬鹿ね、本当」
 
 

 呆れた口調、でもなんとなく思っていることは違うはずだ。
 そう考えてしまうのはただの思い込みや妄想、願望の形なんだろうか。
 けれどそうは思えない、と直感で受け取った自分の心はそう言っていた。
 だから自分を信じる、厄神様の言葉を無視して。
 

 
 「確かに馬鹿ですよ、俺は」

 

 自分の心に嘘はつけない、つきたくはない。
 わざわざ偽るのも面倒だ、その必要も分からない。
 
 

 「でもそれでいいんですよ、変に賢くなるよりは」

 

 捻じ曲げてしまうよりも、素直でいたほうが楽だから。
 そうやって苦労するよりも、ずっとずっといいはずだから。
 手を伸ばせば届くであろうものに、手を伸ばさないのはもう嫌だ。

 

 「………苦労するわよ、あなた」


 
 その通りだ。
 嘘が上手くつけないから、人間関係だって上手くいかない時だってある。
 馬鹿正直さが時に裏目に出ることだって珍しくは無い、そういうものだと分かっている。
 だとしてもだ、これまで築き上げてきた自分を変えられるものだろうか。
 

 
 「ええ、分かっていますよ」


 
 無理だ。
 そんなに簡単に人が変わるのならば、今みたいに苦労もしないだろう。
 今までのことを含めて、これまでを振り返ってそう思うから。
 
 

 「でも、ちゃんと言いたいことを言えないよりは遥かに良いと思っていますから」

 

 それが人を傷つけるとしても、他人から嫌われたとしても。
 自分のしたいことを諦めるくらいならば、後悔するくらいならばマシだと思っている。
 やらないでいるままならば、いつまでいても前には進まないから。
 可能性を全て閉じ込めてしまうくらいなら、僅かな希望にだって賭けてみる価値はある。

 そうやってここまで来たんだ、ここに辿り着いたんだ。
 


 「………」



 答えは無い。
 けれどそれでいいと思う。
 返してくれると期待してるわけじゃない、ただ伝えたいだけなんだ。



 「何度でも言います。―――――――――俺は、厄神様を無視なんてできません」


 
 自分の気持ちを、厄神様に。
 これだけは譲れないから、例え他のどんなものだろうと。

 厄神に対するタブー。
 『見かけても見てない振りをする』『同じ道を歩かない』『自分から話題に出さない』

 他にもいろいろあるけれど、それは誰が見ても酷い仕打ちだった。
 助けてもらっておきながら、そんなことを平然とまかり通ってしまうことが嫌だった。
 だって、そんなのあんまりじゃないか。
 "えんがちょ"と言おうとしてしまった時の、あの悲しそうな顔をもう見たくないから。



 「………馬鹿ね、後にも先にもあなた以外の馬鹿はいないでしょうね。でも、そんなあなただからこそ………………。
  ………………いえ、なんでもないわ」
 
 

 分かっていることだったけど、当然信用して貰えないことは分かってはいた。
 人にも妖怪にも除け者として扱われる厄神様、でも近づく者がいないわけではない。
 彼女にとって害をもたらす者、彼女を利用しようと画策する者。

 良い人のフリをして彼らは近付くけれど、皆その結末は過程こそ違えど同じ結果になっていた。
 自業自得とも言える行いだけど、それを全部見ていた彼女は何を思うのだろう。
 そいつらが悪い奴だと気がついても、気がつかなくてもだ。

 近付くことを恐れるのは、ごく当然の反応だと思う。
 どちらも不幸になると分かっているのなら、向こう側で眺めていたほうがお互いにとって不幸ではないから。
 
  

 「いいですよ、今は信じて貰えなくても」
 

 
 だとしても、俺は触れ合いたいと願った。
 向こう側で眺めているだけはつまらないから、その向こう側へと辿り着きたいと思ったから。
 今は例え無理だとしてもだ、どんなに遠まわりをしても最後に着くことが出来ればそれでいい。
 だから俺は諦めない、最初の踏み出した一歩を無かったことには出来ない。

 寝転がっている俺とは違って、座ったままでいる厄神様の後姿からはその表情を伺うことはできない。
 どんな顔をしているのかは分からない、いつもの無表情なのかさえも区別がつかない。
 
 

 「………そう、頑張ることね」



 でもその声でなんとなく分かった気がした。
 何かを期待するような、そんな声で。
 それが幻聴だったとしても、都合の良い勘違いだったとしても止める理由には足らない。
 もしそうならはっきり言って欲しい"あなたが嫌い"だと。

 厄神様にはちゃんとそれを伝えたから、本当に嫌いならそう言うはずだから。
 遠慮なくそう言って欲しいと言ったから、隠す必要はないとそう告げたから。
 だから言わなかった彼女を信じる、それだけ。

 

 「それよりも、もう休憩はいいのかしら?」

 「………そうですね、そろそろ戻ります。さようなら、厄神様」


 
 もうそろそろ仕事場に戻らねばなるまい、昼の休憩はそうは長いわけではない。
 ちょっとした合間にこうして厄神様を見つけては、取りとめのない話をする日常だ。
 一時間にさえ満たないけれど、それでも日常の楽しみの一つになっている。

 それが終わりを告げると知って少し悲しくもなったが、これが最後ではないと心に聞かせて立ち上がる。
 厄神様に背を向けて、踏み出そうとしたその足を出す前に。


 
 「明日もこの場所にいるから………来たいのなら、好きにしなさい」



 最後の言葉は掠れて聞こえにくかったけど、その言葉を聞き逃したりはしなかった。
 それが持つ意味について思うことはいろいろあるけれど、確かに分かることが一つある。
 明日もまた、この場所に来てもいいんだということ。
 厄神様は、待っているということ。
 


 「分かりましたよ、厄神様!」


 
 その場で振り返って、ちゃんと聞こえるようにもう一度伝える。
 返してくれた言葉をそのままにはしない、答えてくれたならば返答しなければならないから。
 少しでも届いた、その思いを受け取ってくれた厄神様に。

 行こう、早く今日という日を終わらせて明日を待とう。
 明日になれば、また厄神様に会えるから。
 早急に済ませねばならないことが出来たから、明日のために。

 

 「………待ってるから」
 


 
 その言葉が、さらに俺をやる気にさせたから。
 頑張ろう、今日を。
 いつもの顔をした厄神様は俺に手を振って、それを背にして俺は仕事場へと向かった。


 その日以来、厄神様の態度も徐々に軟化していった。

 そして―――――――――――――――――。

 








 後日、俺の家が無くなった。










 「よく燃えたわね」

 「キャンプファイヤーにしちゃ、随分と豪勢すぎますけどねぇ」

 「全くね」
  
 










 










 懐かしい夢を見た。
 あれからどれだけの時間が、月日が経ったのかを数えていなかった。
 今までは数える暇さえなかったから、数えることさえも忘れてしまったからだろう。

 この世界は残酷だという。
 決して俺に優しくないというのは、もう思い知っていることだから今更知る必要もない。
 でも世界は優しくなくても、住人は優しかった。
 いや、ずっと優しかったのは、尽くし続けてくれたのは一人だった。

 そうだ、この扉の向こう側にいる――――――――――――




 「………何してるの?」

 「あ、あの………これは、ね……………」



 珍しく朝に起きて雛に声をかけてみれば、引き出しの前で何かを漁っていた。
 手に持っていたそれを隠すかのようにしているけれど、残念ながら見えてしまっている。
 慌てて俺の方に向きなおって後ろに隠すけれど、その正体を知るには充分な時間だった。

 

 「カチューシャ?」

 「……………!!」



 目を見開いて驚いて見せるもんだから、俺の予想が当たったのだと理解した。
 あまりにも分かりやすい反応は、こちらとしても見抜くのに労力を必要としないのでありがたい。
 雛からすれば"どうして?"でいっぱいなんだろうけど、一度自分を見てみることをお勧めしたいところだ。


 
 「な、何のことかしら?」

 「…………今更それで隠そうってのは無理じゃないかな」

 「………………」



 必死にしらを切ろうとするけど、子供さえ騙せない騙しをしてみせた。
 そんな反応に思ったことを突っ込んでみれば、言い返すことのできない雛ができた。
 目線をそらして、明らかに居心地が悪そうにしているその姿は、先生に悪事がばれた生徒のようだった。
 
 
 
 「………まあ、別にいいけどさ」

 

 そう言うと、ホッとした表情を見せる雛。
 いくら一緒にいるからとはいえ、何もかもを見せるのとはわけが違う。
 他人に言えないことの一つや二つ、誰しもが抱えていることはある。
 
 不用意な詮索は無用であり、必要以上に問い詰めることは亀裂を生みかねない。
 だから強くは言えない、言いたくはない。 


 
 「先に居間に戻ってるよ、雛」

  
  
 それだけを言い残して、その場所を後にする。
 雛が何故カチューシャを隠したのかが気にはなったけれど、それを敢えて見て見ぬふりをした。
 好奇心は猫をも殺すと、自分に言い聞かせながら。

 




 
 
 







 「………似合う?」

 
 
 さて、これはどういうことだろうか。
 風呂から上がって居間に戻ってみれば、雛がこっちを向いて感想を求めてきた。
 いつもと比べて何か変化があるかと言われれば、二つの点を除けばいつもと変わらない。

 猫耳のカチューシャと、後付けの尻尾ということに目をつむればだが。
 

 
 「……………どういうこと?」


 
 いろいろ考えてはみたけれど、意味がわからなさ過ぎて混乱した。
 どういうことなのかを問い詰めるために、雛にこの行動の意味を聞いてみる。
 今日はいつも通りだったのに、何故今更になって猫耳を付け始めるなんてしたのかを。
 


 「………あなた、猫が好きなんじゃないの?」

 「………よく分かったね」

 
 
 雛に自分の好みを当てられた。
 一度もそうだとは言ったことは、俺の記憶が正しければなかったはずだ。
 どこでそれを聞いたのか、知ったのか、それは分からないけれど。
 俺の好みを理解してくれて嬉しい、そう思ったのは確かだ。
 
  
 
 「あなたの貸してくれた本、猫がいたでしょ? 他の本もそうだし、そうなのかなって」

 「…………ああ、そう言えばそうだった」


 
 いつかの厄集めのときに寄った人里で買った、あの本も一行目でいきなり猫が出ていた。
 他の本も、意識したのか無意識なのかは忘れてしまったけれど、大半が猫が登場している。
 好きかと言われれば、好きなのだとはっきり答えられる。
 ただ、それをあまり気にしていたかと言われれば、別にそういうわけでもない。
 雛にそう言われて、今やっとそれに気がついたというくらいだ。
 

 
 「それに、私のこと猫神様って言ったでしょ?………あなたは覚えてないかもしれないけど、ちゃんと聞こえてたのよ?」

 「よく覚えてるなぁ」

 「あなたのことだもの、忘れるわけないわ」


 
 確かに、猫神様と言った気がする。
 近づきたいくせに近づこうとしない、興味はあるくせにやたら警戒心の強い猫のように見えて。
 脳内で勝手に厄神様に猫耳と尻尾を組み合わせてみると、それは思いのほか………。

 …………………そして、目の前にあるのは。



 「それで、どう?」

 「うん」


 「可愛いよ、雛」



 あの日の思い浮かべた景色と今の景色が重なっていく。
 それはあの時に思ったことと間違ってなくて、今も変わらなくて。
 そうだ、確かあの時も俺は、猫耳を付けた想像上の雛を可愛いと言ったんだっけ。
 雛はそれを知らないから、まともに取り合おうとしなかったけれど。
 
 

 「………そう言ってくれて嬉しいわ。猫を飼うことは出来ないけれど、でもその気分くらい味わってほしかったから………」
 
 
 
 俺たちは厄と切っても切れない存在だ。
 二人は厄があっても生きていける、けれど他は厄を纏ったままじゃ生きてはいけない。
 災厄、不運、事故、悲劇、悪夢。
 いくつもの死に至る事例が、次々にやってくる場所にいれば、遅かれ早かれ死ぬことは間違いない。
 
 俺の隣にいるのは雛、雛の隣にいるのは俺。
 …………………そういうことだから、それ以上もそれ以下もない。
 
 
 
 「…………だから、その…………………」

 「うん、分かってるから――――――ありがとう」
 

 「……………………」



 それは向こうも理解している。
 拠り所が俺しかないということも、行く場所も帰る場所も全部同じなんだということも。
 でもそうやってずっと同じにあり続けたからこそ、彼女のことが見えてくる。
 大小の差こそあれど、結局は俺のことを考えているということに。
  
 

 「…………………に」

 「に?」

 「…………………………………にゃー………………」 


   
 この反応も、俺を思ってのことだろう。
 可愛い。
 
 消え入りそうな声と、羞恥で一杯になった真っ赤な顔と。
 招き猫のような仕草をしながら、俺に猫の真似をしてみせた。
 
 
 

 「…………………」




 なんとなく頭を撫でてみる。
 カチューシャが外れない程度の強さで。
 本当に、猫を撫でるかのように。



 「………………にゃー」


 
 やっぱり、可愛かった。 
 

 
 
 「…………………」


 
 雛が俺にすり寄る。
 胸に頭を擦りつけ、自分のものだと主張するかのように、マーキングするかの如く。
 くすぐったいけれど、跳ね除けようとは微塵も思わない。

 雛は、最近よく甘えるようになった。
 今まで一人だった寂しさをぶつけるかのように、自分の居場所を示すかのように。
 
 俺が呼び方を変えたことで、変えさせられたことで、一歩踏み出す勇気が出たのか。
 溜めこんだものを一気に吐き出すかのように、感情や行動、言葉で俺に投げかける。
 そんな雛の変わりように最初は驚いたものだけれど、でも嬉しかった。

 "警戒心の強い猫"という比喩は、俺に対する雛の応じ方そのものだった。
 俺を不幸にしてしまうという後ろめたさを抱えつつも、人や妖怪を含めて唯一話しかけてくる馬鹿を無視できなかった。
 そのバランスが当初と逆転した今、"警戒心の強い猫"は"飼い主に懐く猫"になった。



 「…………よしよし」

 「…………にゃー」


 
 変わったのは雛だけど、変えたのは俺だ。
 だから最後まで責任を持たねばならない、それが俺の役目だから。
 悪運の強い俺だからこそ、成せることだろうから。
 嫌いだったことも、今は好きになれる。


 
 ―――――――――――――それはまぎれもなく、俺にとって幸せだ。



Megalith 2013/06/21
──────────────────────

 
 毎年毎年やってくるこの季節。
 太陽が昇り続け、落ちることのない時期。身軽な服装で外を出歩き、今を満喫することもよくある光景だ。
 いろんなイベントが山積みで、今か今かと楽しみにしている奴は多い。俺もその一人に入る。
 ただ、今回ばかりは少しだけ違うようだ。そう気がついたのは、今になってからだった。

 
 「暑い………」

 
 もう今年になって、何度繰り返したか分からない言葉を呟く。
 背中を滑り落ちていくように流れ、額からも首からも同じように滴り落ちていっている。
 何度止めようとしても止まらない。今もなお止まることはなく、壊れた蛇口の如く全身から吹き出ていた。


 
 「そうね、確かに暑いわ」

 
 
 言葉こそ俺の意見には同意してはいたが、その佇まいは全く異なっている。
 いつも通りの表情をして、普段となんら変わらない姿のままでそこにいた。
 大の字になって転がる俺を尻目に見つつ、手に持っていたお盆を片手にそう答える。
 俺の近くに座りこみ、テーブルの上にお盆からコップを置く姿を見て、それがなんなのか理解した。

 

 「はい、あなたの分よ」
 
 「ありがとう」
  
  
 
 ゆっくりと起き上がって、額の汗を拭いつつ雛の元へと歩み寄る。
 手渡されたコップを受け取ると、思っていたよりも随分と冷たく感じた。
 温くなる前にとそれに口を付け、一気に呷る。


 
 「―――――っはぁ」

 「早いわね」

 「暑いからね」

 
 
 首元を掴んで空気を送り込む。多少なりとも涼しさを求めるが、所詮は焼け石に水だ。
 地獄の釜の底がここだと言われても信じる。そんな状態だ。
 狂ったように照らし続ける太陽を恨めしく思う。今は半年前が恋しく思えてしまうほどに、この季節が嫌で仕方ない。
 雪でも降らないかなぁ、と半ば脳味噌が溶けたようなことを考え始めていた。
 
 
 
 「そうねぇ、今年の夏は暑いものね」

 「やっぱりそうなの?」

 「ええ、いつもよりもずっとずっと…………」



 そう言いながら、雛は麦茶を飲み始めた。
 僅かに上下する白い喉。そこから見えたのは、一粒の滴が胸元へと流れ落ちていく様だった。
 口から零れ出たのか、と思ったが雛はそれを気にする様子もない。どうやらそうではないようだ。
 一見普段となんら変わりない姿を見せるもんだから、暑いのには平気なものだと思っていたのだが。
 雛の言葉を信じていなかった訳じゃないけれど、今になって本当なのだという裏付けをこの目で確かめた。 

 

 「暑さで倒れる人も多いらしいわ、私たちも気をつけないとね」
 
 「確かに倒れたら大変だもんな」
 
 
 
 日差しは強い。その所為か、いろんな場所で倒れる人も妖怪もいる。
 山を下るときに見た白狼天狗も、烏天狗もぐったりとした表情をしていた。河童も中々水から上がろうとしない。
 人里でも熱中症にかかることが多く、医者もいろいろと動き回って大変だという。
 そんな奴らと同じになるのはゴメンだ。どっちかが倒れたら共倒れすることも充分に考えられるから。
 
 

 「といっても、あなたは既に倒れそうでもあるけど」

 「………否定はしない」

 
 
 こうして話している間でも、家にいても倒れかねないことは分かっている。
 "夏にお年寄りが一人でポックリ逝く"なんて話をよく聞きもするが、まだ死ぬには早い。
 首に掛けたタオルで顔を拭うけれど、それでも手から滴り落ちるものが畳に染み込んでいく。
 止まらないのだ、止めようとしても止まらない。未だ流れ続けたままで、終わりが見つからない。

 
 
 「じゃあ涼みに行きましょうか」

 「何処へ?」

 
 
 そんな場所がどこにある?と頭の中で思い描いてみるが、溶けた頭では何も出てこない。
 察しの悪い俺に向かって、一言だけ雛は呟いてみせた。

 
 




















 
 誰も近寄らない場所。
 しかし、それは同時に穴場でもあったりすることは往々にしてあることだ。
 それが何かと聞かれれば、この場合は見てもらった方が早いと言うべきか。

 

 「足元に気をつけてね」

 「分かった」



 随分と意地悪な道だ、という感想を抱く。
 傾斜がキツイことに加えて、小石はそこらじゅうに転がっている。おまけに草葉がいくつもこちらを向いている。
 人が歩いていくにはあまりにも不適切なその道を、雛を先頭にして前へ前へと進んだ。

 視界の開けたその先、光の差す向こう側を見ようとするが、眩しすぎてよく見えない。
 右手で反射する光を防ぎながらも、それがなんなのかを確かめようとした。
 しかし、その前に雛は前へと進むもんだから、俺も慌てて彼女を追いかけた。



 「着いたわよ」

 「ここは………」

 「いい場所でしょ?」

 「……………そうだね」  

 
 生い茂った木々達を分けるかのように、一本の川が目の前にあった。
 その近くには大小の違いこそあれど、角の無い石がいくつも転がっている。
 やって来た方角の逆からだろうか、上から流れる水は早くも無ければ遅くもない。
 涼むにはちょうどいい場所だ、と自然にそんなことを考えた。



 「ほら、早く来て?」
 
 「うん、待ってて」
 


 気がつけば、雛はいつも履いているブーツを脱いで、その素足を水に浸していた。
 その声に応えて、俺も同じように靴を河原へと置いて雛の元へと向かう。
 一歩踏み出す足、指と指の間に水が染みわたる感触が背筋を突き抜けていくけれど、無視して前へと進む。
 その先にいるのは、笑って俺を出迎える雛がいるから。
 
 
 
 「涼しくなった?」

 「そうだね、涼しいよ。ちょっと冷たいくらいだけど」


 
 水面に浮かぶのは二人。俺も同じように写るそれは、雛と同じ場所に立っているということ。
 俺たち以外には誰もいない。響くのは俺たち二人の声と、上流から流れる水の音だけだ。
 
 厄神が通る場所には、人も妖怪も近付くことはない。
 同時にそれは、誰も邪魔をする者はいないということでもある。どんな場所であろうと、その法則は当てはまる。
 今までもずっとそうだった。今も同じだし、これからもそれは変わることはない。


 
 「よかったわ。あのまま干からびてしまったらどうしようかと思っていたの」

 「………本気?」

 「嘘よ」

 
 
 このやりとりも何度繰り返したことか。でも決して嫌でも無ければ飽きたわけでもない。
 悪戯に成功した雛を見ると、やっぱりクスクスと笑っている。それにつられて俺も笑ってしまうのも、きっとそうだからだ。
 いつになっても変わらないものがある、そう思うだけで嬉しく思うことがある。
 
 

 「暑いのは私も同じ、あなたと一緒よ」

 「そっか」

 
 
 返って来た返答に短く切って返す。
 言わなくても分かってはいた。けれど、言わずにはいられなかったのかもしれない。
 ただの意思の確認か、反応に期待されているのか。それは果たして?

 
 
 「だから、もっと涼しくなりましょう?」

 

 その答えは直後に分かった。
 両手を手首まで水に浸したかと思えば、布団を跳ね上げるように思いっきり下から上へと腕を振った。
 川から射出された水。目標は何処か、そんなことは考えるまでもない。
 


 「…………………」

 
  
 考えていても動けるかどうか、それはまた別の話だ。
 結論から話せばそうなるし、今の状況がどうなったかを話せば、もっと涼しくなったということになる。
 そして、その張本人は目の前にいる。笑う雛は語らずとも、その目は語っている。
 だからそれに俺は応えるために、行動にして見せた。
  


 「やったな――――――――――このっ!」



 可愛い悲鳴を上げる雛。
 その顔は嬉しそうで、今と言う時間を楽しんでいるようだった。
 
 暑くても、まあいいか。
 そう思い始めたのは、きっと――――――。
 

Megalith 2013/08/23
──────────────────────


 人の噂は七十五日、とよく例えられもする。
 けれど、もしそれがいつまでも消えなかった時、そんなときには人の噂はどうなるのだろうか?

 周りで飛び交う話が定着して、噂が噂じゃなくなるのか。現実であると認識して、さもそれが当たり前のようになるのか。
 そうして外堀を徐々に埋められていくのだろうか。当人たちの知らぬ間に、話が大きく膨らみでもするのか。
 そんな予想をしなかった訳じゃないけれど、見ている側から見られる側になるとは思わなかった。



 「…………どうかしたの?」


 
 その問いかけに対しては、返したいことはいくらでもある。
 でも何をどうやって伝えなくてはいけないのか。それを素早く吟味して、横にいる雛に向かって答えることにする。 
 


 「最近、よく聞く噂って知ってる?」

 「そうねぇ、三途の川の死者の出入りが以前より激しくなったということかしら」
  
 「他には?」


 
 続く質問には渋い顔をして、すぐには返答が来ない。
 結論から言えば、全くもって自覚がない。そんな事実に多少呆れもしたが、逆にそうでなければ噂が立たないかと納得もした。
 


 「………他にあるのかしらね、分からないわ」

 「そっか、ありがとう」

 

 真剣になって思い悩む辺り、少なくとも冗談ではないことが分かる。
 ただ、こうも分からないのだろうかと考えるが、人の噂など聞いていいものばかりではないことだらけでもある。
 それが厄神であるならば、かと思うと攻めるのは少々酷なことだろう。
 
 
  
 「ねぇ、何かあるの?」

 「………まあ、あると言えばあるのかな」 

 

 ありすぎて困るくらいだけど、という言葉を呑みこんで答える。
 さて、どうやって答えればいいのかなと思いを巡らせながら、今日も変わらない人里の中を歩く。
 行く人は数知れず、向かう人も数知れず。ただ、そこには俺達を遮る奴らは誰一人としていない。
 今という状況を理解しているから、だから誰も近付かないということ。それだけのこと。



 「今、こうやって手を繋いで歩いてる。皆はどう思うのかな」

 「仲のいいことだ、そう思うでしょうね」

 「うん、そうだね」



 俺の左隣に雛はいる。手を繋いで彼女と一緒に歩いている。
 それを外から見たら、仲睦まじいことだろうと思う。そんな状況を見て、外野は何を考えるのか。
 "男女が一緒に歩いている"という事実に関して、何かしらその後に尾ひれがついていくことは間違いないだろう。
 


 「覚えてるかな、以前烏天狗が俺に"雛と付き合ってるのか"ってインタビューに来たって話」

 「"今は"そういうのじゃないですよ、かしら?」
 

 
 噂というのは何処からだろうと生まれる。 
 誇大解釈、ありもしない幻想、例えそれが嘘だったとしても、説得力があれば何も問題はない。
 要は面白ければ何でもいい、集団は民衆は、エンターテインメントを求めているのだ。
 ただ、別に悪いことだと批判はしない。否定するつもりは全くもってない。


 
 「………ああ、なるほど。私達について色々と勘ぐられているのね」

 「そういうこと」

 
 
 ようやく自分のたちの置かれた状況に気がついたらしい。
 以前は顔を赤くしたり、目線を逸らしたりして忙しかった癖に、今ではこうも落ち着いてしまっている。
 時間が経てば人は変わる。それは、妖怪であっても変わらなかったということだ。
 
 
 
 「噂も沢山あるよ、それこそ本当か嘘か分からないくらいに」

 「例えば?」

 「厄神と一緒にいる輩と付き合ってるとか、同居して結婚までしてるとか、そんな感じかな」

 「でも、それだけじゃないんでしょ?」

 「そりゃあ、ね」


 
 面白く囃し立てる奴らもいれば、それとは真逆のことを言うことだってある。
 自分たちが面白ければいいのだから、当人の預かり知らぬところで中傷紛いのことだって存在しない訳がない。
 外の世界のいた頃だろうと、今だろうと、人間の本質そのものは何も変わっちゃいないんだ。

 
 
 「けど何処まで行っても雑音は雑音でしかない、聞いたって面白くもないから」
  
 「そうね、あなたはそういう人だったわね」
 
 
 
 どうでもいいものに目を向けないのと同じで、興味のないことには手を出そうとも思わない。
 こうして目の前で歩いていく人々も、妖怪も、今日限りの出来事に過ぎないかもしれないんだ。
 誰とも知れない奴の考えなど、所詮は聞くに値することなんて殆ど無い。
 

 
 「でも………」

 「でも?」

 「噂が噂じゃなくなった後、その次はどうなるのかなって思ってる」

 
 
 今以上に面白く囃し立てるのか、そうなるのかならないのかということは分からない。
 そして、その後にどんなことがあるのか、どんな影響がこちらに来るのか。  
 少し先の未来さえも、今の俺には想像もつかないことだらけだから。
 でも、雛は不思議そうな顔をして何でもないかのように答えた。



 「変わらないわよ、何も。いつも通りだと思うわ」

 「そう?」

 「あなたの隣に私がいて、私の隣にあなたがいる。それだけのことよ」

 「……………そうだね、確かにその通りだ」

 
 
 大馬鹿野郎が、種族の壁を乗り越えて突っ走った。自分の意志を貫き通した。
 それはすでに通り過ぎた道だ。高かった壁を乗り越えて、その遠い向こう側にいる。
 だからもう他が何を言おうと、雛もどうでもいいってことなんだろう。
 

 
 「それとも、噂を本当にしてみる?」

 「………………」 

 「答えないのに、否定はしないのね」

 「………否定したほうがよかった?」
 
 「いいえ、否定してくれなくて嬉しいわよ」


 
 いつの日か俺が一方的にやられる日も遠くない気がする。そんなことを考えたことを思い出した。
 それはその予感通り。それが現実になったということだった。
 変わらなかったこともあれば、変わったものもある。けれど、それを悲しく思うことはない。
 少しずつ歩み寄ってくること、少しずつ心を開いてきてくれること、少しずつ今という関係が形を成していることが嬉しいから。
 


 「今から腕でも組んでみましょうか」

 「………そこでそう来るんだ」

 「嫌だって言わない癖に、そうでしょ?」
 
 「よく分かってるじゃない」



 言うか言わないか。その直後にすぐさま雛は俺の腕を組み始めた。
 近くて少しだけ遠かった距離、それが遠くなくなって、横を向けばいつもより近くに雛の顔がある。 
 ただ、一つだけ例外だったことがある。
 ずっと何でもないのだろうと思っていたのに、いざ雛の顔を少し覗いてみた時になって気がついたこと。
 ―――――――どうしてそんなに真っ赤なのですか、と。
 
 

 「一応聞くけど、恥ずかしいとか思ったりする?」

 「…………どうかしら?」



 意地悪な質問をしてみるが、はぐらかした回答をよこしてきた。
 その言葉が、今の雛の精一杯の抵抗なんだろう。先ほどの発言をした奴と同じだとは思えないことではあるけれど。
 
 いや、自分自身で自分の気持ちが分かっていたとしても、それでも腕を組みたかったのだろうか。
 その真意を知ることは出来ないし、問いかけても応えてはくれないし、ただの予想に過ぎない。
 でも確かなのは、こうして今腕を組んでいること。それに間違いはなかった。

 

 「はっきりしないね」

 「…………そうね」



 歯切れの悪い言葉ばかり返ってくる有様だ。
 言葉の上では物事を述べられるようにはなっていても、いざ行動に移してみるとそうもいかないようだ。
 俺も同じだから、あんまり変わらないことではあるけれど。

 

 「"今は"そういうのじゃないですよ、が変わるだけ。それだけの話よ」

 「……………そっか」

 
 
 次から、明日から、もしかしたら今から何かが変わるのかもしれない。
 でもただ、その変化を望んだのは俺と雛の二人だから。進もうとした結果がそうなったから。
 その先に何があるのかなんて知る訳がない。思い浮かべたことなんて、どこまでも絵空事だ。
 けれど、想像した以上にいい意味でも、悪い意味でも期待を裏切られる日々が始まるのだ。
 
 今までも、そしてこれからも。


 
 「じゃあさ、最後に一つ聞いていいかな?」

 「何かしら?」




 「次に烏天狗が来た時に、何て言えばいいと思う?」
 
  

 「………馬鹿ね、自分で考えなさい」

 
 
 そう言ったきり、雛はこっちに目線を合わせようとしなかった。
 ―――――当然か。
  
 

Megalith 2013/08/26
──────────────────────

 どうも聞いた話によれば、例年と比べてこの時期はいつもとは違うのだという。
 俺からしてみれば始めての冬だから何が違うのかは全く分からないが――――とにかくその話題が出てくることが多い。
 此処に生まれ、此処で長年過ごしてきた人々がそう言うのだから、多分そうなのだろうとは思う。
 
 では、一体何が違うのか。何がこうも人々の注目を集め、話題を呼んでくるのか。
 それはその話を聞く前のこと。凍えるような寒さの中、ある朝の外を見た景色で分かってしまったのだった。
 今もなお、変わることは無い―――――見渡す限りの銀世界。

 幻想郷は、豪雪に見舞われているのだ。

 

 「―――――はぁ」



 吐く息は白い。空気を吸い込む度に、冷気が喉を痛めつけていく。少しずつ水気を奪っていく。
 風も無いのに、頬が僅かに突き刺さるような感触がある。痛くは無いけれど、あまり気持ちのいいものではない。
 今もこうして立っているだけで、空から白い雪が降ってくる。その度に温かさを失ってばかりだった。
 やや感触の無くなりつつある指先、それらを空いた手のひらで擦り合わせて、ちょっとでも取り戻そうとする。
 その後は握っては開いてを確認した後、再び突き刺さったスコップを手にして、ゆっくりと動き始めた。



 
 「……っと」



 積もりに積もったその下にねじ込むように突き刺し、ほんの僅かな隙間を作る。そして、そのまま上に押し上げてみた。
 スコップの上に乗ったけれど、そのまま支え続けるには少々無理がある。ここ数日の天気もあってか、やけに重さを感じた。
 このベタベタとした雪を動かすには、少々力が必要になりそうだった。だが、そんな余裕も気力も今の俺には無い。
 だから俺は止めた。スコップの上に乗せたそれを前に突き出して、後はスコップだけを素早く引き戻す。
 斜面だからか、あるいはこの天気ですっかり凍ってしまったからなのか、雪の塊は滑っていくように下へと落ちていく。

 屋根の上から雪が落ちる音を耳にして、目もやることなくまた近くの雪に向かって突き刺す。その繰り返し。
 正直なことを言えば、飽きた。もうやりたくは無い。けれどやるしか無い、他に方法が無いのだから仕方が無いのだった。
 俺が上で、雛が下。役割を分担して、こうして雪かきをし続けている。
 
 

 「どうかしら?」


 
 珍しく聞こえた音、声に反応してそちらに首を向けてみれば、雛がこちらを見上げていた。
 手袋にマフラーと、完全防備の体制。ただ、冬仕様になった今であろうと、あの特徴的な髪型とリボンは変わらない。
 こんなときでも変わらないのかと思いながらも、いつも通りの姿に安堵してもいる自分がいた。
 少しばかり普段とは違う姿を見てみたい気もしたのだが………まあこの際、その言葉は不要とも言えた。


 "馬鹿なこと言ってないで、雪かきしなさい"―――そう言われてせっつかれる未来が見えた気がしたからだ。

 
 ああ、残念。でも案外今も悪くない、いや……むしろこれはこれでいいのかもしれない。
 冬仕様になった厄神様こと鍵山雛。それが視線の先にあるのだ。


 
 「あと少しかな、それで全部終わるはずだよ」

 「そう。私も終わったし、じゃあそれで終わりにしましょうか」



 眼福眼福。見ているだけでご利益がある。だがじっと見ている訳にはいかない、そうすると今度は何をされるか分からない。
 時にこちらを見つめ返してくれることもあれば、冷ややかな視線が飛ぶこともある。そのパターンは様々だ。
 主に後者の場合は俺が"ある部分"を凝視していたからなのだが………それは置いておくことにする。
 何はともあれ、あまり見つめ続けても仕方が無い。雛の言葉の通り、終わらせることが一番だ。
 そう思い、再び数時間前から繰り返した作業に戻ろうとする。が、その足を踏み止めねばならなかった。



 「あ、そうそう………終わったら一度縁側に来てくれないかしら」
 
 「どうして?」

 「………いいから――――待ってるわよ」



 呼び止めた後の言葉を尋ねてみれば、強引に押し切られてしまった。その後に続く言葉は無く、そのまま去っていった。
 声をかけて立ち止まらせてもよかったのだけれど、踵を返していく姿を見ていると、つい躊躇ってしまった。
 どうしてそんなに楽しそうなんだ?と疑問に感じながらも、俺の視界から消えていくのを眺めるだけで終わっていく。
 そして一人になってしまった後、結局行くことになるんだろうなと思いつつ、もう一度スコップを手にした。

 
 
 
 

 





 

 
 「雛終わったよ―――――――って」

 「どう?」


 
 言われた通りに来てみれば、雛は見せびらかすようにして作ったであろう成果物を披露してくれた。
 家の周りからかき集めた雪と俺が上から落とし続けた雪、その二つを積み上げた結果が目の前にある。
 高く高く積み上げられた山。その表面は出来る限り押し固めたかのようにも見え、ただ積み上げただけというわけではないようだ。
 特にその山の中心よりやや上から真下に向かってというもの、ポッカリと大きく穴が開けられている。
 
 ずっと遠い昔に一度は目にしたことがある、雪国ならではの一品。かまくらだった。


 
 「………凄いね」

 「うん、昨日今日と家の周りに積もった雪を集めた結果よ」

 「なるほど、道理で昨日はここに積み上げろって言った訳か」



 一言で言えば実に見事。よくこれだけのものを作り上げたと感心する他に無い。
 昨日と今日と続けて雪かきをし続けていたが、どうやらかまくらを作るだけの充分な雪が集まっていたようだ。
 とはいえ、一人で作り上げるのも大変だっただろう。まあ、こうして何も言わないで見せてくるあたり、俺を驚かせたかったのか。
 あれだけ縁側には来ないでと釘を刺し、近づけば睨んだりしてくるくらいだったのだ。
 ニコニコとして自慢してくる今が正にそう、一番分かりやすい答えがそこにある。ならば突っ込みは野暮とも言えた。



 「ちゃんと二人分入れるように作ったのよ、ちょっと狭いかもしれないけれどね」

 「へぇ………そりゃ楽しみだ」



 誘われるがまま、そしてそれを楽しみに思いながら、かまくらの中へと入っていく雛の後をついていく。
 入口は雛の背に合わせて作ってあるのか、入っていく雛とは対照的に俺は頭を下げることになった。だが、それもそこまで。
 中に入れば思っていたよりも広い。二人が入るには充分なスペースが確保されている。何より、温かい。
 あの凍えるような寒さを凌ぐには本当に有難い。こうして雪かきを終えて休みたい今、腰を下ろせるのが嬉しかった。



 「いいね、温まれそうだ」

 「………そう、それはよかったわ」


 
 俺の反応を見てか、雛は笑ってくれた。多分、その言葉を向こうは待っていたんだろう。
 でも、それを分かっていて言ったわけじゃない。欲しがっていたから与えたわけでは決してない。
 本当にそう思ったから、思えたからこそ言える。そうでなければ、こんな言葉は飛び出てきやしないのだから。
 "こうして二人でいたかったからかまくらを作った"――――そんな事実に心躍ることを抑えられない。


 
 「七輪も持って来たのよ、お餅でも焼いて食べましょうか」

 「随分と気が利くねぇ」

 「始めからそのつもりよ」



 用意のいいことでという言葉と共に、七輪の上に敷いた網に切り餅が並べられていく。
 餅が膨らみ、出来上がるまでの時間をただ、じっと動くことも無く、雛と共に待ち続ける。
 感覚の消えかけていた指先を七輪の熱気で少しずつ解していきながら、静かに時間が過ぎていくのを眺めていた。
 だが、それを見ていたのは俺だけじゃない。もう一人いたんだ。だから、自然と注目が集まるのは不思議じゃなかった。



 「ねぇ、あなた………手は大丈夫なの?」
 
 「………ああ、うん。ちょっと冷えただけだよ」



 長時間外に居続けて雪かきをした所為か、やはり両手の感覚はそう簡単には戻らないでいた。
 必死に元通りにしようとする俺、そしてその一連の動きを見ていた雛。それ以外には誰もいない。
 片方がもう片方を気にするのは当たり前だったから、何をしていたのかを知っていたから、言わずにはいられなかったのだろう。
 だから俺は心配ないって答えたけれど、でも雛は簡単には引き下がってはくれなかった。

  
 
 「見せて」

 「え、いや………別に大したことは」

 「見せなさい」

 「はい」
 


 いつもどおりの剣幕に押し切られ、結局成すがまま雛に手を差し出すことになった。
 完全に冷え切った両手に雛の手が添えられて、触れていく時間が長くなっていく度に温かさを感じる。
 錆びたように固まっていた指の関節が、ちょっとだけ動けるようになっていく。
 少しずつ、少しずつ指先に血が通うように。ゆっくりと氷が溶けていくように、ほぐれていった。



 「もう、これでよく大したことないなんて言えるわね」

 「ごめん」
 
 「………いいわよ、手が元通りになるまで温めてあげるから」



 咎められたので素直に謝ってみれば、さっきと同じように俺の手を温め直してくれた。
 別に怒っているわけじゃない。むしろ仕方ないというような、そんな表情を浮かべて答えてくれた。
 ああ、でも一つ言わなくちゃいけない。だから、忘れる前に言っておこうか。

 

 「雛」

 「何?」

 「ありがとね」

 「………別に、私がしたかっただけよ」


うpろだ0061
──────────────────────


 「………凄いね」

 「そう?毎年こんな有様よ」


 未だ冷え切った川の上を、人の形をあしらったモノが流れていく。やってきた方向を見ても、まだまだこちらにやってくるようだ。
 これが本当の人であったならば、さぞ恐ろしい光景ではある。が、それはあくまで人形にすぎない。所詮は偽物だ。
 拾って上げてみれば、綺麗に化粧が施されている。笑うことも無く、泣くことも無く、無表情のままで俺を見ていた。
 なんだか少し変な気分になったので、丁寧に籠の中へと入れることにした。どうやら、雛の言うことは本当らしい。
 

 「流し雛、か」 


 桃の節句、暦では三月三日。雛祭り、という行事が行われる。お内裏様とお雛様を飾ったりするというのが、俺の認識である。
 そしてもう一つ。あくまで知識として知っているだけに過ぎないが――――流し雛という行事もあることも、頭の片隅に存在していた。
 厄や穢れといったものを人形に引き取ってもらい、水で流す。災厄祓いを願い、身を清めようとするのだ。
 そう、今こうして流れてくる雛人形たちは、人々の穢れを持っている。いわば、厄そのものに近いと言えるだろう。

 
 「………」


 もう一つ拾い上げた人形を見ると、どうも嫌な感じがする。上手く言葉にはできないが、よくないものだと断言しよう。
 なんというか、人の情念が入り混じったような、負の感情がうずめいている気がしてならない。 
 とても綺麗な人形なのに、内に秘めたモノが見え隠れしているようで、今はその綺麗さが逆に恐ろしくも思える程だった。
 その無表情の顔の中に、どんな感情があるのだろうか。何を持ち合わせているのか、と気になり始めて――――。
  

 「どうしたの?気分でも悪い?」

 「………ううん、ちょっと気になっただけだよ」

 「そう」


 突然聞こえた声の方向に首を向けてみれば、雛がこちらを見ていた。いつも通りでいるようにも見えたが、少し違うようにも見える。
 なんだろうか。声色こそ普段と同じだけれど、気を使ってくれているような、心配するようにも聞こえてならない。
 だから、別に大丈夫だよとそう返す。手の中にあった人形を籠の中へと入れ、再び人形を拾い上げることにした。
 

 「てっきり――――そういう趣味があるのかと」

 「違うって」

 「………ふふっ、嘘よ」


 雛の発言に対して否定してみれば、結局からかわれただけだった。心配そうに見られていた気がしたが、ただの気のせいだった。
 相変わらずキツいこと言うなぁと思うが、興味の持った対象が"雛人形"とあれば、何も思わずにはいられないのだろう。
 神様になる前は"流し雛"だったというのだから、同じ"雛"として対抗心でも燃やした結果がこれなのか。  
 そう思うと、嫉妬心を少しばかりくすぐったと思えば、ちょっとは可愛く見えるものだ。ちょっとは。


 「………少し怖い顔してたから、どうしたのかなって」

 「そう?」

 「ええ、何かに取り憑かれたみたいだったわ」
 

 そう言われて、そう言えばそんな気もしたことを思い出す。あの時だけは、あの人形に夢中になっていた。
 きっと雛が呼んでくれなければ、ずっとそのままだっただろう。厄を秘めた雛人形を手にして、その内側を覗こうと。
 もし、あの先へと進んでいれば何が見えたのだろうかとは思うが、きっと戻れない気がしてならない。
 何の根拠も無いけれど、なんとなく―――――それが最後。自分が自分で無くなる未来が垣間見えた。 
 でもその手前で踏み止まることは出来た。またしても、俺は雛に助けられたわけだ。厄神様有難うございます。


 「変な話だけど、ちょっと妬けたわね」
 
 「同じ"雛"だからじゃない?」

 「………かもね。元流し雛として、取られるのが悔しかったのかも」


 冗談のつもりで適当に言葉を返してみれば、見事当たってしまったようだ。
 いらない所で勘が働いてしまう辺り、なんとも厄介だ。まさか、雛がそんなことを言ってくるとは思いもしなかったから。
 きっといつもみたいに、"馬鹿じゃないの"ってそう返ってくるという予想をしていたのに。見事に裏切られた。
 一言で言えば、動揺した。こんなにムキになってくるなんて、そんなことは本当に珍しい。あの涼しい顔をした鍵山雛は何処へ行った。
 どうして、と。人形如きにどうして悔しいと思うの、と。聞かずにはいられなくなるのは――――当然のこと。


 「………珍しいね、雛がそんなこと言うなんて」


 「そう?でも―――せっかく"お内裏様"を手に入れたのに、取られるのは嫌だもの」



 いらんことを質問したと、嬉しさで一杯だった。



 







 「………言って恥ずかしくなるの止めようよ」

 「………うるさいわね、私の勝手よ」 



うpろだ0068
──────────────────────

タグ:

+ タグ編集
  • タグ:
最終更新:2014年07月04日 21:11