これは多分、夢だということに気がついている。しかし、それを頭の中でどこか現実じゃないかって考えてもいる。
現実のような夢、夢のような現実。どっちが本当で嘘なのか、その答えはどこにあるのだろうか。
醒めればそれは夢、醒めなければそれは現実か。じゃあ醒めた先が現実だ、という保証はどこにある?
ここが現実です。ここが夢です。そんな示すモノさえ無い今、何処かなんて分かりそうにもない。
だから目の前にいる誰かも、本当か嘘かなんて分からない。
「……………」
何も言わないで、こちらを見続ける彼女。それが誰なのかは全く知らない。けれど、それでも分かることはある。
――――美人。一般的な美的センスを持ち合わせているならば、誰しもが首を縦に振るくらいに。
ポンと目の前に現れたならば、世の男共がきっと黙っていない。彼女を追い求める奴らが出てくるだろう。
魔性の女。そう例えたほうがいいか。今まで生きてきた中で、間違いなく彼女がトップに躍り出る。
しかし、それは人ではない。中華服で身を纏おうとも、その事実は変わらない。
背中の向こうから見える、ふさふさとした揺れる尾。扇のように広がっているそれは、一本ではなく九本ある。
恐らく被り物で隠されている頭も、きっと人ならぬモノがついているはずだろうと予想がつく。
何より、肩口にまで切り揃えられた髪、それと同じ色をした金色の目。縦長に伸びたその瞳孔は、まるで………いや、正に獣の目だ。
言うなれば狐。数々のお話にも登場し、未だ人気が衰えることはなく、誰もが知って当たり前なモノ。
時に崇められ、時に恐れられ、時に人を騙し、時に人を愛した。その種類、内容は様々。一言で語りきれるような単純なものとは程遠い。
中でも九本の尾を持つ狐、とくれば思い浮かぶのは、白面金毛九尾の狐。狐の中でも最も強いとされる、妖怪。
目の前の彼女は、人に非ず。
「――――――――」
目の前の彼女は何かを言っているようだが、残念ながら声は響かない。何も聞こえはしなかった。
周りには何もない、そんな世界で俺と彼女だけ。逃げ場も無ければ、隠れる場所もない。真正面で向き合うしかない。
美女と二人きりだと言えば聞こえはいいが、逆に何が起ころうと当人達次第という裏返しでもある。
ならば、どちらが主導権を握るに値するか。そんなことは考えるまでもないことで、俺を生かすも殺すも彼女次第なのだろう。
ただ、じっと見つめるその瞳には、何故か恐怖を感じなかった。
獣が獲物を捕捉する目つきではなく、不思議なものを見つめるようなその顔は、俺に向けられていた。
こうして、美人とお近づきになる機会が目の前にあるのだ。相手はこちらに興味を持っている。そう思うと悪い気はしなかった。
しかし、彼女は声が響かないことに気がついたのか、少し困ったような顔をしていた。
だから俺はそんな彼女に向かって、手を上げてみることにした。
意味があるのかは知らないけれど、声の届かないこの場所で、意思表示できる手段がそれしか思いつかない。
ずっと見ているのが本当に俺なのか。確かめる意味も込めてだった。
「――――――――――!」
俺の反応に驚いたのか、体を少し強張らせた。何の反応も無かったのに、いきなり反応が来たことをどう思っているのだろうか。
そんな些細なことでさえも、今の俺には知ることすら出来ないのだ。ごくごく当たり前のこと、どうしようもないことだから。
しかし、そんな時間にも終わりが来たらしい。
徐々に彼女の姿が遠くなっていく。周りの景色が急速に色褪せていく。おぼろげな輪郭を残しながら、消えていく。
「――――――――――」
最後に、また彼女が口を開こうとしている姿を見つめながら。
意識が溶けていくように無くなっていくのを実感しながら、最後まで彼女を見続けた。
――――――――――狐は、いたんだ。じゃあ、やっぱり俺は――――――――――。
――――――――――狐憑き、か?
「………………夢か」
薄暗いとはまた違う、ほぼ一色で統一された黒が目の前にあった。だが、それは完全な暗闇とは程遠くもある。
僅かながらでも、そこらに鎮座しているモノの形は分かるくらいの暗さ。目を凝らして見れば、浮かび上がるように見えてくる。
いつもよりも時間をかけて見えたその景色。しかし、いつも見慣れたレイアウトではない。はて、こんな配置だっただろうか。
そうしてふと見上げたガラスの向こう、そこから見える光、それが輝きながら黒い空に浮かんでいた。
幾多にも及ぶそれらは、今ここでしか見ることのできないモノたち。人の作った光ではなく、自然が作り出したモノ。
昔は当たり前のようにあったのに、今では空を見上げても見ることは出来なくなったモノ。
――――帰って来たんだ、と寝ぼけ気味の頭で理解し始めていく。
「………………んっ」
覚醒し始めたことを確認し、一気にベッドから起き上がる。そして、もう一度よく辺りを凝らして見てみる。
やけに綺麗すぎる机、その傍に転がったままになったバック、枯れ木みたいに何もない木製の服掛け。
半開きになったままの押入れ。そこには僅かな物品があるだけだった。
もう一度帰ってきたことを再確認し、そんな寂しい部屋から出て、居間に繋がる廊下へと裸足で歩いていく。
途中にある電球のスイッチを押すことは無い。明かりもないままで真っ直ぐ前へ、前へと進むだけだ。
そうして辿り着いた先、目の前の左にあるキッチンに沿っていきながら、目的の場所へと辿り着く。
久しぶりだったけれど、体は覚えていたようだ。そんなことを思いながら、真正面にある生活家電の取っ手に手を付けた。
「…………マジか、何もない」
開いた先にある棚には、調味料の類はある。しかし、それらはすべて保存の利くものばかりしかない。
ドアポケットを覗いてみても、空になったペットボトルとポットが入っているだけ。
ここに来る前に減らしに減らした中身と同じだなと、殆ど空になった冷蔵庫の前で立ち尽くしながら思う。
その下の野菜室、冷凍庫にも手を付けてみるが、やはり同じようなことになっていた。
ゴクリと唾を呑みこんでみるが、それでは何の足しにもならない。喉が渇いたのに、何で冷蔵庫には何も無いんだ。
「………はぁ」
仕方ないか。そう思いながら、再び来た道を戻る。今度はスイッチをオンにして、誰もいない廊下を歩いた。
戻った先、机に置かれたモノを拾う。蛇の素材から出来た、二つ折りの財布。その小銭入れの中身を一目見て、すぐにまた閉じた。
枕元にある、輪で繋がった鍵の束と共にポケットへと突っ込むと、買ったばかりで使い慣れない携帯電話を触った。
デフォルトの壁紙と共に映る今日の日付、現在の時刻を確認した。
―――――――――草木も眠る丑三つ時。化物や妖怪が動き出す、今がその時間。
けれど、すぐに画面を消して、財布たちと同じようにポケットへとねじ込んだ。
俺は喉が渇いたんだ。自分の欲求に思うがまま、部屋から飛び出した。
三色あるくせに、一色しか点灯を繰り返さない信号機を越えた。
碌に明かりもない夜の道、覚えている限りの記憶を頼りにして、白線すら引かれていないアスファルトを歩いていく。
周りには何処を見渡しても田んぼしかなくて、聞こえるのは蛙が泣く音だけしかない。
世間一般的に言うなら、ここは田舎である。
山に囲まれた盆地、春夏秋冬が感じられる地域。古くから残る建物やらが残り、豪華絢爛な祭りは、屋台が多く出現する。
歴史と伝統ある町と謳われてもいる。観光地としてはこれ以上ない魅力を秘めた、そんな場所だ。
落ち着いて暮らすにはいい場所、でも若者が暮らすにはとても退屈な場所でもある。
公共交通機関であるバスは一時間に一本。電車なんて主要な駅以外は無人だし、娯楽施設はほとんどない。
大型スーパーは車で行くのが当たり前、というか車が無ければ何もできないに等しい所だ。
無駄に土地は余っているから、私有地で勝手に走り回っているなんてこともあるくらい。それくらい何も無い場所だ。
だから、今もこうして十分以上かけて自販機まで歩いてきたわけだ。
「―――売り切れ?」
白い光に呼び寄せられて張り付いた蛾、その下にあるボタンは赤いランプを灯している。
その隣も、その隣も、その隣も同じ。三列あるうちの上段一列はほぼ全滅に近い有様だった。
定期的にちゃんと補充しているのか、コレ?―――そんなことを考えつつ、未だ売り切れになっていないボタンを押した。
「ちゃんと入れ替えろよな…………」
愚痴を零しながらも、頭の中では既に別のことを考えていた。ここにはよく来たなぁと、少し昔のことを思い出していた。
別にそんなに遠い昔でもないのに、どこか感傷に浸ってしまうのは、一人で都会に暮らすようになったからだろうか。
縦に伸びたコンクリートの建物。道行く人たちはスーツを着た人ばかりで、それがわんさかといた。
部屋から出てすぐにコンビニはあるし、二十四時間の店だって探せば見つかるし、外灯も沢山あって、暗くて困ることもない。
でも、排気ガスとスモッグに覆われた空気は汚い。水は飲めたものじゃないし、何をするにも何かと金のかかることばかりだ。
殆どが変わってしまったことばかりで、日々それに適応するのに必死で、気がつけばもう季節が変わっていたなんてこともある。
でも今は、何も思うことなんてない。違いについて一々気にすることもなく、普通に暮らしている。
ここに戻ることなく都会で暮らしていくんだろう。でも、もう少し何か面白いことでも起こってくれないものか。
そんなことも願っている。有りもしないのに、無いモノを望んでいた。
――――――――――そうだ、あの夢に出てきた狐のような女性がいたら―――――――――――――。
「―――――――?」
その最中、突然何かが現れた気がした。不思議な感覚。だが何処か懐かしいような、待ち望んでいたものが来たような感覚。
―――何だこの感じは。何処かで俺はこれを知っているような気がする。何処かで覚えている気がする。何処かで見ている気がする。
でも、振り返ったら最後だ。頭の中でそんな危険信号が響く。駄目だ、決して見てはいけないものだと、予感にも似た考えが支配する。
しかし、どこかで見たいと思う自分がいた。理由もないのに、その正体を確かめければいけないと。
………見るんだ、俺は振り向くんだ。嫌ってくらい聞こえる鼓動を胸にして、恐れる心に目を瞑って、覚悟を決めた。
そして、そこに、いたのは。
「――――あ」
「………ん?」
九尾の狐。あの夢で見た、その姿そのままで。今、目の前に立っている。
おぼろげだった頭の中のイメージが、鮮明になっていく。そして、それはピッタリと重なり合う。
一つの違和感もなく、全てがあの時のまま。恐ろしいくらいに、そこにある。
「………あなたは――――」
「………お前は―――――」
言葉が出たのは当然のこと。そして、それは向こうも同じこと。少しのズレもなく唐突に始まったのは、単なる偶然か。
「誰です?」
「誰だ?」
問いかけも同じだったのは、本当に偶然だったのか?
今はまだ、知ることは出来ない。
「―――――――――う……ん」
溶けた意識が、映像を巻き戻すように元通りになっていく。バラバラになっていたものが、また再び一つになるかの如く。
積み重ねるかのように、出来あがったモノ。それをもう一度よく見て、どうやって出来たかを再確認する。
その集合体の中で、色濃く残ったのは昨日のこと。朝一で出発して、バスに揺られながら実家に帰ってきたという事実。
疲れて眠ってしまってそのまま―――――――――そのまま?
その、後は、どう、なった?
半分寝かけていた頭がフル稼働する。上手く動かなかった頭は、今や全開となる。完全に覚醒していった。
急激に巻き戻されていく記憶、そしてそこまでに何があったか。凄まじい勢いで読み解かれていく。
一瞬の内に始めから終わりまでが、脳内で高速再生されていく。目まぐるしく思い返されていく中で、一つ行動に移す。
このままではいられない。呑気に寝ている場合ではない。寝ている子を叩き起こす勢いで、自分を奮い立たせた。
覆いかぶさった布団を跳ね除け、上体を素早く起こして飛び上がる。そうして最初に見えたモノに、驚かざるを得なかった。
「………っ!」
辺りを見回せば始めて見る景色。知らない天井どころの騒ぎじゃない、何だこの場所は。
確かに実家には和室もある、だがこんなに立派じゃない。こんなだだっ広い場所になど、招待された覚えはない。
あまりにもおかしいだろう?俺は確かに実家に帰ってきたんだ、自分の家を間違えるなんて、今更そんなことはしない。
じゃあ、一体誰がここに俺を呼び寄せたのか。願いもしない場所へ招いたのは誰か。
それを探すために、そいつの顔を拝むために、目の前にあった襖を思い切り開いた。
「………朝から騒がしいですね」
「そう?元気でいいじゃない」
開いた先の向こう。得体の知れない誰かが、座ってこちらを見ていた。
太極図をあしらった、道士服を身に纏う金髪の女性は笑い。中華風にアレンジされた服を着た、九尾の狐の女性は目を細めている。
一目見た後、もう一度、グルグルと脳内が回り始めた。足りなかった何か、忘れていた何かを取り戻していくかのように。
それが上手く収まり、順番通りに並び終わり、ようやく落ち着いた時。
――――――――再びその姿を見て、ようやく本当に何があったのかを思い出した。
『誰です?』
『誰だ?』
対峙しているのは、あの夢で見た彼女。それは今、目の前にこうして立っている。
夢か現実か。嘘か本当か。どっちが正解なんだ、どっちが間違っているんだ。そんな考えがもう一度頭の中をよぎっていった。
そんな中で生温かい風が俺を吹き付けた。それは現実だと認めるには充分で、でも何処かで認めたくない自分がいた。
ありえないだろう?いる訳がないと信じてきたのに、今更出てきても嘘としか思わない。
『………いや、違うな。お前、どこかで私に会ったことはあるか?』
『………え、いや…………その』
先ほどの言葉を否定して、再び彼女は俺に問いかけてきた。分からないことだらけなのに、当事者なのに取り残された気分。
だが、誰もその答えを知らない。誰も教えてはくれない。困惑する他はないし、碌に何か言うことすら出来ない。
あまりにも突然の出来事だ。現実から非現実への転換、夢物語ならばどんなにいいことか。
『………んん?』
眉間に少し皺を作り、少し距離を詰めてくる彼女。首を伸ばし、身を乗り出してこちらを見つめ始めた。
思わず後ずさりしてしまう。会ったのが二度目だとしても、名前さえ知らない相手に接近されるとは思いもしない。
反射的に出たそれを抑えられないままだったが、彼女は構わずそのまま俺を見続けた。
被った帽子から見える髪と同じ金色。その二つの目の中心、縦長に伸びたその瞳孔は、間違いなく獣の目。
………今、その目に映るのは俺。あの時と同じ、九尾の狐に見られている。だが、それは獲物を捉える目ではない。
不思議なモノを見るような目、興味を示すような目。その瞳に、どうしてか強く惹きつけられた。
『………お前は…………いや、そんなはずがあるわけがないか』
しかし、その後に突然悩み出し始めた。全くもって一連の流れの意味が分からない。
何を悩んでいるのか。想像もつかないことばかりで、ただただ時間が過ぎていくばかりだった。
ほぼ初対面の相手、その中身なんて想像もつかない。ましてや九尾の狐、所詮人の身には想像もつかない。
だから、何も進まない出来事を終わらせるために、彼女に向かって俺も問いかけるしかなかった。
『あの、何の話ですか?』
『ああいや、こっちの話だ……………いや!それよりもだ!』
勝手に納得された揚句、今度は俺に向かって声を荒げ始めた。目まぐるしく変化する今についていけない。
次は何だ、もう何を言われても気にしないほうがいいのか?そんなことを考え始めた。
だが、そうはいかなかった。二の句は続く。その剣幕に負け、つい俺は本音を漏らしてしまう。
下手をすれば何をされるか分かったものではない、と言い出した後になって思いついた。
『何故、お前はここにいる!どうやってここに来た!』
『そう言われても………普通に歩いて』
『普通に!?』
驚愕の表情を見せ、更に追及を加えてくる九尾の狐。畳みかけられる展開、完全にペースは向こうにある。
その主導権を握るのは難しい。ただ、次の言葉でその権利を奪い返せると、そう思った。
だが、その考えは虚しく打ち砕かれるとは―――――誰が思うのか。
『ただの人間が、この場所に来るはずがないだろう!』
『いやいや、何を可笑しなことを………』
辺りを見回す。そりゃあずっと見てきた、ずっと育ってきた場所が――――――――――――ない。
『は?……………え?…………ど、どうなって………』
何処だ、何だ此処は。どうして知らない場所に立っている? 隣にあった自販機はどうなった?
何もかもが夢みたいに無くなって、始めからそこに無かったみたいに、嘘みたいな現実が目の前にある。
彼女の奥に見えるのは、やけに立派な建物。ただそれは、現代における建築物とは大きく一線を画している。
史跡として大切に残されてきた場所。俺みたいな一般人が、易々と立ち入ることが許されないような所。
ずっとそういうモノを見てきたから分かることだ。ここは、唯一存在する陣屋と同じ。文化財と見て違わない。
そんな場所にどうして、今ここにいるんだ? 例え冗談だとしても、あまりにも性質が悪い。
『気がついてなかったのか?』
『………えっと…………はい』
『そうか………』
素直に答えると、彼女は困った顔をしてしまった。なんだ、何が起こったっていうんだ?
異世界入りか?タイムスリップか?それともまだ夢を見ているだけなのか?それとも、今までのことは全部夢だったのか?
………いや、落ち着こう。今ある状況を、とりあえず受け入れることから始めよう。
俺はジュースを買いに来た。そしたら夢に出てきた人………じゃなくて妖怪が振り返ったらいた。
そして、今は全く知らない場所にいる…………いや、やっぱり意味が分からない。
同じようにして佇んでいる彼女も、きっと俺の登場に頭を悩ませているのだろう。
誰だっていきなり"ただの人間が、この場所に来るはずがないだろう"って言うくらいの場所に現れたら――――――。
…………来るはずがない場所?人間が来るべきじゃない。つまり?
『あの……すみません。此処は、この場所は一体―――――――』
『―――――――そのことについては、私が説明しましょう』
目を瞬いたその時、また突然誰かが現れた。もう、何が何なのか分からない。何を信じればいいのか分からない。
縋るべきモノを無くした今、パニックになった頭を落ち着かせるには、現実逃避するしか術を持たない。
夢なら早く目覚めてくれ、それしか願うことなんてない。今が終わることが、どんなものよりも望んでいた。
『………うわ!………な、何ですか』
『あら……ふふ。久しぶりに人間らしい反応をしてくれたわね、嬉しいわ』
全く脈絡のない登場の仕方に驚くが、逆に彼女はそれを喜んでいた。今は、その言葉の意味すら理解出来ない。
現時点での状況を確認するだけで手一杯だ。でも、それでさえも追いつかない。分かることなど殆ど無い。
常識が完全にストライキでも起こしたのか?さらに混沌を増すこの場に置いて、まともなのは俺だけだ。
『その反応に免じて答えてあげましょう、此処は―――――――』
故に、その答えが間違っていなかったとは、気がつきたくはなかったが。
『幻想郷よ』
常識の向こうにある非常識、その向こうへと辿り着いたなどとは。
「あ………えっと」
勇みながら襖を開いたはずなのに、毒気を抜かれてしまった。おかげで、何を言おうかすらも思いつかない有様だった。
昨日いきなり世界が変わって、しかもそれは夢じゃなかった。右も左も分からない場所へとやってきてしまった。
ずっと続いていくものだと信じていたモノが、一瞬にして切り替わる。到底、認める気にはなれそうもない。
だが、それは確かに目の前にある。今が現実であって、どう足掻いたところで何も変わらないのだと。
「別に取って喰ったりはしないわよ」
「紫様、そう思うのも無理はないかと」
紛れもない答えは、見ている先にある。それこそが何よりの証明。
現実はいつも残酷だ、認めがたくもある。だが、それが現実というものだ。
「妖怪に対する人間の反応は、これが当たり前です」
「……そうね、最近そんな人間がいないから麻痺していたわ」
目の前の女性は妖怪だ。人ではない何か、人の形こそすれど、内に秘めたモノは全く異なっている。
触れ得ざるモノ。この世で忌避されて続けてきたモノ。人々が噂し、遠ざけ、恐れた。そんな奴らが、俺を見て喋っている。
人を喰らい、人に倒される間柄。決して相容れない存在。対極とも言える対象。それが、すぐそこにあるのだ。
………正直なことを言えば、いつも通りではいられない。いられる方がおかしい。
「どうしたの?立ってないで座りなさいな」
「あ、はい」
だが、そうも言っていられない。泣き言は後で言う他はなかった。喚いた所で、何かが変わる訳ではない。
今は出来ることをするしかない。例え彼女の掌の上にいたとしても、どうにかせねばならないから。
そんな中華服を着た女性の指示に従って、近くにあった座布団の上に座ることにする。
どうやって座ろうか迷ったものだが、数瞬悩んだ挙句、ここはあえて正座にすることを選んだ。
若干窮屈ながらも、姿勢を作るのには困りはしなかった。しかし、やはり違和感は拭えないままだ。
「辛いのなら、足を崩しても構わないわよ」
「………そうですか?」
「ええ、これから話は長くなるかもしれないもの。楽にして頂戴」
俺の姿を見てか、自由にしていいと促された。ならばと、その言葉通りに胡坐にゆっくりと足を組み替えた。
正直な話、正座など現代を生きる人々には滅多にやらないものだ。結構有難いことではある。
とはいえども、その程度では心が晴れるわけでもないのだ。そんなに簡単なことではない。
話が長くなるという以上、長期戦になることはもはや明確だ。迫り来るであろう次の事態に、不穏さを感じ取る。
「さて、本題に入りましょう。あなたも知りたいことが山ほどあるでしょう?」
「………ですね。分からないことだらけで、今もその通りです」
「正直ね、嫌いじゃないわよ」
今から起こることに比べれば、どんなものだって霞んでいく。信じて疑うことはない、ここが正念場だ。
心の底からそう思っている。常に頭の中で危険信号は鳴りっぱなしだ。下手をすれば、死ぬぞ。そう告げることを繰り返している。
だが立ち向かわねばならない。そうしなければ、次を手にすることは出来ないのだ。
「お互いの自己紹介、今ここが何処か。昨日の夜を覚えていれば、説明はいらないわよね?」
「はい――――紫さん」
「よろしい」
俺の回答に満足そうに答えた紫さん。流石に二度手間になるのは、面倒だからだろう。
俺と喋っているのは、幻想郷の管理者―――――八雲紫。その横でじっと話を聞いたままなのは、式神――――八雲藍。
この国の何処かの山奥に存在する、結界で隔絶された場所。人ならざるモノ、幻想となったモノが住まう土地。
常識と非常識を分け、その非常識の内側にある世界。幻想を否定する力、それを利用して成り立っている。
ただ、時として人間が迷い込むことはあるらしい。そして、俺もその一人だというのが………昨日までの話だ。
今日は、その続きについてが始まる。それ以外の全て、これからについて。
「結論から言いましょう。あなたをすぐに外に帰すことは出来ないわ」
「…………何故、です?」
「いろいろと問題が発生する――――いえ、しているのよ。いろいろと、ね」
昨日の時点で多少予想はしていた。"帰る手段はある"と聞いて喜んだが、紫さんは"帰しましょう"とは言わなかった。
その時は頭が一杯で何も考えられなかったことは確かだし、それ以上のことについて何も思いもしなかったんだ。
だけど、寝ている直前になって気付いた。あえてそこで話を止めたのは――――ひょっとしたら、なんて。
高鳴り始めた鼓動が、胸を当てなくても聞こえる。一歩手前に広がる景色、それはあの世へ入口か。
やけに頭の中はすっきりしている癖に、どうしてかそれだけは消えないで回り続けた。
「ただ、帰すことは約束しましょう。事が終わり次第、ということになるけれどね」
「………本当ですか!」
「ええ。ただ、もう一つ。あなたがどうやってここに辿り着いたのか、それを聞いてからになるわ」
「なら話しましょう。それで手を打ってくれるなら、いくらでも喋ります」
「ご協力、感謝するわ」
その言葉を聞いて活力が溢れてくる。希望の光が見えた。元通りの場所に戻れるというのなら、こんなに嬉しいことはない。
俺がここに辿り着いた理由なんていくらでも話そう。それで済むのなら安い話、安すぎてお釣りが来るくらいだ。
一先ずは首の皮が繋がったということ。次がまだあるという安心が、胸の内を満たしていった。
そんな感覚に包まれながら、俺はここまでの経緯を伝えるため、その一言目を話し始めた。
「というのが、これまでのことです。以上です」
「なるほど。あなたは藍を夢で見て、そして外に出たら藍に会った。気がつけば、此処にいた―――――そういうことね」
「はい。簡単に言えば、その通りになりますね」
順序を立てて、どうやって此処に来たかを出来るだけ分かりやすく話した。いや、つもりだ。
………途中、どうやって説明したら良いものか少々迷うことや、どんな言葉を使えばいいか考えることもあった。
ただ、それを先回りして汲みとってくれた。おかげで、なんとか説明は成功。上手く伝わったようだ。
流石と言うべきなのか。幻想郷の管理者と言うくらいなのだから、俺のような凡人には遠い領域にいるのだろう。
そして、その隣にいる彼女―――――藍さんも。
「………」
藍さんは、ずっと何も言わないままだ。目をつぶったまま、不動のままでそこに座り続けている。
ただ、此処に来た理由を話していた時。藍さんの名前が挙がる度に、少しだけ眉が動いたような気がしたのは、気の所為なのか。
………違うか。本当は気の所為じゃないってことは気が付いている。確証が持てないだけだ。
ここまでにいろいろと有りすぎた。だから上手く頭も回らない。知恵熱を起こしかねない勢いでもある。
既に頭が痛いことばかり、考えるのにも休憩が必要になるくらいだ。でも、止められない。
「藍のこと、気になるかしら」
「ええと、まあ………そうですね」
その言葉に嘘はない。幻想郷に辿り着いた理由の一つ、それに藍さんが関わっているのだ。
何も無関心でいられるほど鈍感でもない。…………理由はいろいろとある。
説明がつかないだけだ。これまでの常識を全て覆した上で成り立つそれは、あまりにも信じがたいから。
胸の内に秘めたるそれは、唐突過ぎて理解の範疇を超えていた。だから、俺の中で曖昧なままなんだ。
答えを出すのには、まだ早すぎる気がしたから。まだ考える時間が必要だったから、投げ出したままにしておくしかない。
「そう、じゃあ頑張ってね」
俺のその反応に笑い、何をですかとそう突っ込みを入れる前に、紫さんは言葉を続けた。
何か含むようなその表情。裏にあるモノが見えそうで、やっぱり見えない。何があるのかは分からないままだった。
ただ、二度あることは三度ある。そんな諺をまた噛みしめることになるなんて、思いもしなかった。
「私達と一緒に―――――――いえ――――藍と一緒に、この屋敷に住むのですから」
最後に、とんでもない爆弾を落としていくとは。
「………え?」
「後は全部藍に聞いてね、私は用事があるから」
「いや、待ってください!それは一体どういう―――――」
颯爽と爆弾を落とした張本人は、場を荒らした揚句、意気揚々と去ろうとしている。いや、それはないだろう。
物事を全て放り投げ、後は知らないという。勝手気まま、傍若無人極まりない振る舞い。ここに極まれりと言ったところか。
だが、例えそうだとしても黙っていられるはずが無い。そんな簡単に物事を決められて大人しくしてもいられなかった。
説明が欲しかった。だからそれを求めた。でもその言葉を遮るかのように、紫さんは俺を見て一言だけ呟いた。
目と目を合わせたその一瞬、一秒よりも短い時間の中で、一気に世界が変わったような気がしてならない。
まるで白から黒へと景色を塗り替えていくようで、零が一になったかの如く、姿を変えていった。
そして本当の意味でようやく理解したのだ。目の前の彼女は妖怪だったのだと。
「あ、拒否権は無いわよ。諦めなさい」
あまりに冷酷すぎる言葉。口調と共に響いた声を聞いて、寒くも無いのに背筋に嫌なモノを感じた。
何も言うことが出来ぬまま、呆然とする他は無い。突然変貌したその態度に、酷く恐ろしいと思ってしまった。
不思議なくらいに説得力がある一言。どんなに言葉を重ねたとしても、それ以上に勝るモノは無いだろう。
会って間も無いけれど、信じるに足るかは全く分からないけれど。その言葉に、本気さが見え隠れしている気がした。
「―――――――"死にたいのなら"話は別だけど」
"冗談抜きで、死ぬわよ"―――そんな真っ直ぐすぎるくらいに伝わる宣告。注意や警告といった、そんな優しいものではない。
残酷すぎるくらいにある事実。淡々とした、当たり前の現実。さも当然のようにあるのだと、そう聞こえてならなかった。
いろいろと言おうと思っていたはずだったのに、もう何も出てきやしない。完全に紫さんに気圧されてしまっていた。
「………ごめんなさいね。でも、貴方にとって悪くない話だから――――じゃあ、行ってくるわね」
一転してこちらを気遣って変わる態度。あまりの急激な変化についていけない。何も言うことさえ出来ない。
ただ、突如裂けた空間の裂け目に消えていくのを――――見送ることだけ。見続けるしかなかったのだった。
それ以上もそれ以下も無く。当事者にも関わらず、傍観者のような行動を取るに終わった。そういうことだった。
「………」
だが、それで終わる訳が無い。まだ一つ終わっただけのこと。だから、迫り来る次に備えるしか方法が無い。
そう。目の前にいる九尾の狐こと藍さんを見て、まだ問題は終わってもいなかったのだと。
これから始まるのだと、冷静さを取り戻したその時になって、やっと気がついたのだった。
「………」
続く先の読めぬ展開。次に何があるかは分からない。だが、あたふたしていても何も変わりはしない。
こうしている間にも時間は過ぎていく。止めた時を再び動かすために、その一歩を踏み出さねばならなかった。
藍さんは先ほどからずっと目をつぶったまま、何も言わないでそこに座り続けている。
微動だにしないその姿を見る限り、その雰囲気と姿も相まって、まるで彫刻のようにも思えた。
ただ、同時に何かを待っているような気もした。それは、やはり式神たる所以なのだろうか。
「………あの………藍、さん?」
「………聞こえているよ。そんなに構えなくてもいい―――――まあ、難しいことだとは思うが」
会話の切り口としては、何が正解なのかは分からない。だが、目を開いて呼びかけに答えてくれた以上、一応正解らしい。
諦めたかのような、でも仕方ないといったような表情を浮かべている。その言葉から察するに、一度や二度ではないのだろう。
あの無茶振りに付き合わされてばかりだ。何処か諦めを通り越して、達観の域にも入ったような反応。
主従関係というのも楽ではないのだな、と他人事のように一連の物事を見ていた。
「唐突ですまないが、紫様の言葉の通りなんだ。悪いが、しばらく此処にいてくれないか?」
「………」
しかし、それはほんの僅かな時間だった。ぼーっとしてられないという、自分の状況を再び確認せざるを得なくなった。
色々な問題は山積みだ。何が起こるかは、蓋を開けてみてからでしか分からない。その先に何があるかなど、想像もつかない。
何も知らない場所へと飛ばされ、目の前の彼女―――八雲藍とこの屋敷で生きていかねばならぬのだ。
今の序列を示すのならば、間違いなく彼女が上。そして俺は下だ。当たり前だ、俺はただの人間なんだから。
相手は妖怪。機嫌を損ねれば、無事では済まないのかもしれない。常に死と隣り合わせ、みたいなものかもしれない。
屋敷という名の箱の中、そこには逃げ場なんて何処にも無い。袋の鼠のように、完全に追い詰められたのと同じだ。
「その、"死にたいなら"っていうのは―――」
「…………本当だよ、嘘は言わない」
しかし、それ以上に外は危険だと言うのだ。もう一度尋ねた後に返ってきた反応、その顔は嘘をついてはいないだろう。
もう一度あの縦長の瞳を見るけれど、微動だにしていない。いや、むしろ伝わってくるようなモノを感じる。
聞こえるはずが無いのに、それでも聞こえてくる。耳を介することなく、俺の頭に直接叩きつけてくるのだ。
言わなかった言葉の続きが、切ったはずの無かったモノが、真っ直ぐに届いてきた。
―――――出ていけば、この先は無い――――――
会って間もないけれど、でも。それは信じていい、と自分の中でそう結論が出ている。考える必要も無く、悩む必要も無く。
今頼れるのは自分自身、何もかも無くした自分そのもの。それ以外に何も無い。ならば、どうするかはもう決まり切ったものだ。
後は踏み切るだけ。躊躇いがあったはずなのに、思いの他、あっさりと口にすることが出来てしまっていた。
「――――分かり、ました」
今は、あの紫さんの約束を信じる他は無い。右も左も分からない所で、何を当てにすればいいのか。
他に行くべき場所も無い。見ず知らずの場所で匿ってくれるのならば、これほど有難いことはない。
紫さんが最後に残した言葉と、藍さんの言葉。それに嘘は無いと感じている。それはもう、散々分かったことだから。
例え罠だとしても、安全が少しでも確保されるなら、どんなものだろうと縋らねば生きていけぬのだ。
ここは自分の生きてきた世界とは違う。目の前にあるのがそう。それだけは確かであって、揺るぎない真実だった。
外に飛び出たとしても誰かが助けてくれる、などというそんな甘い考えは捨てるべきだ。
あまりにも今を知らなさすぎるのだ。これまでが通じないのだから、それに応じて変わらねばいけない。
自分の意思がある、ないに関係なく、今は今をどうにかすること。今を知ることが最優先事項だ。
それが現時点で俺が出来ることであり、やらなければならないことなんだ。だから、間違えてはいけない。
「そうか………ありがとう。色々とあるだろうが、宜しく頼む」
「………いえいえ、こちらこそお願いします」
人と狐が暮らす。まるで御伽話だ。でもそれは目の前にあって、現実だった。
これが夢物語で無いと言うのならば、これほどおかしいこともない。信じられるかどうかであれば、信じられないことだ。
目の前の彼女は九尾の狐。普通に考えれば、恐ろしいことこの上ない。一刻も早く逃げ出すこと、誰もがその行動を取るだろう。
だが、心の中では、不思議と藍さんに恐怖は抱かなかった。違う何か、恐怖からは程遠い感情がある。
むしろ暖かくもあり、何処か嬉しくもあり、それを待ち望んでいたような気がする。そう思っていた。
それは何故か?その問いかけに対する答えを―――――今は、上手く言葉には出来ない。でも、その気持ちは本当だった。
多分、その笑顔に騙されたからだ。その雰囲気に呑まれたからだ。助けてもらったから、そう見えているだけだ。
ただ、今はそうして見切りをつけておく他は無い。それ以上に大切なことがある。物事には順位をつけなければならないのだから。
「では、早速だが……此処についていろいろと案内しようか。ついてきてくれ」
「はい」
一刻も早くこの場に慣れよう。その後で考えてからでも遅くは無い。今はまだ、上手く考えが纏まりそうもないから。
少しでも動けるならばいい。じっとしていることが不安になる。多くを知り、理解しなければ安心に変わる気がしないのだ。
そう心に決めて、藍さんにそう促されて立ち上がる。開いた襖の向こうへと、藍さんが消えていくのを追いかけていく。
「こっちだ、迷うんじゃないぞ」
見た先にあったのは、何処まであるのかというくらいに長い廊下。見たことも無い長さ、先は何処にあるのかも分からない。
でも迷っている暇も、呆けている暇も今は無い。藍さんの後姿を追って、俺も進み続けるしかなかった。
着かず離れずといった微妙な距離感を保ちつつ、さながら尾行するかのように歩いていく。
「…………」
夜に見たときにもこの屋敷に驚いたものだが、やはり日が昇った今でも、その壮大さは消えない。
いやむしろ、夜が明けてよく見えるようになったからだろうか。それ以上の凄さに見えている。
こうして歩く度に聞こえる廊下が少し軋む音。現代においてそんな建物は、早々お目にはかかれない。
途中にあった柱に手を当てて、その感触を確かめる。その手から感じられたのは、木造だという答え。
ますます非現実的だな、とその身で更に違いを知る。元々無くなっていた余裕が、また一つ消えていった。
「まずは………ここがお前の部屋だな」
藍さんの開いた襖の向こう。そこにあったのは、大部屋と言って差し支えないほどの広さの部屋。
明らかに一人が使う分としては、あまりにも不釣り合いすぎる間。無駄に広すぎる、といっても過言ではない。
敷き詰められた畳の数は、両手では収まりきらないくらいだろうか。恐らくは足も使ってようやくかもしれない。
そんな部屋に藍さんと共に一歩踏み出してみれば、イグサの香りが鼻の中を突き抜けていった。
「………広いですね」
「そうか?」
何でもないだろう、という反応が返ってきた。どうやら彼女の基準ではそうでもないようだ。恐ろしい。これが幻想郷か。
向こうにいた時の部屋の広さとは比べ物にならない。和室と洋室という違いはあるが、どちらが凄いかは見比べるまでもない。
こうして今此処に立っていることで、その空間の中に入ったことで、よりその凄さを身を持って、肌で感じて分かってしまう。
逆にこんな所にいていいんだろうか、とあまりの違いに委縮しつつある。寒くも無いのに、何故か妙な汗を掻いてしまっている。
最初から無かったけれど、余裕など最早無いに等しく。ただただ、その場を見渡すこと以外に出来なかった。
「……そのうち慣れるさ、今だけだ」
よく分からないが、藍さんなりの励ましなのだろうか。だが今は、その言葉の通りになるしかない。
無理矢理にでも納得して、受け入れるしかないのだ。郷に入れば郷に従え。嫌でも従うことにしよう。
どうせまた驚くのだ。気にしていても仕方ないと、無理矢理かつ強引に自分の中で割り切ってみせた。
「次に行こう、まだまだいろいろあるからな」
「ええ、お願いします」
また藍さんを先頭にして屋敷の中を進む。知れば知るほど、現実味が薄れていく。嘘か本当か区別がつかなくなっていく。
でもすぐに現実なんだと気がつく、そんな場所だった。いや、そんな場所なのだ。これからを過ごしていく場所なのだ。
信じられないのは変わらないけれど、今目の前にあるものが信じろと問いかけてくるのだ。嫌ってくらいに。
「そこから向こうまでは空き部屋だ。特に何も無いが、使いたいときは言ってくれ」
「…………」
いや、やっぱりどっちでもないか。知る度に、余計分からなくなっていった。
探索し終わった後、最初の場所へと戻った。なんだかんだでそれなりの時間が経過していたようだ。
屋敷と言うよりは、迷宮と言った方が近い。そんな建物を回ってみたが、正直一発で全てを覚えられた気はしない。
入ってはいけない場所と、入っていい場所。覚えなくてはならない場所を分けるのが精一杯だ。
最低限はなんとか記憶したつもりだが、見落としているという可能性は否めない。
襖を開いた先に何があるか。知らないままで開けば、その先に何が起こるかは分かったものではない。
一度しっかりと整理した方がいいだろう。次に何かあるのでは、お互いに困ることになる。
だがそれも後回しだ。都合よく待ってくれる訳が無い。次の話題へと進んでいくのだった。
「家事についてだが、全て私に任せてくれ。今までもそうだったからな」
「………いえ、それは流石に」
この家における役割分担を考えねばならなかった。二人とはいえ、何もしないでいるのも心苦しくもある。
匿って貰っている以上、多少なりとも何かせねばなるまい。ただで置いて貰うのは本当に有難いのだが、それでは良心が疼く。
いつ帰れるか分からない以上、此処の生活に順応する必要がある。何より、一番それが手っ取り早いのだ。
そして考える時間はいくらでもある。それに全てを費やすほどでもないのだ。ならば、見ているだけでは終われない。
「………そう言われるとは思わなかったよ」
「居候みたいなものですから。多少、お手伝いはしておくべきかと思いまして」
俺の発言にちょっと意外そうな顔をする藍さん。元々全部自分一人でやるつもりだったのだろう。
これまでがそうだったのだ。紫さんと俺が入れ違いになった今、色々と違いはあっても、人数的には変わらない。
恐らくその考えなのだろう。今までがそうならば、自然とそういう考えに行きつくのは当然の帰結。
でも、俺の心情としてはそうもいかないのだ。頑張っている横で惰眠を貪るのは、少し申し訳ない気分になる。
片方が全てをやっているのに、もう片方は何もしないのはどうなのか。そんな考えが俺を突き動かした。
「家事は一通りこなせますよ」
「そうか、では明日から手伝ってくれ」
「はい」
ならば任された以上は責任を果たそうか。今、俺が出来ることをやろう。そうするしかない。
次に来る役割に向けて、頭の中でイメージを膨らませながら、手前の湯呑みを手に取り、ゆっくりと啜る。
熱すぎず、でも温すぎずという絶妙な温度加減のお茶は、喉を潤すには充分。実に美味しいお茶だった。
そして、勢いに任せて何が出来ると言ってしまったこと。それを思い返し、冷静な頭を取り戻すにも充分だった。
大丈夫だろうか、と少々の不安を抱く。こんな古めかしい場所で、それ相応の道具や設備しかないのではないか。
だが、決めた以上は引き返せない。一度言ったことを覆すのは性分ではないのだ。
「………ふぁ」
話も一段落した所為なのか、つい気が緩んで欠伸が出た。完全に油断していた、というのが本音である。
当然ながら油断していたので、手を使って隠すこともしていない。結果として、馬鹿面を見事に拝めるということだ。
正面にいれば当たり前のように見える、というかどうやっても見える。見えなければおかしい。
先ほどまで対話していれば、いわずもががなと言った所。多くを語る必要もない。
「………ふふっ」
「…………」
笑ってしまうのは極々自然のことだ。だから別に咎めたりもしない。結局は自分が悪いのだ。
ただ、そういう情けない顔を見られてしまったということについて、ちょっと恥ずかしかったりもする。
カッコつかないねぇ、所詮何処まで行っても三枚目かと、そんな自分に対する評価を下す。
昔も、今も、そして未来も。きっと変わりもしないのだろう。未来なんて見えないくせに、そう思ってしまった。
「………面白い顔してました?」
「そうだな。とても人前では見せられないような顔をな」
それは是非一度拝んでみたいものですね、と考えたが、自分の顔を見ても面白くないので止めた。
だが、それでも藍さんが笑っているのを見ると、おかしなことにそれでもいいかと思ってしまうのだった。
最初は狐だからと、妖怪だからと必要以上に怯えていた。だがどうだろう、藍さんは気さくに話しかけて、緊張を解してきた。
そしてその思惑通りになった。限りなくいつも通りに近い自分になっている。本当に不思議で、化かされたんじゃないかと思う。
けれど藍さんからは、俺に対しての敵意は感じない。むしろその逆、こちらに興味を持っているように見えた。
でもどうしてだろうか。会って間もないのに、どこか親しみを感じてしまうのは。気を許してしまうのは。
――――そうだ。藍さんも何故、俺を警戒しないのだろうか。普通ならば、もっと警戒するはずだが。
紫さんの言葉に従うから、といえば納得はするが、どうもそれ以上な気がするのは、勘違いか?
「………昨日に続いていろいろあったんだ、まだ疲れているのなら、少し寝てきてもいいぞ?」
ほら、何故かこうやって気をつかってくれる時も、言葉の裏にある何かがある気がするんだ。
その正体は掴めないけれど、でも何かがあることは分かる。悪意ではなく、それ以外の何か。
好意というよりは、興味が近いかもしれない。九尾の狐に関心を持たれるとは、まるで伝承のよう。
人と関わりを持った九尾の狐ならば、人間に対して友好的なのは説明はつく。が、それだけでは納得は出来なかった。
様々な要因が頭に浮かぶけれど、どれが正解かは確信が持てない。アタリかハズレか、区別の付けようが無い。
「瞼も大分下がっているように見える、眠たいんだろう?」
「………ええ、まあ」
「ならいいさ。休んだほうがいい………何、時間になれば私が起こしに行くよ」
でも、俺に対して優しく接してくれることは本当だ。どう思っていようと、それは信じるには充分すぎる。
非常に有難いことだと思う。何も分からない今、助けになるのは彼女しかいないのだから。
そうだ。あの時の夢で思ったように、生かすも殺すも全て目の前の狐が決めること。俺にその権利は無い。
だが、もしそれがその通りならば。すなわち俺が――――――――。
「そうですね…………では、すみませんが失礼します」
「ああ、おやすみ」
――――今考えるのは無理だ。何もかも全て整理して、把握するには時間がかかる。すぐには終わりそうにも無い。
疑問と課題は尽きない。山のように積み上がったそれらは、すぐにカタをつけるにはあまりに難しすぎた。
また明日があるさ、休めばまた何か分かるようになるだろう。楽観的に受け止めて、居間の襖を開き、自分の部屋へと向かう。
これから始まっていくのだという期待と不安、両方を抱えながら、どうなるのかを想像しても尽きることは無いけれど。
ただ今は、休みたい。俺はもう疲れたんだ。少しだけでもいいから、安らぎが欲しかった。
「狐憑き、か」
白い布団へ安息を求めて、夕焼けに照らされた長い廊下を一つ、また一つと踏みしめて歩いていく。
音を立てて軋むその音を聞く度に、慣れないと思いながらも、なるようにしかならないと思わざるを得なかった。
「おい、起きろ」
―――――誰かが俺を呼んでいる。呼ぶ声が聞こえる。遠くから、何処かから聞こえてくる。
誰だろうか、俺を呼ぶのは。だけどこの声を聞くと安心する。何故か心の均衡が保たれるような、そんな気がする。
不思議だ。聞き慣れない声なのに、どうしてかそう思えて仕方ない。思い返しても、その声に当たるのは誰か思い浮かばない。
「起きるんだ、時間だぞ」
知る限りの人物をリストアップしてみるが、その顔も名前も出てきもしなかった。おぼろげな影があるのみ。
では何だ、この声の正体は。聞こえる音の発信源、それは何処から届いてくるのか。今は、何も分かりそうもない。
目の前にいるはずなのに、見えない壁に遮られたかの如く、あるはずのモノが無いのだ。確かにあるのに、見えない。
そして、次に起こったのは大きく揺さぶられる感触。揺れる、世界が揺れていく。上下左右にと動きまわる。
自分が徐々に消えていく。意識が少しずつ形を変えていきながら、今から遠ざかろうとしていくのだった。
「―――起きたか?」
はっきり聞こえた声と共に、少しだけ霞む視界の先。右側からこちらを覗きこむ顔がよく見えた。
金髪金眼の美女。お目覚めとしては最高の場面でもあるが、その顔の延長上に見えるあの尻尾が、人では無いことを示していた。
揺れ動くあの九本は、まるで扇を広げたかのように大きく見える。随分と触り心地の良さそうなもふもふがある。
狐。その単語が頭の中で出てくるのに時間はかからなかった。同時に、目の前にいる"誰か"が何かを思い出してもいた。
考えるよりも早く、反射的に言葉が出る。気がついた時になってようやく、自分が口にしたのだと実感した。
「………藍、さん?」
「そうだ、目が覚めたか?」
そう答えると、僅かに口元の形を笑みに変えた表情を見せてきた。じっ、とこちらを見つめ続けたまま、動くことは無かった。
俺を見ている。俺だけに視線が向けられている。真っ直ぐな眼差しが届く。柔らかい、温かみのある目をしていた。
寝起きの直後に、いきなりそんなものを向けられると困る。とっさに目を背けてしまう。どうしていいか分からない。
ぐちゃぐちゃになった頭の中で、唐突に浴びせられたその顔を見てしまった。瞼の裏だろうと覚えてしまっている。
不思議だ。こんな気持ちにさせるのは何故だ。理由などあるのか、無いのか。それさえもよく分からない。
「こら、二度寝するな。起きるんだ、ほら………」
反応の無い俺に対して、藍さんは寝ている俺の腕を掴んで引き上げていく。抵抗する力も無く、ただただ引き寄せられていく。
思っていたよりもずっとずっと力は強い。寝起きの男であろうと、平気な顔をしていられる辺りが人とは違っている。
無理矢理上体を引き上げられ、藍さんとの接近を許すこととなった。もう布団には逃げられないのだった。
「起きたな?よし、行くぞ」
「え、ちょっと……」
そしてそのまま手を引いて進もうとする。勝手にこの部屋の出口へ向かって歩き出し始めていた。
止められない。踏み止まろうにも踏み止まることを許そうとはしない。そうしている間にも藍さんは前へと向かっている。
容赦無く、障子の向こう側へと行こうとする藍さん。俺のことなどお構いなし、完全にモノ扱いされている状況だ。
今日二度目の傍若無人という言葉が思い浮かぶ。だが、このままで居られないという考えが先に出た。
「……っと」
勝手に進むのならば立ち上がるしかない。止めようとしても止まらないのならば、自分もついていくしかないのだ。
引き摺られたままの体勢から右足を踏み込む。続いて左足と畳に乗せて、藍さんの力を借りずとも歩き出すようになる。
ただ、手は繋がったまま。前へと進む藍さんに引かれながら、流されるがままに居間へと向かっていく。
慌てるように、でも追い抜くことは無いように、藍さんの隣へと体を運んでいった。
「………強引ですね」
「何、起きたのならいいだろう?」
悪びれもせずそう返ってくる。全く、と思いながらも内心は笑ってしまっていた。
美人に触れられるのならば、と思いもしていたが、それ以上の何かを感じてもいた。それが何かなのかは――――分からなかった。
しかしながら、こうして居られる今に少し安心出来ていた。それはきっと………この行動が、この手がその正体なのだろうか。
そして、もうひとつ聞こえる声。誰かも知らないのに、何処から聞こえてくるかもわからないのに、その声を耳にした。
――――――全く、仕方の無いやつだ。まあ、それでも悪くは無いか―――――――――――
「今日から此処に住むのなら覚えておいてくれ。起きない奴には、いつもこうするのさ」
「…………」
少なくともこの場に置いて、その答えが自分の中では、納得のいくものであった。
今は本当にそれが有難いと思う。何も無い今、誰かがいるだけで、それだけでも救われるような気がするから。
少し濁り始めたバケツの中身。それにもう一度浸した後、両手を使って、充分すぎる位に絞りに絞った。
もう一度全て開いた後に、自分の使いやすいように折りたたんで形を変える。掌で扱える程度の大きさだ。
四角形になったそれを手にして、先ほど拭くことが出来なかった場所を再び拭き始めた。
普段から掃除されているのか、汚れらしい汚れはない。だが塵も積もれば山となるように、集めればはっきりと分かる。
それが、あの黒くなりつつある水の正体。一見綺麗に見えていても、案外そうでもないということだ。
「随分と頑張るんだな」
「やると言ったからには、やっておかないと気が済まないんですよ」
屋敷の掃除は結構大変だったりする。この広大な敷地の建物での清掃を、効率よく行わなければ終わらない。
何かいい道具があればいいのだが、ここにはそう言う類のものは無い。つまり殆どが手作業となる。
箒、雑巾といった古くから使われるようなモノしかない。文明の利器とは程遠いようなものばかりだ。
しかし、それでも文句は言ってられない。手間も時間もかかるが、それでもやらなければならないのだ。
「律義だな」
「性分なので」
こうして喋っている間にも手を動かすのは止めない。いつまでもダラダラやっていると日が暮れる。
慣れもあるのか、始めてよりは手早く終わらせるようにはなっては来ている。あれは何処と悩むこともない。
だがそれでも全て終わらせるには、あまりにも時間がかかりすぎる。すぐに終わる訳ではないのだ。
限られた時間内に、なんとか綺麗にして次に、次に。その繰り返しだ。
「藍さんこそ、これを全てやってきたんでしょう?」
「ああ、そうだな」
家事全般を任されていると聞いたが、この屋敷の管理は藍さんが行っていると言っていい。
つまり、この掃除も全てということになる。考えるだけでも気の遠くなりそうな話だ。
ほぼ日課のようなものだとしても、よくも此処まで続けられるのものだ。素直にそう感心してしまう。
これだけ広いのだ、誰かを雇えばいいのに。そうすれば、どんなに楽になることだろうか。
「大変ですね」
「分かってくれるか?」
「ええ、とても」
こうして今も掃除が終わらない。二人でやっていても、骨が折れることばかりだ。
ひたすらに時間ばかりが食う。まだ終わりが見えないわけじゃないが、見えているからいいということでもない。
逆にまだ終わらないという事実があるということ。それが重く圧し掛かる。ため息が出ては尽きない有様だ。
どうやら、それは藍さんも同じことを考えていたようだ。人も妖怪も、そこは変わらないということ。
似て非なるものだが、全てが全て違うということではない。一番下の根っこでは同じなのか。そんなことを思う。
「毎日が大掃除の気分です」
「はは、それもいつか当たり前になるさ。一人でもできるようになるだろうよ」
笑ってそう言葉が返ってきたが、その当たり前がやってくるのは、一体いつの日になるのか?
想像しても上手く浮かび上がらないイメージ。出来るのか、と何処かで疑っている所為もあるけれど、やっぱり思い浮かばない。
ある意味これが当たり前になればいいが、今一人で自信を持って終わらせるには、まだまだと言った所だ。
一言で言うなら未熟、誰かの手を借りてようやく出来る有様だ。一人では本当に日が暮れてしまう。
これからの為にも、もっと手早く済ませなければならない。それが、今の俺の目標だろう。
「………お前を見ていると、昔の私を思い出すよ」
藍さんが唐突に呟く。過去の懐かしむような口調、今までを思い返すような言葉。
遠い昔を思い浮かべ、記憶の中にあるかつての姿を蘇らせている。回想に浸っている。そんな仕草をしていた。
正直な所、意外だと思う他は無い。藍さんが、会って間もない俺を見て思い出すことなどあるのだろうか。
その続きには一体何があるのか。その先が気になった。興味が沸いたから、続きを自然と聞くことを選んでいた。
「昔、ですか?」
「ああ、私が此処に来てすぐの頃だ。お前みたいに右も左も分からないままで、いろいろと困っていたんだよ」
「………」
「私もお前みたいだったのかなと、ちょっと懐かしくなっただけさ」
話を聞く限りだと、紫さんと藍さんはどうやら最初から主従関係だった、という訳ではないようだ。
ならば、俺と同じように何もかもが始めてだったりで、困惑したということもあったということになる。
今日より明日は、明日より明後日は。そんなことを考えていたのは、俺も藍さんも同じだったのだろうか。
ただ、藍さんがそういう姿を見せることに想像はつかない。失礼かもしれないが、ちょっと見てみたい気もした。
「似てますかね?」
「ああ、重なる部分はあるな。見れば見るほど、お前と私は似ているような気がするよ」
見た目はどう見ても似つかないけれどねぇ、と思うのだが。でも、藍さんと似ていると言われて、どうしてか悪い気はしなかった。
以前から抱えた感情は消えることなく続いている。一時的なモノでもなく、勘違いなモノでもなかった。
あの夢で藍さんと出会って以来、今もこうして一緒にいる。夢の中で出会ってからというもの、常に藍さんと共にあった。
不思議なことだけれど、終わることなく続いている。となれば、お互いに何かを持っているのだろうか。
………いや、どうだろうか。やはり、俺にはよく分からないことだ。
「私とお前は、似た者同士なのかもしれないな」
「………人間と妖怪、それなのにですか?」
「――――――ははっ、そうだな。確かにそうだった………すっかり忘れていたよ」
俺のツッコミに藍さんが笑う。今気がついた、と言わんばかりのそんな調子だ。
指摘してようやく気がつくレベル。人間であるか、妖怪であるか、それは些細なことに過ぎないのだ。
八雲藍にとって俺とはどういう存在か――――そんな大きな事実を、このやりとりで思い知った。
だが、俺もそうだった。妙な親しみやすさを秘めた藍さんは、俺の中で不思議なくらいに馴染みが早かった。
心の中に上手く入り込むというべきなのか。それでいて何故かしっくりくるという感覚。いて当たり前のような雰囲気。
人と狐のお互いに対する順応性は高いことは、これまでにも伝承が説明がつけてくれる。大いに納得はする。
ただ、やはりそれ以上がある気がする。上手く言葉にはできないけれど、あることには確信を持てた。
「でも、お前が来ていろいろと変わった。その変化も、案外悪くないと思っているよ」
けれど、何もかも分からない訳じゃない。答えが出なくても、理由など無くとも、分かる何かがある。
今はそれで充分だということ。少なくとも納得しているのならば、それ以上は必要ないということ。
「……そうですか」
「ああ」
同じように今はそれで納得するしかないのだろう。明日は分かると、また楽観的に考えていくしかないのか。
また難しい問題を抱え込んだものだと思いながらも、解決の糸口は見えそうで見えなかった。
いつになれば分かるのか。そんなことは、今日より先にならなければと言った所だ。
「さて、終わったか?」
「はい」
「よし、では次に行こうか」
終了の合図と共に、藍さんと共に部屋を後にする。雑巾とバケツを片手にして、次の場所へと向かう。
ある程度の距離を保ちながらも、遅れないように。でも近づきすぎないように、その背中を追う。
だが、意図的に見ないようにしていたのに、ふと見てしまったのがいけなかった。気を抜いてしまったのがいけなかった。
そうしてついていく時に、どうしても目に映るモノがあるのだ。なんとか視界から外そうとしても、外すことは出来ない。
無理だ。どう考えてもその後ろ姿を見るのならば、圧倒的な存在感を示すそれを無視できない。
「―――――――」
ゆらり、ゆらりと揺れる尻尾。僅かながらも動くそれは、作り物ではないことを示していた。
触れたならば触り心地が良さそうな九本。ボリュームは充分すぎるほどにあり、素晴らしいの一言に尽きる。
もし、もし触れることが許されるならば、間違いなく触りに行きたい。それくらいの魅力を秘めていた。
誘惑されているような気分が襲う。触れ、触れ、と誰かが囁く。ほら、手を伸ばせば届くじゃないか………と。
「………」
…………やめよう。何をされるか分かったものではない。そんなことをしては何より失礼だ。
動物の尻尾を安易に触ると、機嫌を悪くすることだってある。触られることが嫌なのもいる。
一度それで引っかかれたりもしたんだ。暴れまわって、大変な目にあったんだ。
伸ばした腕を下ろし、開いた手を強く握り、駄目なものは駄目なのだと、自分に言い聞かせた。
今はそんなことをしている場合ではない。欲望に忠実になりかけている自分を取り戻した。
「どうした?早く来い」
「はい」
まだ終わらないのだ、と少しだけ離れた距離を詰めるために、藍さんを追いかけることを選んだ。
「それで最後か?」
「……ええ、そうです」
片手で持った籠の中、折り重なったいくつか。手洗いを終え、汚れは充分に落ちた衣類を積み重ねたものだ。
ハンガーでかけた衣類、それを長い竿の一つにかけていく。何回も、何回も繰り返し、物干し竿を埋め尽くしていく。
縁側から物干し竿までの距離。それを往復すること何回か。その作業もついにこれで終わりとなる。
あの掃除ほど辛くもない。すぐに終わりが見える今に比べれば、どんなに手間もかからず、どんなに楽なことだろうか。
考え事をしながらでも、片手間であろうとも、すぐに終わる簡単なことだ。故に、それほど時間はかからない。
衣類が渇けばいいのだ。それはこの季節、この気温であればすぐに達成されることであった。
「すぐに乾きそうですね」
「そうだな。これだけ天気がいいとすぐに終わるだろう」
照りつける日差しは強い。春のような柔らかい穏やかさからは遠く、時折痛いくらいにまで思うほどにある。
夏という季節を感じさせるには充分すぎるくらいであり、今でもその暑さに少し辟易していたりもする。
だが、今はそれが有難いことでもある。日々の作業が手早く終わるのならば、これほど嬉しいことは無いのだ。
そして、後少しを残して終わろうとしている。ほんの少しだけ、気が和らいでいくような気分を感じていた。
一歩一歩、踏みしめていく度に。縁側へと近づいていく度に、より一層広がっていった。
「お疲れ様」
「ありがとうございます」
藍さんに労いの言葉を頂いて、それをすぐに返した。縁側に上がる前にサンダルを脱いで、真っ直ぐ進んで居間へと向かっていく。
そこに置いてあるテーブルの上、誰も口をつけていないままの湯呑み。座布団の置かれたその席へ、ゆっくりと腰を下ろした。
湯呑みを手前に引き寄せる。藍さんが入れた、相変わらず美味いお茶をゆっくりと啜りながら、一息入れた。
一段落ついた、と少しだけ楽になる。大して疲れてもいないが、手間が一つ減ったと思えば、気の持ちようも変わるというもの。
やるべきことがまた一つ終わった。それだけに過ぎないことだが、それが何より大切なことだった。
「………日に日に出来るようになっていくな」
「え?」
「家事だよ。この家の管理だ」
俺を見てそう呟く藍さんは、何処か嬉しそうな表情をしていた。まるで、自分のことのように思っているようにも見える。
かつて"俺を見ていると、昔の自分を思い出す"とそう言っていた時と同じ顔。あの柔らかい頬笑みがあった。
縦長に伸びた目には俺が見えている。来た時と何も変わっちゃいないけれど、でも藍さんから見れば違って見えているのだろう。
その言葉と、その表情。それが何よりの証明だから、今日まで俺を見てきたからこそ、それは正しいはずだから。
「………どうですかね。そんな気もしますが、まだまだでしょう?」
「はは。でも最初よりは確実に違うさ、もう失敗もしないだろう?」
「それは………まあ」
言われてみればそうなのかもしれない。確かに、何においても失敗を繰り返すことも無くなった。
早く覚えようと学んできたからか、もうそんなヘマをしなくなっている。明らかに上手くいくことの方が多い。
というよりも、失敗すること自体が珍しいことになっている。そう考えれば、確かに上手にはなったと言えるのか。
いやいや、でもまだまだ出来ないことや知らないことの方が多い。全てにおいて、未だ藍さんには到底敵わないことだ。
「お前が頑張った分、私が楽を出来るようになってきているんだ。それは本当だよ」
「…………そうですか」
でも、その言葉で少しは救われる。やってきたことが無駄じゃなかったんだって、意味があったんだって分かるから。
最初は出来なかった、でも今は出来る。そのおかげで藍さんが少しでも助かっている。ならば、それは価値のあることだ。
やってよかったと思う。その対価がこの言葉だと言うなら、大きすぎる見返りな気がしないでもない。
ただ、次も頑張ろう、とそんな気持ちが自然に生まれてくる。自分から何かしてあげたいと、そう思えてしまうのだった。
不思議だ。何がそうさせるのか、自分を動かすのか。活力の源は目の前にあるのに、理由は分からないままだった。
「ああ、ずっとここにいてもいいくらいだよ」
「………その分だけ楽が出来るから、でしょう?」
「その通りさ」
一瞬だけ思いもよらない言葉に戸惑ったが、ありえないだろうという考えがよぎった。だから、いつも通りの反応で返す。
まさかということを頭の中で浮かべなかった訳じゃない。あるいはという選択肢。でも、それは無いだろうと全て打ち消した。
目の前の笑顔を見る限り、正解でよかったとは思ってはいる。しかし不思議なことに、何処かでそれが残念だと思ってもいた。
――――いや、ただの気の所為だろう。少し暑さにやられただけだと、今はそう結論を出しておくことにする。そうするしかない。
何故かという問いに対して、その理由が出て来ないのだ。何度考えても行きつく先は変わらず。今回も同じだけのことだった。
「まあそんなわけで、ちょっとした時間が出来る―――――――ほら、お前が洗濯をしている間に作ってみたんだ」
「これは………」
「食べてみてくれないか?」
目の前に差しだされて出てきたものは、白い一つの器。覗いたその中には、丸い物体がいくつも転がっている。
その上にかけられた黄色い粉末と黒い液体。俺の知る限りでは、該当する食べ物は一つしかなかった。
懐かしいと思う。昔、それこそ俺がまだ子供だった頃のこと、ずっと遠い過去に食べたことのある思い出の品。
わらび餅。デンプンと砂糖、水で作られる和菓子。透き通ったビー玉みたいな餅に、きな粉や黒蜜をかけて食べるものだった。
「…………あ、美味い」
器の中にあった木製のフォークを手に取り、一つを口に運んでみる。甘い味、砂糖が入り混じったあの味だ。
それと同時に黒蜜の甘さも味わいながら、わらび餅独特の冷たさを感じながら、何度か咀嚼を繰り返した。
美味い。これは美味いと伝えようとするよりも早く。終わる前に思ったこと、考えたことが自然と口から洩れていた。
次も行こうとフォークが伸びていく。そこまでの一連の流れをようやく認識したとき、やっともう一つの声に気がついたのだった。
「………そうか、口にあったようで何よりだよ」
目の前の器の延長線上、もう一つの白い器の向こうにいる作り手は、僅かにそう呟いた。
実に自然に、喜びの表情へと変わるそんな姿に、少し心が揺らぐ。妖怪と言えども、美人であるならばなのか。
絵になる顔を間近で見れた事は幸運だし、自分の言葉で誰かに喜びを与えられたならば、これほどいいことは無い。
偶々出てしまった一言、思いもよらなかった一言だけれど、結果としては万々歳と言った所だ。
「本当、藍さんは料理が上手ですね」
「………その言葉、何回目だ?」
「何度も言いたくなるってことですよ」
口調こそぶっきらぼう、実にそっけない反応と言った所だ。ただその表情を見る限りでは、とてもそうは思えない。
褒めて貰って嬉しいと、如何にもという笑顔を見せているのだ。嬉という感情を、その顔で充分に示している。
気が付いているのだろうか。自分が今、どんな顔をしているのか。どんな姿を見せているのか、分かっているのだろうか。
この反応を見た以上、恐らく知らないのだろう。今ここに藍さんに鏡を向けたならば、きっと面白いことになりそうだった。
「その、自信持っていいんじゃないですかね」
「………」
「俺は藍さんの料理、大好きですよ」
賛辞をもう一度送る。言っても足りないくらいだから、伝わるまで何度でも言いたくなるんだ。
大多数が俺と同じことを言うと思う。美味いか不味いかという問いに対して、どちらを選ぶかを考える必要はない。
そう思っていることは本当だから。始めて藍さんの手料理を口にしてから今日に至るまで、ずっとそう思って来たんだから。
食べさせて貰っている今、それが作り手に対する一番のお礼だから。惜しみない言葉を藍さんに送るのだ。
ああ、だから決して―――――――藍さんをからかうなどという意図は断じて無い。無いのだ。
「………そうか」
ちょっと照れくさそうにして、藍さんもフォークを手に取り、わらび餅へと伸ばしていく。
褒められることに慣れていないのだろうか。恥ずかしそうな姿を見せているのは、その予想が正しいのか。
俺から目線を切って、何でもないかのように振る舞おうとしているが、珍しく上手く隠し切れてはいない。
少し頬を赤らめながら、そっぽを向くという藍さんの知らない一面を、この目で垣間見ることが出来たのだった。
「………ふふ」
続く言葉は、聞こえるか聞こえないか。それくらいの声量だろうし、本人も気が付いていないかもしれない。
でもそんな声は俺の耳に響いた。その反応で、俺の言葉はちゃんと届いたのだと、そんなサインを受け取った。
そして、俺も自然に少し口元が笑っていくのを止められぬまま、次のわらび餅を口にしていった。
今日はどうにも寝つきが悪いようだ。寝返りを打つこと数十程になって、眠れないことに気がついた。
体は疲れているはずなのだが、脳はしっかり動いている。その所為か、どうにも眠れない。
ここ最近はいろいろとありすぎた所為だろうか。覚えることも沢山あった。
それもあってか、常に脳を動かし続けてきた。毎日が違うことばかりで、何もかもがかつて遠い日々に思えた。
早く適応しようと頑張った結果、それなりに覚えられるようにはなってきた。が、思っていた以上に負担が来ているようだ。
知らない所で、いろいろとストレスを溜めこんでいるのかもしれない。自律神経の乱れと言った所なのか。
とっくに夜中、丑三つ時に差しかかろうという頃になっても、一向に眠気は訪れない。逆に冴えに冴えている。
困ったものだ。このままでは昼間にダウンしてしまうだろう。だが、それでもどうにもならないのもまた事実だった。
「――――――」
仕方が無いので、外の空気を少し吸うことにする。気分転換でもすれば、多少は変わるかもしれない。
そうして縁側から向こうへと抜けようとした先、佇む人影のようなものを見つけた。
少し遠い向こう。その奥はこの時間帯では昼間ほど鮮明には見ることは出来ない。ただ、それでも見えない訳じゃない。
月明かりに照らされて見えるのは、風に揺られて動いている九本の尻尾。それを見て、誰かは考えなくても分かる。
「藍さん」
「ん?…………ああ、お前か」
呼びかけてみれば、こちらに気がついて振り返ってくれた。口元だけを笑みの形にして、俺を見つめていた。
その姿を見て思い出すのは、夢の中で出会った時。そして二度目の邂逅、此処に辿り着いた時のこと。
巡りに巡る展開にほぼ流されっぱなしだったが、今はもうそんなことはない。光のように駆け抜けた日々は、もう通り過ぎたのだ。
今は、忙しくも平和な日々。いつまで続くのかは分からないが、そんな生活が続いていっている。
「どうした、もう寝たんじゃなかったのか?」
「いえ、少し目が覚めてしまったので、外の空気を吸いに来たんですよ」
此処に来た理由を述べる。昼間の青々とした空とは違い、すっかり暗くなった夜空を見上げた。
やはり都会にいた頃の空ではなく、実家に帰省した時と同じ空が真上に広がっている。
遠い遠い向こう側に光る星空、数えようとしても数え切れないくらいにある。全く違う場所でも、見上げた空は変わらないのか。
人が生み出した明かりは無く、濁ったような空気も無い。どこまでも暗い空と、点々と転がる小さな輝き。
いつ見ても綺麗だった。いいものは何度も見たくなるが、やはり何度見てもいいものだった。
「藍さんこそ眠らないんですか?」
「………本を読んでいたら、眠気が吹き飛んでしまったんだよ」
「だから、外に?」
「そんなところだ」
似た者同士、という話をしたことがあるが、どうやらその通りになったようだ。
半分冗談だと思っていたが、結局は藍さんの言葉のままになった。口に出したことが現実になったのだ。
案外馬鹿には出来ないなと思いつつも、ここは幻想郷だから、それもまかり通るのかもしれないとも思う。
言葉には魂が宿る。そんな話を聞いたことはあるが―――まさかな。なんて考えるが、ありえるのではないかとも信じてしまう。
でも、出来そうなのがまた何とも言えないことだ。目の前にいるのは、誰だ?分からない訳じゃないだろう?
そうだ。九尾の狐ならばあるいは、なんて。嘘か本当か分からないことだけど、どちらなのかは答えが出せそうだった。
「………立ち話も何だ、少し座らないか?」
「ええ、そうしましょうか」
提案に乗り、縁側の近くへと座り込む。その少し隣に、藍さんも同じようにして腰を下ろした。
今までとは違う何か、少し変な気分だ。どうしてだろうか、何がおかしいのだろうか。
………ああ、そういうことか。そう気がつくのに、さほど時間はかからなかった。
こうして隣に並んで話すことは無かった。近くても、いつもテーブル一枚挟んでいたか。何かしらの壁があった。
初日以来の接近、普段とは違うその距離。何とも言えない気持ちが芽生えそうだった。
妖怪だという恐怖心が消えつつある今、後に残った思い。美人がこうして横にいるという事実が、頭の中を満たしていく。
より意識すればするほど加速していく。一が二になり、二が四になり、というように膨らんでいく。
今もこうしている間も、少しずつ大きくなりそうだった。だが表向きはそれを出さまいと、いつも通りを装う。
「………少し涼しいな」
「風がありますからね」
「随分と、気持ちがいい」
夏真っ盛りといった天気。気温そのものはさほど暑いというわけではない。
ただ、夏は四季の中で一番温度が高くなる。太陽が沈んだ今、涼しく感じるのも当たり前のこと。
珍しく風も吹くこともあって、思った以上に涼しく感じている。エアコンも、扇風機も必要無いくらいだ。
焼けたアスファルト、絶えない排気ガス、多すぎる人々。それが常にあるような、熱気の籠る都会とは程遠い。
見渡す限りは山ばかり、そんな実家の田舎に近いような状態ではある。完璧に現代とは切り離された今、最も近いのはそれだ。
正に自然そのものと対面していると言っていいだろう。失われたモノたちと、向き合っている。
「寝るにはちょうどいいくらいだな」
「寝れませんけどね」
「違いない」
そう言って笑う藍さんは、見ていてとても気分が良くなる表情をこちらに向けてきた。
その姿につられて俺も笑う。自然に笑顔に変わっていくのを止められなかった。そんなお互いを見ていた。
静まり返った夜の中、俺と藍さんの声だけが響く。本当に、それ以外には何も無かった。
真っ暗な闇の中、光は月だけ。明かりも碌に無いような所で、縁側の上で、二人座ったまま笑い合っていた。
それが心地よくて、寝れないことのイライラも忘れてしまいそうなくらいだ。いや、忘れかけていたか。
「いっそこのまま朝を迎えるか?」
「………昼に寝てしまいそうですが」
「冗談だよ」
「………」
その割には、かなり本気だったように聞こえたが。ただ表情を変えない辺り、どちらかは判別できない。
目は口ほどに物を言う、とよく例えに挙げられる。しかし、騙しの上手い狐が、そう簡単に答えを教えてくれるはずがなかった。
故に少しその瞳を疑うような目で見た所で、何も変わりはしなかった。いや、むしろ逆と言うべきなのか。
再び笑って見せるその姿に、またしても上手く誤魔化された。それ以上はないと、煙に巻かれた気分だった。
なるほど、と一枚取られた訳である。流石九尾の狐。感心している場合ではないが、そう思わざるを得なかった。
「なら明日は休みでいい、何もしないでいてくれても構わないよ」
「いや、でもそれは………」
唐突な提案に思わず口ごもる。俺から見れば有難いことだが、それでいいのかと迷う。
一日も欠かすことなく手伝い続けてきたが、そろそろ休みが欲しいかなと思ってきてもいた。
そこでこの提案。いいかもしれない、なんてことを考えてしまう。望んでいたものがあるとなると、欲しいと思ってしまう。
ただ、それでも言った以上は最後までやるべきだと決めているのに、それが揺らぎそうになる。
追及するはずがカウンターを喰らう有様。無様なことこの上ないが、所詮俺では勝てないということでもあった。
「偶にはそういう日もあっていい、少しくらい休んでも大丈夫さ」
更に畳みかけてくる。甘い言葉、そんな誘惑に負けそうになる。
ああ、確かにそうかもしれない。ちょっとくらいは、なんてことを頭の中で思い浮かべ始める。
ゆっくり寝て起きて、そのままのんびりと一日を過ごしたいものだ。何もしなくていい日が今は羨ましい。
遠くにある向こう、山に太陽が隠れていくのをゆっくりと眺めながら、今みたいに縁側で座り込んでいたい。
目の前にそれがある。ただ首を一つ振ればいい。俺にとって、魅力的以外の何物でもなかった。
「頑張っているからな、まあ、ご褒美みたいなものだと思ってくれ」
「………そうですか?」
「ああ」
ついに陥落した。つい、と言ってもほんの少しの出来事、十分にも満たない孤独な戦いではあったが。
負けたのだ。俺は自分に勝つことが出来なかった、それだけのことだ。だから、望んでいた休みを得たということ。
ちょっとだけ………いや、嬉しかった。負けたのに嬉しかった。残ったのは、明日一日の自由。
明日に期待を寄せてしまう。経緯はどうであれ、欲しかったモノが手に入ったことに変わりは無いのだ。
心躍る気持ち、少しだけ口元がいつもとは変わっていくのを自覚する。ただ、その後の言葉で意味合いが変わった。
「そういう訳だから――――朝まで暇潰しに付き合ってもらうぞ?」
「…………」
朝になるまで、藍さんのお相手をするということ。要は狐に一本取られた、それだけのことだった。
引っかけられたのかと気がついたのは、こちらを見て笑う姿を見てから。結局、出し抜かれたということ。
したり顔で俺に付き合えという。その言葉を聞いて、やっぱり笑ってしまう。自然とそう変わっていた。
同じ笑みだったけれど、どうしてそうなったかという過程は違う。けれど、やっぱり悪い気はしなかった。
「………仕方ないですね、そう言われたら断れません」
「………ふふ、お前ならそう言ってくれると思ったよ」
こんな美人に誘われているのならば、男冥利に尽きることだろう。そう納得しておいた。
最終更新:2014年07月04日 21:01